第十回 溶ける硝子と心
『シングルマン』(2009年 アメリカ映画)ポスター
監督トム・フォード
溶けた石の向こう側にあるような記憶をたぐってみると、前回ご登場願ったT先生はプルーストに言及しながら、こうも言われたような気がする。「窓硝子に雨が降ると、硝子が溶けているようになるでしょう。その向こう側の景色、そんなものも、プルーストを読むとすっかり変わってしまうのだな」
家のなかにいると、雨はとくに愉しい。誰でも子供の頃に、居間の窓枠に乗りかかるようにして、あるいは自動車のドアに寄りかかるようにして、外に降りしきる雨と、その雨が硝子に描く奇妙な模様や、水滴の際限のない戯れに、何か法則性がないものかと観察した経験があるだろう。アメリカの現代画家グレゴリー・シールカーなどは、その経験をなぞるように手作業で執拗に絵具を塗り重ね、記憶を現像するかのような制作を行っている。雨は目前の景色を濁らせて異化してしまうので、道に迷ったような、郷愁に駆られるような、なんとも不思議な気分を誘うのだ。
グレゴリー・シールカー『完全な停止』2008年 © Gregory Thielker
他方、空き巣でも、酒場の喧嘩でも、いっそ手元の狂った野球少年でも構わないが、そういったものが引き起こす硝子の割れる音は、文明のなかで生活する人間にとっては身近な危険信号である。突如として轟く炸裂音は取り返しのつかない破壊を耳の奥にはっきりと刻印するし、割れた硝子が易々と肌を切り裂く様を連想させて、ついつい身震いしてしまう。
だが割れないかぎりにおいて、硝子は私たちを守ってくれる盾でもある。こちらとあちらを確かに遮断するのに、まるで何も存在しないかのように、視覚をいつもどおりに機能させる。むしろ一枚の膜を挟んでいるからか、常よりも冷静な観察を可能にする気さえするのだ。だから私たちは嬉々として向こう側を見つめるのだが、何しろ向こうからも見えてしまうので、ときおり不安になって物陰に隠れもする。
硝子や雨は映画においても重要な装置である。硝子は扱いが面倒なうえ、撮影陣が映り込まないように細心の注意を要するし、雨を降らせるには金がかかる。モノクロ映画では雨の質感を再現するために墨汁を混ぜることもあったため、苦労もひとしおである。完璧主義の黒澤明が「七人の侍」(1954年、日)のクライマックスに土砂降りのなかの激闘を持ってきたのはスタッフ泣かせのエピソードとして有名であるが、その甲斐あって空前の合戦シーンが世界中の観客を魅了した。
『七人の侍』(1952年 日本映画)スチール
監督 黒澤明
雨はこのように時代を選ばないが、硝子を効果的に用いた映画となると、やはり現代を舞台にしたものに目を向けねばなるまい。例えばファッション・デザイナーであるトム・フォードの監督デビュー作「シングルマン」(2009年、米)は、キューバ危機の翌月、1962年11月30日の出来事を描く。
ロサンゼルスの大学で教鞭をとるイギリス人のジョージは、十六年もの歳月を共に歩んだ恋人ジムの死を乗り越えられず、自殺を決意する。死を意識したその朝には、それまで軽蔑しか喚び起さなかった南カリフォルニアの鮮やかな自然も、若い肉体を誇示して浮かれる学生たちも、ひときわ眩しく目に映る。そこへ三人の人物が現れて、ジョージの最後の一日を彩るのだ。ジョージに並々ならぬ関心を持っているらしい学生のケニー。スペイン人の男娼カルロス。そして長年の女友達で、人生に絶望しながらもあっけらかんと振る舞うチャーリー。恋人の死顔を胸に抱きながら彼らのあいだをさまよう内に、ジョージの死ぬべき深夜が訪れる。
ジムを喪ってからのジョージの心に、世界と自分とを隔てる硝子の壁が立ち塞がっていることは想像に難くない。あたかも核戦争が明日にも勃発しかねない文明の斜陽である。ジョージはアメリカに暮すイギリス人であり、しかも同性愛者である。
そんなジョージの心象風景は、そのまま彼の自宅として具現化されている。フランク・ロイド・ライトの弟子であるジョン・ロートナー設計のシャッファー邸は、背の高い立木に囲まれた、大部分を硝子で覆われた邸宅である。ジョージは窓際の机で仕事をしながら、あるいは巨大な板硝子の前に佇みながら、じっと外を凝視する。硝子は傷ついた彼を守ってくれるようでもあるが、同時に、常に外からの視線に彼をさらすようでもある。思い切って硝子を突き破って外へ飛び出してもよいはずだが、それより先に彼の心がひび割れてしまうことも充分にありうるだろう。
『シングルマン』(2009年 アメリカ映画)スチール
主演コリン・ファース
ところで心がひび割れると、そこからは何がこぼれて来るのだろう。和歌であればもちろん涙ということになるのだが、その流れる涙と響き合うような沛雨が、映画にはしばしば描かれている。なかでも迫力のあるものとしては、ルイス・マイルストン監督の「雨」(1932年、米)が挙げられよう。
舞台はサモアの首都パゴパゴにほど近い密林である。コレラ流行のために足止めを食っている一行のなかには、自称伝道師のアルフレッドとその妻、そして娼婦のセイディーがいた。さっそく駐屯する兵士に色目を使うセイディーの奔放さを見かねたアルフレッドは、なんとかしてその魂を救おうとする。しかし伝道師の狂信的な信仰心がセイディーの心を溶かしたのも束の間、アルフレッドはむしろ自分のなかの闇と対峙することになる……。
映画では最初から最後まで雨が降りしきっているが、それは彼らを社会から隔絶し、自らの内奥へと向かわせるための不可欠な小道具なのである。原住民の太鼓の音に応えるように強まってゆく雨足は、ひび割れた心から浸水して魂を溺死させるかのようだ。
『雨』(1932年 アメリカ映画)スチール
主演ジョーン・クロフォード
さて、硝子も雨も私たちを閉じ込めるものだとすると、硝子に叩きつける雨は、言ってみれば二重の牢獄の表象ということになるだろう。善良な者の立場からすれば牢獄は自由を奪うものに他ならないが、社会の目から見れば、牢獄に閉じ込めておかなければならないような獣も、残念ながら確かに存在するのである。
リン・ラムジー監督の「少年は残酷な弓を射る」(2011年、英・米)はそのような獣の興味深い記録である。ケヴィンはまだろくに歩けないうちから、母親のエヴァを困らせることを明らかに愉しんでいた。トイレでの排泄を覚えようともせず、母親が近づくと無条件に泣き喚いた。しかも父親のまえでは打って変わっておとなしい子供になるので、エヴァは誰にも子育てについて相談できない。少年になるにつれてケヴィンはますます暴力的になってゆく。証拠はつかませないが、妹の片方の目を失明させたのもおそらくケヴィンである。おまけに何事にも無関心なケヴィンが唯一情熱を持っているのはアーチェリーで、そのこともエヴァを不安にさせる。エヴァはとうとう夫に「息子は異常だ」と切り出すが、夫は取りつく島もなく、反対に離婚を申し出る。そしてとうとう、ケヴィンは通っている高校で事件を起こす。
ケヴィンが母親に口をきくのは、攻撃しようとするときだけである。ケヴィンの心は最初から閉ざされているが、それはそのまま、エヴァの心が閉ざされているということでもある。お互いに牢獄のなかにいる親子には、外から救いの手をさしのべてくれる人間が必要だったのだが、世間は二人の苦しみなど知る由もない。増幅するケヴィンの憎しみは明らかにエヴァの憎しみでもあり、ケヴィンの犯罪は、無意識のうちに母親との共犯関係にある。それは観客には痛いほど理解できても、当人たちにはまるで見当がつかないのだ。
『少年は残酷な弓を射る』(2011年 アメリカ・イギリス合作)スチール
リン・ラムジー監督
「自動車という硝子に封じ込められた密室は二人にとって居心地が悪い。硝子には、止めを刺すように雨が叩きつけている」
硝子というのは私たちにとって最も身近な素材の一つではあるが、その性質については意外なほどわかっていないことも多い。例えば硝子が液体なのか固体なのかという問題は、分子の配列などが明らかになってきたことにより議論の進展は見られるものの、完全な解決には至っていない。実際、技術が未熟であった時代に作られた窓硝子は時間の経過とともに重力によって「流れて」しまい、厚さが不均衡になるので、風が吹くと隙間から奇妙な音が聞えたり、嵐の晩には雨が降りこんだりして、いかにもゴシック風の不気味さを演出してくれるのである。私たちを守るのだか閉じ込めるのだか、頑丈なのだか脆いのだかもわからない硝子という物質が、液体なのか固体なのかもはっきりしない曖昧な物質であるということは、なかなか示唆に富んでいるように思う。
セルバンテスに「ガラスの学士」という短篇小説がある。行き倒れ同然の孤児であったトマスは、青年貴族の好意から一流の教育を受けることになる。トマスはめきめきと頭角を現わし、ありとあらゆる学問に精通するようになるが、度が過ぎたのか、自分は頭のてっぺんから爪先まで硝子でできていると思い込むようになり、「ガラスの学士」を名乗るのである。脳髄は準備万端だが、世間のことは何ひとつ知らない博識なトマスは、自分は人が近づいてくるだけでバラバラに壊れてしまうと信じているのだ。
映画のなかにも同じような人物はいる。例えば超常現象を愚直に追求するM・ナイト・シャマラン監督の「アンブレイカブル」(2000年、米)である。主人公のデイヴィッドは、飛行機事故でただ一人、かすり傷さえ負わずに生還したことをきっかけに、自分が不死身の肉体と、人間離れした直感に恵まれていることを知る。しかしその事故は、人為的に引き起こされたものであった。骨の病気のため骨折を繰り返し、不幸な少年時代を送ったイライジャが、自分と鏡写しの不死身の超人を探し出すために、世界中で様々なテロ行為に及んでいたのである。つまりイライジャは絶対的な弱者を自覚しているにもかかわらず、まるで暴君のように、何百人もの人間を軽々と殺していたということになる。物語の終幕で、イライジャは嘯く。「みんな、おれのことをガラス男と呼んだもんさ」と。
『アンブレイカブル』(2000年 アメリカ映画)ポスター
M・ナイト・シャマラン監督
かくして硝子は、今日も人間の心の強さと弱さを映し出す。極彩色のステンドグラスは文字の読めない者にも教義の神秘を説き、人類の倨傲を形にしたような摩天楼は、危なかっしいほど華奢な肉体で、不必要にたくさんの硝子をまとって揺れている。そこに雨でも降りつければ、濁った窓の向こうに、地獄がちらりと見えるかもしれない。
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■