ライトレールに乗って/東京タワー/EXPO ‘70
鶴山裕司
ライトレールに乗って
東京駅から十八時十三分の上越新幹線に乗り
越後湯沢でほくほく線に乗り換えて富山に帰省する
富山駅北口に出てライトレールに乗る
数年前にできた新型の路面電車で
白を基調にしたフロント全面ガラス張りの美しい車体だ
実家に着き遅い年越し蕎麦を食べる
元旦の朝には母親が作ったおせちをいただく
父母は健在だが年老いた
数年前には家の近くに墓所を買って
もう人生の店じまいを始めている
富山市街に用があるときは
彼らもライトレールに乗って出かけてゆく
元は富山港線という名のさびれた国鉄の単線
終点は岩瀬浜で母親が生まれた町がある
子供の頃 この土地が嫌いだった
晴れた日に岩瀬浜の浜辺に立つと
目の前にはどこまでも青く霞む海
背中には雪をいただいた切り立つような立山連峰
まぶしいほど美しい自然に包まれながら
この土地に閉じこめられたような息苦しさを感じていた
でも今は その先があることを僕は知っている
岩瀬浜を抜けると背の高い松林が続く浜黒崎
常願寺川にかかる今川橋を渡れば
父親が生まれた水橋町だ
大正七年の米一揆で有名だが
なんのことはない 半農半漁の貧しい町なのだ
でなければ今よりもずっと強大だった官憲に
漁民の女房たちが詰め寄ったりはしない
僕はこの土地の歴史から生まれた
それを受け入れるまでにずいぶん時間がかかった
今ではこの土地が
地理的にも 心の中でも
果てなくどこまでも拡がり続いている
またライトレールに乗って富山駅から東京に向かう
ときおり「今年は雪のうてよかったねぇ」と話していた
乗客の言葉が
大宮あたりで急に
「さあ明日からまた仕事だ」と標準語に変わることがある
暖かさと冷たさが入り交じる闘いの言葉になる
僕も僕の闘いの場所に帰る
横浜の団地の
小さな明るい一人だけの仕事部屋に帰る
東京タワー
「世の中でいちばんかなしい景色は
雨に濡れた東京タワーだ」
と書いたのは江國香織さんだけど
僕が初めて東京タワーを見たのは
いや登ったのは
一九七二年の八月五日だ
東京タワー展望記念とある小さなメダルの裏に
その日付は彫られている
子供の頃使っていた机の引き出しを整理していて
たまたまそれを見つけた
七二年の夏休みに
なにを思ったのか父親が東京への家族旅行を計画したのだ
万博の時は親戚一同貸し切りバスで大阪に向かったが
この時は父母と姉と僕の四人で列車に乗った
泊まったのは父親が出張でよく使っていた
本郷の古びた旅館だった
夜は近くの後楽園球場に都市対抗野球を見に行った
この旅行の半年ほど後
ひょっこり富山の会社を訪ねてきた旅館の元番頭さんに
父親は寸借詐欺にあうことになる
富山に遊びに来ていて財布をなくしたと話したらしい
「今日は困っとる人助けて ええことしたがいね」と
誇らしげに家族に言った父親の顔をまだ覚えている
それから十年以上経って僕は東京の大学に進学したが
その時にはもう東京タワーは
どこからでも見える塔ではなくなっていた
都心の高層マンションの住人のものになっていた
東京タワーが気になるようになったのは
やはり例の東京スカイツリーが隅田川沿いに見え始めてからだ
東京タワーも年取ったってことだ
僕が一番好きなのは
皇居の横を走る日比谷通りから見えるタワーだ
低層の東京プリンスホテルに突き当たるまで
車の中からずっとタワーを見ることができる
上京した頃 夢に東京タワーが出てきたら
もう東京に慣れたってことだなと思ったことがある
でも いまだに東京タワーの夢を見ない
横浜に住んでいるのに
いつも富山の実家の夢を見る
それに僕が東京タワーに登ったのは
一九七二年八月五日の一度きりだ
それ以来ずっと
東京タワーを見上げている
EXPO ’70
ある人によると
僕らの世代は『大阪万博に行った人』と
『行けなかった人』に分類されるそうだ
幸運なことに
僕は万博に行った一人だ
1969年のなかば頃から
テレビや新聞は
万博がどれほどすばらしいのか
そこに行けば
どんなに輝かしい人類の未来が見られるのかを
しきりに宣伝していた
だから僕は1970年がまちどおしかった
69年の大晦日
紅白歌合戦を見てから
僕は胸高鳴らせて布団に入った
目がさめたら
まったく新しい世界が始まっていると信じて
でもなにも変わっていなかった
去年と同じおせち料理が出て
去年と同じ額のお年玉をもらって
テレビ番組だけがちょっと変わっていて
僕の好きなアニメが放送されなかった
でもやっぱり素晴らしい年の始まりだった
僕は万博に行くことになっていたのだから
70年の暑い夏の盛りに
マイクロバスを貸し切って
親戚一同うちそろって万博に出かけた
バスのフロントガラスには
〝カネトラ一家御一行様〟という張り紙があった
カネ寅は
魚の仲買をしていた母親の実家の屋号だ
ちょっと恥ずかしかったけど
そんなこといってられなかった
なにせ僕は万博に連れていってもらうのだから
まる一日かけて富山から大阪に向かった
翌朝 会場に入るとすごい人ごみ
どこに行っても人、人、人
短気な浜っ子の伯父に先導されて
僕らは人の少ない館ばかり見て歩いた
展示はどれもハリボテめいていた
科学技術の進歩など
これっぽっちも感じることができなかった
でもそれでもよかった
僕は確かにあの万博会場にいた
夜になり出発前の駐車場のバスの窓から
僕はそのときの光景を心に刻み付けた
会場に併設された遊園地の観覧車が
オレンジ色の光に包まれ回転していた
ありふれた景色だとわかっていた
僕はこれから何度も同じような光を目にするだろう
でも僕はあの瞬間を
特別なものだと信じようとした
去年の秋に
僕は四十二年ぶりに万博会場跡を訪れた
大阪で仕事した翌日
ふと思いたって
梅田から阪急千里線に乗って山田駅に降り立った
緑に包まれた万博記念公園の中に
太陽の塔がポツンと立っているのが見えた
70年にここに来たとき
あれが岡本太郎の作品だとは知らなかった
高校生くらいになってやっと
テレビカメラの前で奇妙な顔を作って
早口でしゃべりまくる
芸術家の作品だと知った
岡本さんは亡くなってから
まるで人類の未来を予言していたかのような
すごい芸術家としてあがめられ始めているけど
それでいいのだと思う
僕たちは過去の人たちの営為に人類の叡智を見る
今生きている僕たちは
迷ってばかりいる愚か者だからだ
でも僕は
僕たちの生が奇蹟の連続だということを知っている
1970年八月、僕は九歳になったばかりで
あの日
僕の手を引いてくれた祖父母や伯父はもうこの世にいない
大きな戦争や天災を体験しなくても
今僕らが生きていることは
一つの奇蹟なのだと思う
青空に向けて両腕を拡げる
ちょっと古ぼけた太陽の塔を真下からあおぎ見て
僕は「やあ」と手をふって挨拶した
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