『人生タクシー』(2015年、ドイツ)ポスター
監督ジャファル・パナヒ
印象派の隆盛は画家たちをアトリエから戸外へと連れ出した。緻密さを増すほどに矩形の室内空間で窒息しかけていた美術が色と形を回復するには、退院した病人がするように、新鮮な空気で胸をいっぱいにするという手続きが必要だったのである。だが画家の多くは頑健とは言いかねる。そもそも病に倒れなければ絵筆を執らなかったであろうアンリ・マティスは、強い風に当たることをあまり好まなかったようだ。だが彼とて人間がかつてない速力を与えられた機械の時代の子供である。それどころか、刹那の感覚に身を任せたフォーヴィズムの代表者とさえ見なされている。そこでマティスは自動車の運転席から、まさに移り変わろうとする寸前の風景を描くことにした。
マティス「フロント・ガラス」1917年、クリーブランド美術館蔵
さて映画がしばしば視覚芸術の先達としての美術の後を追うのだとすれば、映画もまた自動車の走行、すなわち高速の移動、風景の流動に対する視点の固定、自由と背中合わせの密室という空間、などといった要素に関心を払うことは当然であると言えるだろう。
先月とりあげたクロード・ルルーシュも、自動車を家のように(子供のための揺りかごでもあり、恋人のための寝台でもあり、思索に耽けるための書斎でもある)使う主人公の活躍する「男と女」(1966年、仏)から十年を経て、ついに走行という現象そのものを提出している。言わずと知れた「ランデヴー」(1976年、仏)である。八分足らずのこの短編では、観客は八月の早朝のパリを疾走する自動車をひたすら眺めることしかできない。いや、自動車は一度も映らないから、自動車と共に猛進する、と言ったほうが正確だし、自動車になるのだ、と言ってもよいかもしれない。目に入るのは朝靄のなかで猛スピードに溶けてゆくパリ中心部の魁偉な建造物と路面、その両脇に死んだように並ぶもぬけの殻の自動車、そしてときおり赤く発光しては運転手に無視される信号機だけであり、耳に入るのはギアの音、タイヤの擦れる音、そしてもがくように唸り続けるエンジンの音だけである。モンマルトルの坂の上でついに自動車が停止し、運転手が駆け上がってきた恋人と抱擁を交わす最後の場面は、ただ物語を打ち切るための仕掛けでしかない。原題の C’estait un rendez-vous にしても、「デートだったのです」というほどの意味であるから、なぜそこまで自動車を飛ばしていたのかという疑問にひとまずの解答を与えるための、これはなかなか人を食った題名なのである。
現実から飛び立とうとするかのような速力でパリを走る
とはいえ、ただ疾走することに意味があるのなら話は早い。カーチェイスはもはや一つのジャンルであり、現実のカーチェイスが生中継されることも日常茶飯事のアメリカのような国においては、それは国技とは言わないまでも、いかにもアメリカン・パスタイムと呼ぶべき国民的余興である。「俺たちに明日はない」(1967年、米)のような金字塔とも呼ぶべき作品から、ハリウッドに大いに学びつつ独自の風味を盛り込んだリュック・ベッソン制作・脚本の「TAXi」(1998年、仏)およびその続編など、車両と共に疾走するフィルムの速力を眼目とする作品は枚挙にいとまがない。だがそれらの映画の大半は、要するにただ爽快なだけであって、喉元を過ぎればどんな味だったかも思い出せないような代物である。
同じタクシーでも、ジャファル・パナヒ監督の「人生タクシー」(2015年、イラン)はまた趣が異なっている。テヘラン市街をひた走るタクシーの運転手に扮するのはパナヒ監督本人である。そこへ海外映画の海賊版DVDを売る男や、交通事故で大怪我をした夫と泣き叫ぶ妻、さらには金魚鉢を抱えた奇妙な二人の老婦人などが次々と乗り込んでくる。乗客のなかにはすぐにパナヒの正体を見破る者もいれば、彼を単に不案内な二流の運転手と思い込む者もいる。パナヒは防犯上の理由という建前で、ダッシュボードに載せたカメラで街並や乗客、そして自分自身の姿を記録する。つまりここでは自動車そのものがカメラであると同時に、物語の描かれるキャンバスでもあるのだ。
この擬似ドキュメンタリー的、メタ的な手法は、パナヒがアッバス・キアロスタミの助監督として出発していることを考えれば納得がゆく。キアロスタミと言えば有名な「桜桃の味」(1997年、イラン)で、映画の枠組みを破壊するようなラスト・シーンで観客を煙に巻いたことが印象的だが、その後の「10話」(2002年、イラン・仏)ではまさに自動車を運転する女性と、同乗した人々との会話によって物語が組み立てられる仕組みを導入しているのである。つまりパナヒは師匠の方法を拝借しつつ、映画の撮られる過程そのものにより直接に光を当てることで、映画製作者を弾圧するイラン政府に対する抗議という、この作品の主張を巧みに表出させているわけである。
運転手に扮するパナヒは、見る存在であると共に見られる存在でもある
車載カメラを指差す乗客。人権派の弁護士、ナスリン・ソトゥデである
自動車という密室空間はそれ自体、得体の知れない息苦しさを演出する。スティーヴン・ナイト監督の「オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分」(2013年、英・米)は夜の高速道路をひたすら飛ばしながら主人公が電話で会話をするというだけの内容だが、一時間半にわたって緊迫感を保つことに成功している。夜であればなおさらだが、視野が限られるうえ、視界の半分以上が路面と運転席に覆われてしまう車窓からの光景は、しばしば単調で息苦しいものになる。都市や山道は、直線と曲線が絡み合う無機質な模様となって、残酷に通り過ぎてゆく。それは灰色や黒白で構成された空虚な世界である。その意味で自動車を運転する者は、自らの内奥にも目を向けざるを得なくなるのだ。
マーティン・スコセッシ監督「タクシードライバー」(1976年、米)の主人公であるベトナム帰還兵、トラヴィス・ビックルも、タクシーの運転手という職業を選ばなければあのような事件を起こさなかったかも知れない。そう考えてみると「人生タクシー」のような映画が、見る者と見られる者との関係に迫るミヒャエル・ハネケ監督の「ベニーズ・ビデオ」(1992年、オーストリア・スイス)や「隠された記憶」(2005年、仏・オーストリア・独・伊・米)などをどこか彷彿とさせるのも頷けよう。
「オン・ザ・ハイウェイ」(上)、「タクシー・ドライバー」(下)。自動車という牢獄
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■