総合文学ウェブ情報誌 文学金魚

私達の故郷は日本語です。金魚屋プレス日本版は、日本語で書かれるあらゆる文学の方向を見極め、私達の精神の行く末を照らす光りを見出そうとするものです。 金魚屋プレス日本版はその光りのすべてを広義の文学と呼びます。

金魚屋プレス日本版代表 齋藤都

安井浩司論
No.001 わがお浩司唐門会(からもんえ)

No.001 わがお浩司唐門会(からもんえ)

逃げよ母かの神殿の加留多取り             『青年経』    実は安井浩司一文を安易にも引受けて以来、永い失語状態に陥っている。いちように与題からせめて一時的にも遠ざかりたい、いや願わくは永遠にといっ […]
No.018 『安井浩司墨書展』関連コンテンツ終了

No.018 『安井浩司墨書展』関連コンテンツ終了

     金魚屋では二〇一二年十月に『安井浩司「俳句と書」展』を開催し、公式図録兼書籍刊行と同時に文学金魚で安井浩司論を掲載してきた。というより文学金魚にコーナーを作ってもらい、僕の気が済むまで安井論 […]
No.017 安井浩司という劇場

No.017 安井浩司という劇場

安井は「風土性に支配されることと、そこを劇場もしくは舞台としてドラマを演じることとは別の問題」(『安井浩司選句集』邑書林)と述べている。その「劇場」「ドラマ」というワードに添って言えば、彼の句には「蛇」「貝」「鳥」「鼠」 […]
No.016 前衛の不幸

No.016 前衛の不幸

  春鷲や翼の脱臼するひびき   『汝と我』(昭63)   一羽の鷲が、雄々しく天を滑空している。さらなる高みへ向かおうとはばたいた瞬間、鈍い嫌な音とともに、とつぜん翼が利かなくなる。鷲は、イカロスのようにまっ […]
No.015 非「難解」言語論 ―あるいは言語景としての安井俳句―

No.015 非「難解」言語論 ―あるいは言語景としての安井俳句―

安井浩司の句業を思うと、その凄まじさに眩暈を覚える。これまでにも幾人もの評者が安井の俳句を壮大雄渾の詩宇宙と賞賛してきた。しかし、安井俳句は余りに神格化され過ぎてしまった気がするのだ。   事実、安井の俳句営為 […]
No.014 「未だ定まらざる」時代の力

No.014 「未だ定まらざる」時代の力

このたびの安井浩司「俳句と書」展の開催を前に、『文学金魚』にて俳句誌時評を連載している私にもなんか書けと、鬼の石川編集スタッフからメールをいただいたのがつい先週のこと。もちろん俳句門外漢の私でも安井浩司という孤高俳人は知 […]
No.013 安井浩司墨書展開催の経緯について

No.013 安井浩司墨書展開催の経緯について

私は今年(二〇一二年)三月に詩集『国書』を刊行した。最初の詩集は一九九八年に出版した『東方の書』で、『国書』連作はその直後から雑誌に発表し始めたのだった。しかし途中で優先的にやるべき仕事ができたこともあって、二冊目の詩集 […]
No.012 ヤスイハイクは電気羊の夢を見るか?

No.012 ヤスイハイクは電気羊の夢を見るか?

映画的可能性-過去へ ただの映画フリークが、俳句についていったいどれほどのことを語れるというのか。ましてや安井浩司という名前すら知らない俳人だ。しかもこの俳人、生れ故郷の秋田にこもり、結社(俳句仲間の集団のことか)にも属 […]
No.011 不在の行為論―安井浩司『海辺のアポリア』を読んで―

No.011 不在の行為論―安井浩司『海辺のアポリア』を読んで―

「なぜ俳句なのか」――この恐るべき問いかけは、俳句それ自体から発せられた。安井浩司評論集『海辺のアポリア』は、書名として代表させた一篇を巻頭にしながら、俳句からの逆襲で始まっている。一体なぜこのような事態が生じたのか考え […]
No.010 風の言語―安井浩司論への序章

No.010 風の言語―安井浩司論への序章

柘榴種散って四千の蟲となれ       『汝と我』   一匹の野良犬の恐怖がほしいばかりに 四千の夜の想像力と四千の日のつめたい記憶を われわれは毒殺した。 〈「四千の日と夜」田村隆一〉   詩人は、 […]
No.009 吉岡実が教えてくれた

No.009 吉岡実が教えてくれた

 文学部の学生だった頃から、文学といえばもっぱら小説と詩を指すことだと思っていたので、正直なところ俳句や短歌にはほとんど興味が無かった。とにかく小説といえば、やれジョイスだぁプルーストだぁ、詩といえば田村隆一だぁ吉増剛造 […]
No.008 牛の尾となる心-狭量なる安井浩司私論

No.008 牛の尾となる心-狭量なる安井浩司私論

<安井浩司を囲む会>で安井氏の隣に座り、間近に氏の言動を見聞きして、その俳句から感じ取っていた印象と相当違う感じを受けた。懇親会で、<訥々とした能弁>と形容したが、これは何も悪口ではなく、思いが内に発してそれを表現する言 […]
No.007 安井ランドの気儘な散歩

No.007 安井ランドの気儘な散歩

小森陽一流に言えば、われわれ一人一人の言語能力の水準と質は、一人一人が過去に出会ったありとあらゆる他者、他物とのかかわりの総体として規定されている。安井浩司の俳句が難解なのは、そのようにして形成されてきた言語能力の水準と […]
No.006 天なる俳句-『空なる芭蕉』

No.006 天なる俳句-『空なる芭蕉』

 昨年九月に刊行された安井浩司の新句集『空(くう)なる芭蕉(ばしよう)』は、安井がここ二十数年に亘って書き継いでいる「句篇」の一部をなすが、それは後記の一文からも明らかである。    「詩篇」のエズラ・パウンド […]
No.005 精神ユニット―安井浩司論への伴走

No.005 精神ユニット―安井浩司論への伴走

たましいの仕掛け 記事は古いが「朝日新聞」(一九九三年一月一〇日付け)家庭欄「おはなし おはなし」に、河合隼雄が大橋力(別名、山城祥二)の案内で始めてパリへ出掛けてガムラン演奏に触れたときのことを書いていた。西洋の音楽は […]
No.004 投函されなかった安井浩司への三通の手紙-『海辺のアポリア』論

No.004 投函されなかった安井浩司への三通の手紙-『海辺のアポ・・・

(一通目) 拝啓  御健勝のこととお慶び申し上げます。  このたびは私どもの身の丈を越えた願いを快くお聞き入れくださり、貴殿の作品原稿を頂戴いたしましたこと誠にありがたく、同人一同心より感謝の念を申し上げる次第です。   […]
No.003 安井浩司私論-「気」ポリフォニーの基底音

No.003 安井浩司私論-「気」ポリフォニーの基底音

 Ⅰ    俳句は、二十世紀も終焉を迎えようとする今になって、ついにとてつもないものを生んでしまった。それが「世界」であることは確かなのだが、かつて見たこともない世界である。倒立した現世なのかといえばそれほど構 […]
No.002 安井文学概論-『海辺のアポリア』論

No.002 安井文学概論-『海辺のアポリア』論

 安井浩司は遅れてやって来た前衛俳句作家である。安井が優れた作家だと明確に認知されるようになったのは、それほど昔のことではない。端的に言えば一九八三年の高柳重信の死去以降、衰退に向かいつつある前衛俳句の系譜の中で、気がつ […]
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