『ターボキッド』(2015年、カナダ・ニュージーランド・米)ポスター
監督フランソワ・シマール、アヌーク・ウィッセル、ヨアン=カール・ウィッセル
英雄を持たない文明はないけれども、英雄の故郷は神話であることが閑却されると、英雄であること自体が存在意義という奇妙な怪物が生れることになる。この倒錯した英雄を量産するのが歴史を持たない超大国アメリカであることは、もはや退屈なほどに当然である。
ハリウッドにおける英雄の代名詞とも言えるスーパーマンがすでに、怪物としての英雄を見事に体現している。なるほど「スーパーマン」(1978年、米・英)とその続編「スーパーマンII 冒険編」(1980年、英)での活躍ぶりは結構だ。だがクリプトン星からやってきた孤独な異星人は強すぎるのである。地球上で英雄になるのに、髪の毛一本で500キロの重りを吊ることのできるような頑丈な肉体は必要ない。地球の軌道と反対回りに超高速で飛行して時間を巻き戻すという蛮行に至ってはもはや興醒めである。
幸い、クラーク・ケントとしての生活が長くなったからか、「スーパーマンIII 電子の要塞」(1983年、英)では主人公の人間(?)らしい葛藤が描かれている。といってもその苦悩ぶりはひどく下品だ。酒場で呑んだくれ、ピーナッツで酒瓶を割ったり、目から出した熱線でバック・バーの鏡を溶かしたりするのである。とりまく野次馬のこんな言葉が、現代の英雄の弱点を見事に抉り出している。「あんなバケモノ、二度と信用するもんか!」
酒場でまわりの客に迷惑をかける英雄の図
だが困ったことに、このハリウッドの英雄の権化が本歌取りによって量産されてゆく過程ではせっかくの葛藤が活かされることもなく、再び力を持て余した、いかにも矮小な人格を持った無頼漢が跳梁跋扈する仕儀と相なった。「インターステラー」(2014年、米・英)のような佳作も撮るものの、過大評価も激しいクリストファー・ノーラン監督による「バットマン」シリーズの新三部作(2005年、2008年、2012年)は、道楽で人助けをする金持ちが眉間に皺を寄せて手前勝手に呻吟しているだけの物語であるし、俺が自分の仕事に納得できないのもスーパーマンが悪い、と言わんばかりに先輩ヒーローに喧嘩を売る「バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生」(2016年、米)に至っては、もはや悪い冗談としか思えない。
ここまで来るとカンフル剤が必要になるのは無理からぬことではあるが、一昨年来ハリウッドで盛り上がりを見せるセクシャル・ハラスメント排斥の動きに呼応する絶好の頃合で公開された「ワンダーウーマン」(2017年、米)などはもはや映画のていをなしておらず、かえって「主人公さえ女にすれば満足なんだろう?」という冷笑が聞えて来る気さえする。
どうやら、英雄症候群ともいうべきものに罹患して久しい主流のヒーローたちをいったん離れなければ、映画における英雄の姿を相対化することはできないようだ。ハリウッドの外に目を向けよう。
正義よりも自身の悩みを優先する英雄たち
「ターボキッド」(2015年、カナダ・ニュージーランド・米)は、近代文明が滅びた後の1997年、というパラレル・ワールドが舞台。拾い集めたガラクタを売って命をつなぐ主人公のキッドはコミックのヒーロー「ターボ・ライダー」に憧れ、手作りの衣装に身を包み、自慢のバイク(自転車)で砂漠を駆ける。はしっこさだけが取り柄で腕力はめっぽう弱いが、高性能アンドロイドのアップルとの出会いに加え、運命の導きで本物の「ターボ・ライダー」の武器を手に入れたキッドは、一人前の男として自力で運命を切り拓くようになる。
「マッド・マックス」シリーズを彷彿とさせる錆びた鉄と砂のディストピアに、レトロ・フューチャーという同着矛盾に満ちた形容詞がよく似合うポップな色調を加えたところに「ターボキッド」の新味があろう。パステル・カラーのヒーローは「ターボ・ライダー」という埋もれた神話を発掘することで世界を再創造するのだが、その新しい世界には勧善懲悪などという野暮な命題は存在せず、繰り広げられる物語はむしろスプラッターじみた軽快なコメディである。
懐かしい未来の色合いは淡い
「皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ」(2015年、伊)も面白い。イタリアでは八十年代初頭に、アニメ「タイガーマスク」をきっかけに日本のプロレスが一大ブームを巻き起こしたこともあったようだが、その直前の1979年には永井豪原作のロボット・アニメ「鋼鉄ジーグ」が子供たちの人気を博している。主人公のエンツォはその日暮らしのチンピラだが、放射性廃棄物のタンクに落ちて超人的な力を手に入れる。エンツォは当然のようにその力を強盗に利用してひと財産を築くのだが、そんな彼を変えたのは悪党仲間の娘で心を病んだ少女、アレッシアだった。三度の飯より「鋼鉄ジーグ」が好きなアレッシアは、エンツォをジーグと重ね、彼に正義のために戦うよう懇願するのである。とはいえエンツォは二つ返事でヒーローになるわけではない。それどころか、ヒーローになるという宿命に抗い続けるのである。エンツォは英雄でも何でもなく、手に負えない力を与えられてしまった小さな人間に過ぎず、自分でもそれをよく理解している点で、ハリウッドのヒーローよりも賢い。
この見方を裏書きするように、作中にはバットマンへの言及もある。エンツォの力を知った敵役が、「おまえはコウモリにでも噛まれたのか?」と尋ねるのだ。実はここにはメタ的な遊びがある。エンツォ役のクラウディオ・サンタマリアは、先に挙げたノーラン版「バットマン」シリーズで主人公の吹き替えを担当しているからである。「ジーグ」と「バットマン」を付き合わせてみれば、ハリウッドのヒーロー映画から現実的なまなざし抜け落ちていることが否応なく浮かび上がってくるだろう。エンツォが作中で巻き込まれるギャング同士の抗争は、舞台となっているローマでは現実の問題である。アメリカのヒーローは宇宙人やマッド・サイエンティストとは対峙するが、核戦争や高校での銃乱射を止めてくれはしない。
現実的なヒーローはヒーローを自称しない
同様の手法は「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(2014、米)でも用いられている。主人公エディを演じるマイケル・キートンは、言うまでもなくかつて銀幕でティム・バートン版「バットマン」の主役を演じた俳優である。その後良作に恵まれず、大味な役者として評価されがちであることも、キートンとエディに共通している点であろう。作中でブロードウェイ俳優に転向しようとするエディは、自らが演じたバードマンに嘲笑されるという幻聴に苦しみ、やがて精神の均衡を失ってゆくのだが、それは「脱ヒーロー化」とでもいう過程の副作用に他なるまい。
特殊能力を持たず、あくまで復讐を目的としているため「ダーク・ヒーロー」と呼ばれることも多い「バットマン」は、このようにヒーロー像の解体にはもってこいの存在である。バットマンが赤や青の星条旗ではなく、漆黒の闇をまとっていることはそのわかりやすい表象でもあろう。だが一方で、ハリウッド的ヒーローからの脱却にハリウッド的ヒーローの存在が不可欠というのは、いかに映画界のヒーロー病が骨がらみかということを示唆しているようでもある。
ヒーローを演じた俳優はついにヒーローに転生する
巷ではこのところ、インドの英雄バーフバリが大人気である。むべなるかな、そろそろ西洋のヒーローも食傷気味、神話の恋しい頃だ。
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■