大野露井さんの『故郷-エル・ポアル-』注(第05回)をアップしましたぁ。大野さんの自伝的小説『故郷-エル・ポアル-』の注の連載です。今回はいわゆるハーフについての注があります。最近ではハーフは差別用語じゃないかということで、ダブルと言ったりもしますが、まだどちらかに定着していません。とりあえずここではダブルとしておきませう。
今、小学校では10人に3人くらいの子供たちがダブルだそうです。将来的にはもっと増えるでしょうし移民も多くなるはずですから、少なくともさまざまな人種の日本人がいるのが一般的になるでしょうね。ただルーツと母国はまた別なわけで、ダブルとしては歴史の長い在日の方を含めて、ダブルの子たちはどこかの時点でそれぞれのアイデンティティを認識しなければならないと思います。もちろん無国籍的生き方を選ぶこともできます。
で、このアイデンティティは人それぞれ違う。コンプレックスとして作用することもあるし、特権的な場合もある。石川の友達にアメリカ人と日本人のハーフの青年がいます。とってもいい子なんですが、時々「俺、日本人なのかアメリカ人なのかわかんない、悩むよ~」と言ったりします。その子は売れっ子ファッションモデルなので、「あープラマイゼロでええんとちゃいますかー」と言ってビールを注いでやることにしております。
ただダブルの作家ならそれを、活用と言っては言葉が悪いですが、考えない手はないですね。石川は文学金魚を含め新人賞の選考に何度も関わっていますが、二次選考、三次選考までは行くけど受賞には至らない作家がけっこう多いのです。よほど優れた作品でない限り、最終選考に残る作品は一長一短です。また一作でその作家の力全部を知ることはできない。最後の評価ポイントは技術ではなくプラスアルファ要因になるんですね。
一時期ゲイであることを告白した小説が新人賞をよく受賞しました。珍しいから評価されたわけではなく、むしろ覚悟と思い切りがポイントになっていたと思います。文学に限りませんが、一定レベルを超えた作品は基本的にはどんぐりの背比べです。その中から秀作が生まれるのですが、結果として大きく差がついたように見えても本質的にはほんのちょっとの差です。どれだけ自己をさらけ出せるか、自己の根っこを抉れるかです。
もったいぶって隠し事ができるのはアマチュア作家だけです。作家として活動してゆくということは、『前作良かったよー。売り上げも十分。次は?』と求められることです。250枚ほどの小説を3作も書けば隠すことなどなくなる。5作を超えたらさらけ出された隠し事のようなものが、メタ化して普遍化してきます。作品を量産できるようになる。使えるものは全部使う、というより使わざるを得なくなるのが作家です。
■ 大野露井『故郷-エル・ポアル-』注(第05回)縦書版 ■
■ 大野露井『故郷-エル・ポアル-』注(第05回)横書版 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■