平成乙酉卯月追想
鶴山裕司
わたくしの伯父は
平成乙酉卯月(いつゆううづき)二十一日の午前十一時に亡くなった。
最初は膀胱癌を手術したが
癌が全身に転移した末の死だった。
臨終に立ち会った父は
「目の力がのうなって
脈拍と血圧が下がってったがよ。
それがゼロになったらぁ、
医者が黙って手ぇ合わせたがいね。
死ぬっちゅうのんは大変なことやけどぉ、
いやぁ、あっけないもんやのう」
と言った。
母は伯父の死の前日、
夜中に目を醒ますと
病院にいるはずの兄が隣で寝ていたと言った。
「どぅしたんがいね」と尋ねても
伯父は返事をしなかった。
苦しいから訪ねて来たのだ、と考えた母は
翌朝すぐに仏壇の前に座り、
亡き祖父と祖母に
伯父を苦痛から解放してやってくれるよう祈った。
伯母は一時退院して自宅療養していた夫が
小便も出ない状態になって再入院した時に
もう一度くらいは
家族が待つ家に戻って来るはずだと思った。
喪主の従兄は
お節介なわたくしの父が作った
形式ばった挨拶を葬儀で読んだ。
ただ彼の声には、
書かれた文字を超える強い響きがあった。
伯父は苦しんでいた。
人から聞かれた時にだけ
「痛いがよ」と言った。
周囲に当たることはなかった。
泣きごとは言わなかった。
死については語らなかった。
それをある人に話したら
「そういう状態で、死は、
怖くて口にできるものではない」
と諭された。
あるいはそうだったのかもしれない。
伯父の家は富山県富山市の岩瀬にある。
この町の名は美しい。
大町 御蔵町 祇園町 浜町
入船町 港町 天神町 白山町 松原町
福来町 幸町 新町 表町 浦町・・・
どの町の名の響きにも匂い立つような甘さがある。
大町は江戸から昭和の初めくらいまでは
廻船問屋の大店があった町で
かつては町の中まで運河が通じていた。
家の裏手から荷を上げ下げすることができた。
御蔵町は蔵が建ち並んでいた町で、
祇園町は歓楽街、
天神町や白山町には神社がある。
松原町はかつての松林なのだろう。
浜町や港町、入船町は町の名の示す通りで、
浦町は、
もしかすると古い時代には、
裏町と呼ばれていたのかもしれない。
今でも岩瀬町の通りを歩けば、
大きな蔵のある家や、
京都の町屋のように
千本格子を持つ商家を見ることができる。
両親が共働きだったわたくしと姉は
子供の頃、
伯父の家のある東岩瀬町と
祖母の妹が住む浦町に預けられていた。
岩瀬町では毎年五月に、
五穀豊穣と大漁を祈念する
曳車山(ひきやま)祭が行われる。
大きな車山の上に
竹や紙で作った様々な装飾を施して
町中を練り歩く。
祭りの夜には
諏訪神社の前で車山をぶつけ合う
いわゆる喧嘩車山だ。
幼い頃、車山の上には青空しか拡がっていない
諏訪神社前の坂道の天辺で、
若衆が拍子木を打ち鳴らしながら木遣歌を唄うのを
聞くのがとても好きだった。
重いも道理じゃ
やーとこせい よいやな
大福長者の金箔じゃもの
よほーいとこな
ほーらん あーらん にーわ
あららら どっこいしょ
木遣歌が終わると
ヤサーヤサという掛け声とともに
若衆に曳かれた車山が坂道を転げ下りてくる。
時には道路のアスファルトが粘土のように曲がり
車山の飾りに触れて電線が切れることもある。
岩瀬は鯔背(いなせ)が訛った町名ではないかと言う人もいる。
後生の始まり ヤーハエー
後生の始まり 聖徳太子
この坂のぼれば ヤーハエー
この坂のぼれば 諏訪の森だ・・・
諏訪神社はかつては深い森に囲まれたお社で
現世と異界が交差する聖なる土地だったようだ。
都会住の気まぐれで
十数年ぶりに曳車山祭を見に行ったら、
伯父は「好きなんか」と言って
それから毎年、岩瀬町で作った曳車山祭のポスターを贈ってくれた。
今でも図柄の違う五、六枚が手元にある。
伯父の葬儀では
かつて伯父が団長をしていた消防団の人たちが
声を揃えて木遣歌を唄い、
群がるように伯父の棺を担いで運んでいった。
いつもよりゆっくりとした歌の調べには、
この土地だけに許された
生と死についての礼節が籠められていた。
わたくしはと言えば、
喪服のポケットに手を入れて、
昔風の言い方をすれば、懐手して
伯父の棺が霊柩車に安置される様子を見つめていた。
年に一度しか帰省しない者に比べたら、
彼らの方が伯父と濃密な時間を過ごしたに違いない。
ただもはや東京で暮らした年月の方が長いはずなのに、
東京はわたくしの故郷ではない。
わたくしはどこにも所属していない
どこにも居場所のない者だ。
日々、故郷との地縁も、
血縁も、
薄れていってしまうような気がする。
伯父の家は海のすぐ前にある。
道一本隔てればもう海だ。
四十年ほど前は、
岸壁には視界を遮る大きな建物も、
鉄条網で覆われたフェンスもなかった。
町には一軒の貸本屋と
一軒の旅館と
一軒の映画館があった。
まだ車社会になっていない、
閉ざされた古い町の面影が残っていた。
映画館は歌舞伎座という名前で
昔は旅回りの一座が大衆演劇をした場所だ。
わたくしは花道のある歌舞伎座の畳の上で、
生まれて初めて映画を見た。
子供向けのアニメーションを映し出す光の中を
食べ残しの蜜柑の皮が二階席から降ってきた。
四十年ほど前には、
建て替える前の伯父の家で
弱視の祖父が
テレビに顔を近づけて大相撲を楽しんでいた。
一度も徴兵されなかった代わりに
祖父は戦争から帰ってきた親類の世話をよくした。
平成乙酉の正月に
生前の伯父に最後に会った時、
窶れた伯父の顔は
驚くほど祖父に似ていた。
伯父がベッドに起き直って
笑ったときにそう思った。
四十年ほど前には、
夕方、伯父の家の座敷に寝ころんでいると
水平線に太陽が沈むのを見ることができた。
日が落ちても
海はいつまでも明るかった。
夏には真っ暗な夜空に上がる
納涼花火を見ることができた。
【付記】
だいぶ前に書いた作品で、平成乙酉卯月(いつゆううづき)は平成十七年(二〇〇五年)四月のことである。難しい言葉を使いたかったわけではなく、近親者の死去の日付を特別のものにしたいという思いがあった。僕が意識して書いた最初の抒情詩である。
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■