『メッセージ』(2016年、アメリカ)ポスター
監督ドゥニ・ヴィルヌーヴ
映画が文字であるとすれば、それは象形文字、しかも筆記体、あるいは連綿体でのみ書かれる文字、ということになるだろうか。写真という静止した文字、すなわち活字から出発したものが、それを高速で並べて文章を綴るようになったのだから、フェナキストスコープあたりはさしずめタイプライターといったところだが、キネトスコープを経てシネマトグラフの完成によって映画が公共性を獲得した頃には、すでに立派な筆記体になっている。つまり映像技術は進歩の結果、「手で文字を書く」というより原始的な行為に近づいたわけだ。
ときおり文字を主題とした映画が作られるのは、あるいは映画のノスタルジーであろうか。近年で印象的なのはドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『メッセージ』(2016年、米)である。
物語は言語学者ルイーズ(エイミー・アダムス)の独白から始まる。どうやらルイーズは娘を女手一つで育てていたが、不幸にしてその子供を難病で喪ったらしい。独りになったルイーズに軍部から召集がかかる。世界十二カ国の上空に地球外生命体のものと思われる飛行物体が出現し、そのまま停留した。いざとなれば攻撃するしかないが、その前に彼らの目的が何であるかを知る必要がある。そこでルイーズに通訳せよというのである。
だが宇宙人が発する奇妙な音声はどう分析しても意味をなさない。わざわざ人間の呼吸できる環境を宇宙船内に整えてくれる親切さであるから、敵意があるとも思えないが、このままではしびれを切らした人間側から攻撃をしかける事態にも陥りかねない。と、そのときルイーズは、典型的な蛸型の宇宙人が触手から吹き出す、まるで墨のような液体が、彼らの真意を伝えるための文字であることに気づく。
文字を「書く」来訪者。山水画の世界が再現される
宇宙人たちは分厚い硝子のむこうで、故郷の惑星の大気なのだろう、濃霧が立ち込めたような空間に立ちつくし、硝子を黒板のように使って文字を書いては消す。吹き付けられた墨が円を描く一歩手前で凝固するその星の文字は、一見どの字も区別が難しいが、主に末端部の太さや墨の跳ね具合で意味を変えるようだ。さらにいくつかの型を組み合わせれば、一文字で文章を丸ごと表現することも可能である。
ここで重要になるのが、作中でもルイーズによって説明される言語相対論である。「サピア=ウォーフの仮説」としても知られるこの理論では、「言語が思考に影響を与える」ことが主張される。わかりやすく言えば、多くの日本人にとっては桜色とピンクは同じ色ではないが、それは歴史を通じて受け継がれてきた桜のイメージによって、桜色が市民権を獲得しているからである。桜を特別視する文化と無縁の人間にはそれは薄いピンクであるという以上の意味を持たないだろうし、出身国によっては、フラミンゴを想起するようなこともあるかもしれない。
だが事情はさらに複雑である。ひとつひとつの単語だけではなく、言語全体の構造にもまた文化は反映される。多くの一人称と二人称を持ち、婉曲表現も豊富な日本語は、対話にあたっては常に自分と相手の地位を意識しつつ、儀礼として自らを低めたり相手を高めたりして、かつ両者の地位に合わせた表現の微調整を行うことを話者に強いる。これがひいては論争よりも調和を、実力主義よりも年功序列を、というような社会的な空気の醸成にまで繋がってゆくのである。
ルイーズが他国の対応を調べたところ、ある国ではチェス盤を使って異星人との対話を試みているという。ルイーズは青ざめる。チェスとは戦争の比喩であり、その言語世界は戦闘を示唆する意味に満ちている。作中では言及されないが、これはジェイソンとレイコフの認知言語学で説明できるだろう。文化の事象は原初から隠喩で構成されている。良いものは上にあり、悪いものは下にある、というような発想は、おそらく世界中のほとんどの文化で、打ち合わせをしたわけでもないのに共有されているのだ。そしてチェスや将棋のようなゲームは、たいてい戦争の代替品としての機能を担う。そんなものを利用してコミュニケーションを図れば、遅かれ早かれ、どちらかが王手を取るという決着に至らざるを得ないのだ。
ところで宇宙人の墨の輪のような言語は、どのような世界観を表しているのだろうか。どうやら彼らの言語では、時間というものが人類とはまるで異なる形で認識されているらしい。それは彼らが現在・過去・未来を同時に見る能力を持っているからである。そしてここで、この映画のSFたる所以が発揮される。つまり彼らの文字を習得すれば、人間にも彼らと同じような時間の認識が可能になるという仮説が立てられるのである。
この文字の円環は、循環する時間の似姿だろうか
物語の内容はここまでにしておこう。だが面白いのは、この映画で重要な役割を担うのが中国政府であるという事実である。それは八十年代のハリウッド映画の多くに日本企業が登場していたことから連想されるように、近年の西洋世界にとって中国政府の存在感が大きくなっていることとは必ずしも関係ない。むしろそれは、異星人の文字がまさに(蛸の)墨によって書かれている、という事情によるのである。中国文化の代名詞である漢字もまた視覚的な文字であり、かつ文字を構成する組織の追加や組み換えによって、理論上は無限に意味を生成することができる。(極端な実践例としては、則天武后の創造した則天文字が挙げられよう。)このような文字文化に属する人間の思考が、せいぜい三十字足らずの表音文字だけで書記を行う西洋諸国の人間のそれと異なるのは当然であり、二十世紀の哲学者たちも、しばしばこの問題に関心を払ってきた。ちなみに原作の短編小説「あなたの人生の物語」(1998)を書いたテッド・チャンは中国系アメリカ人であるが、中国語はほとんど話せないという。その意味で、黒々とした墨で書かれる円環の世界に憧れるルイーズは、他ならぬ祖先の記憶を探る原作者の姿とも重なるだろう。
もちろん、日本もまた墨の文化である。冒頭の話に戻れば、隙間なく(ただし余白を重視しながら)連綿と文字を書くこと、つまり「映画的」に文字を書くことへのこだわりは、日本人のほうが強いとも言えよう。古典の歌人たちは、着物の裾でも屋敷の柱でも、空白さえあればすぐに歌を書き散らした。
このような視点から撮られた作品には『ピーター・グリーナウェイの枕草子』(1996年、英・仏・オランダ)がある。題名の通り『枕草子』に刺激を受けたもので、父である日本人書家(緒形拳)と中国人の母(ジュディ・オング)の間に生まれた清原諾子(一説には清少納言の名は諾子である)が、『枕草子』と清少納言の幻影に導かれながら、日本と中国という二つのルーツの狭間に迷い込んでゆくという筋書きだ。いかにもグリーナウェイらしい、精緻でありながら破れかぶれなところもある本作は、どこかデヴィッド・リンチの作風を思わせるところもあり、映像(文字)の流れに身を任せる(読めるだけ読む)という以外の鑑賞方法は難しい。
書くことは愛すること。(「耳なし芳一」を思い出さない観客はいないだろう)
全体としてはお世辞にも傑作とは言えないが、現代では忘れ去られている「書く」という行為のエロティシズムを回復させ、文字を再び身体化しようという監督の意図には唸らされる。それを『枕草子』という、書くことに取り憑かれた女性の手になるテクストを利用して行おうとした着眼点も並ではない。墨の跡をなぞり、書くことのフェティシズムに溺れるうち、観客は現代的な時間概念をついに放逐し、千年の時を易々と超えるのである。
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■