第十回 鏡の向こう(最終回)
コクトーという詩人がいた。小説家でもあった。劇作家でもあった。評論家でもあった。画家でもあった。脚本家でもあった。映画監督でもあった。肉体が許せば、バレエも踊ったろうか。少なくともディアギレフのバレエ・リュスのために、サティやピカソと一緒に『パラード』を作った。サティの曲にはタイプライターの音が使われている。拳銃の音も使われている。コクトーの父も拳銃自殺をしたのだった。そしてコクトーが可愛がっていたラディゲも、稲妻のような速度で病に斃れた。生き残ったコクトーは阿片の狼煙をあげた。それはすでに十年以上も前に出版した詩集『アラディンのランプ』から立ち上る煙にも似ていたかもしれない。コクトーは魔術が好きだった。日本を訪れたときもそこに多くの魔術を見出した。だがさすがに、自分の心臓が鼓動をやめるのを止めるわけにはいかなかった。親友のエディット・ピアフが死んだ夜、彼の心臓は悲しみのために止まったのだ。
自分の心臓を見たら、僕はもうあなたにほほえみかけることは出来まい。彼はこの無月の晩に働き過ぎる。あなたの上に寝て、僕は凶報をもたらす彼の駈歩を待ち伏せる。
(コクトー「心臓の由々しさ」より、堀口大學訳)
そんなコクトーに「オルフェ」(一九五〇年)という映画がある。言うまでもなく、日本にも類話を持つオルフェウスの神話の翻案である。
オルフェウスの神話の内容はこうだ。妻エウリュディケを蛇の毒牙に奪われた吟遊詩人オルフェウスは、妻を取り戻すために冥府へと降りてゆく。彼の竪琴の切ないほど美しい音色は獄卒どもをして涙を流せしめ、冥王ハデスとその妃ペルセポネも、すっかり心を揺さぶられて若者を救おうと決めた。だが冥王たる者、条件もなしにエウリュディケを地上へ返すわけには行かない。そこで「冥府から出るまでの間、決して後ろを振り返ってはならない」と命じた。オルフェウスは闇の中をしずしずと進む。背中には愛妻の足音がする。やがて光が見える。希望は焦燥を生み、オルフェウスは居ても立ってもいられず、うっかり後ろを振りかえる。それが夫婦の永遠の別れであった。
さてコクトーは、この神話を次のように鏡に写す。
詩人オルフェ(ジャン・マレー)は、カフェに集う文学青年の花形であった。そこへ王女と呼ばれる女(マリア・カザレス)が現れ、同行していた詩人セジェストが交通事故で死んだと訴える。オルフェは王女を手伝い、遺体を自動車で運ぶ。着いた先の屋敷には大きな鏡があった。王女はやおらセジェストを蘇生させ、二人は鏡のなかに消えてしまう。当然オルフェは追いかけようとするが、虚しくも鏡にぶつかり失神してしまうのである。やがて目が覚めると、オルフェは妻のユーリディス(M・デア)のもとへ帰るが、心は常に王女を求めてやまなくなっていた。夫の心変わりに思い悩むうち、ユーリディスもやはり交通事故で死ぬ。訃報を伝えたのは王女の運転手、ウルトビーズ(フランソワ・ペリエ)である。これを知ったオルフェは魔法の手袋をはめ、今度はすんなり鏡を通り抜けると冥府へ向かう。裁判が開かれ、オルフェはその姿を見ないという条件で、妻を現世へ連れ帰ることを許された。しかし夫の心を取り戻すことはできぬと覚ったユーリディスは、自分からオルフェを振り向かせ、姿を消してしまう。するとそこへ詩人たちが押し寄せた。彼らは友人セジェストを奪ったのはオルフェであると断罪し、集団でオルフェに襲いかかり、その命を奪う。冥府の入口でオルフェを待っていた王女はこれを見て、恋は生者の手に返還すべきであると知り、オルフェとユーリディスを再び結びつける。
コクトーによるオルフェウス神話の翻訳で何よりも際立っているのは、「鏡」という小道具に集約される此岸と彼岸の交換可能性である。こちら側にはオルフェがおり、あちら側にはセジェストがいる。こちら側にはユーリディスがおり、あちら側には王女がいる。この二組は鏡を隔てて存在するが、詩によって(死によって)融合し、かつ離反する。
コクトーが象徴に憑かれた芸術家であったことに異論は出まい。映画で狂言回しのような役割を担う道化風のウルトビーズは、すでに一九二五年の詩篇「天使ウルトビーズ」に登場している。そのモデルは夭折したコクトーの「天使」、すなわちラディゲであったとも言われるが、作中にはさらにセジェストという名の天使も登場する。これもコクトーの愛人であり、その姉と共に小説『恐るべき子供たち』(一九二九)を書くきっかけを与えたジャン・ブルゴワンがモデルであるという。
むろん、コクトーの実生活がいかにその作品に影を落としているかということは、重要であるのと同じだけ、どうでもよいことではある。しかしコクトーという詩人の精神に胚胎したイメージが、際限もなく翻訳され、また反訳され、その作品に繰り返し現れていることは指摘しておいてよい。そして「オルフェ」においては、コクトーが「十人目のミューズ」と呼んだ映画というメディアの視覚性によって、この翻訳の連鎖が「鏡」という物理的な姿を獲得しているのである。詩は合わせ鏡の無限に反響するイメージである。しかも子供のとき、母親の鏡台に座って三面鏡を両手で翼のように動かしてみたことのある者なら誰でも知っているように、そのイメージはすこしずつずれ、反転され、ふと姿を消したと思うと、反対側から突如として姿を表したりするのである。
だが、何故「鏡」が必要なのだろうか。「オルフェ」に登場する背の高い三面鏡は、冥府への「門」でもある。実際その形は門によく似ており、いかにもダンテ『神曲』に登場する地獄の門を思い起こさせる。
『神曲』の行程は、地獄から煉獄、天国へと至る。詩人の真実への旅は地獄から始まるのである。古代ローマの詩人、ウェルギリウスに導かれて、ダンテは門前へとさしかかる。門に記された銘文は、門の一人称の語りの形をとる。
憂の国に行かんとするものはわれを潜れ。
永劫の呵責に遭わんとするものはわれをくぐれ。
破滅の人に伍せんとするものはわれをくぐれ。
正義は高き主を動かし、
神威は、最上智は、
原初の愛は、われを作る。
わが前に創られし物なし、
ただ無窮あり、われは無窮に続くものなり、
われを過ぎんとするものは一切の望を捨てよ。
(『神曲』地獄篇第三歌より、平川祐弘訳)
ダンテの旅もまた、喪われた恋人との再会を目的とする旅である点で、オルフェウスの神話と重なり合っている。ダンテの初恋の女性であり、二十四歳の若さで逝った実在のベアトリーチェは、詩の世界に再生したダンテの手によって、ついに彼岸に見出されるのである。したがって地獄の門もまた、「オルフェの鏡」にほかならない。
地獄の門というモチーフに魅せられた芸術家は枚挙にいとまがないが、夏目漱石もその一人であった。
若い漱石は孤独な留学先でロンドン塔を見物するうち、狂気の発作と言っても大過ない幻惑に巻き込まれる。そして何かに追われるように塔門を駆け抜けた彼はこう告白する。
門を入って振り返ったとき
憂の国に行かんとするものは此門を潜れ。
永劫の呵責に遭わんとするものは此門をくぐれ。
迷惑の人と伍せんとするものは此門をくぐれ。
正義は高き主を動かし、神威われを作る。
最上智、原初愛。我が前に物なし只無窮あり我は無窮に忍ぶものなり。
此門を過ぎんとするものは一切の望を捨てよ。
という句がどこぞに刻んではないかと思った。余は此時既に常態を失って居る。
(夏目漱石「倫敦塔」)
この漱石の訳文が、漱石の研究者でもあった平川のそれに大きな影響を与えていることは明らかである。つまり平川の『神曲』には、反訳された漱石とでも言うべき存在が写り込んでいるのだ。だが、それはさておき、注目すべきはロンドンに滞在する漱石が、このようにして自らをダンテになぞらえているということである。日本語、もっと言えば日本人というものがかつてなく翻訳の問題に直面した時代に、翻訳の不可能性に誰よりも直面することになる漱石が、ロンドンに彼岸への入り口を見たとしても不思議はない。
結局のところ、言葉とは何なのか。言語を、文化を、時代を翻訳し反訳するこの機構は、美と幸福の夢をみせる一方で、恋人たちを引き離し、兄弟を争わせ、法律を無効化する。
そんな空恐ろしい代物の影を追って好んで袋小路を徘徊する私たちには、ここ数年来の中高生が好んで用いる言葉を織り込みさえすれば成立するらしい現代文学であるとか、「正しい日本語」とやらを講釈して悦に入る国語教師くずれであるとか、もはや流行が去って死語となった頃にその墓を暴いて目新しそうに騒ぎ立てる公共放送であるとか、あるいは四十代、五十代の人々の口にもすでに馴染んでいる新語を「若者言葉」と呼ぶ役所のようなものは、何の役にも立たない。言葉について知るためには言葉をして語らしめる以外の手段はない。翻訳と反訳の降りやまぬ雨に濡れて私たちは進むのである。
あるいは単純に、言葉への愛さえあれば足りる、と言ってもよいかもしれない。ある物語のなかで、架空の世界に写し出され、フリードリヒ二世となったルートヴィヒ二世は、このように述べている。
「言っておくが、カール、不滅とは言い難い生身の人間が束になってかかっても、風に流されてゆくあの雪雲ほどの値もない塵にすぎないし、母になりたての女の唇に合わせて赤ん坊が片言で喋り出して以来、発せられるどんな言葉も、そなたのせいで飛び去ってしまった鳥の鳴き声ほどの価値もないのだ」
(マンデス『童貞王』中島廣子、辻昌子訳)
これが反訳された言葉への愛でなくて何だろう。
大野ロベルト
(第10回 最終回 了)
【画像キャプション】
「最後に鏡を通り抜けるのは誰だろう……」
ジャン・コクトー、一九二三年の肖像写真。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■