『シング・ストリート 未来へのうた』(2016年、アイルランド・英・米)ポスター
監督ジョン・カーニー
花の都がパリならば、霧の都はロンドンであると相場は決まっている。しかし霧深いのはロンドンばかりではない。アイリッシュ海を挟んでおよそ八十キロのところに、隣国アイルランドの首都ダブリンがある。雨上がりの空気の澄んだ日ならば、ダブリンの港からはイングランド北西の境界、ホーリー島の岬が臨まれるという。雨上がりの空気の澄んだ日ならば、であって、そんな日は決して多くない。アイルランドの日照時間は日にせいぜい三時間、たいていは厚い雲に覆われ、ふと気づくと霧が立ち込めている。
だからアイルランドの人々の心にも霧が立ち込めている、と言うことはもはや比喩にもならないほどだ。主にイングランドとの関係のなかでもたらされた悲劇の数々は、歴史を通じて人々を確実に疲弊させてきた。また国内だけを見ても度重なる飢饉や不況、抑圧的とも言うべきカトリック教会の権威など、ここに書き連ねるにはあまりに多岐に渡る問題を抱えて右往左往することを、この島国の人々はしばしば強いられたのである。
労働者階級を見つめ続けるケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」(2006年、英・アイルランド)では、独立戦争に喘ぐ1920年代のアイルランドが描かれる
さて1985年のダブリンも、相変わらず不景気である。「シング・ストリート 未来へのうた」(2016年、アイルランド・英・米)で描かれるのは、いつの日かイングランドへと渡ることを夢みる少年少女たちの、希望と不安とが背中合わせの日々である。アカデミー賞歌曲賞に輝いた「ONCE ダブリンの街角で」(2007年、アイルランド)を監督したジョン・カーニー作品であることから期待されるとおり、本作でも音楽が中心的な装置となっている。
不況のあおりで仕事を失い酒ばかり飲んでいる父親と、家計を支えるために奔走しながら不倫にも走る母親は別居寸前(当時のアイルランドではカトリック教会の方針で離婚はできない)、すでに人生に絶望している兄は家に引きこもりがちである。父と同じ建築家を目指している姉も将来には悲観的で、主人公コナーの家庭は決して明るいとは言えない。しかもコナー(演じるのは自身も歌手の顔を持つ若手、フェルディア・ウォルシュ=ピーロ)は父の一方的な決定で、慣れ親しんだイエズス会系の私立学校から、学費の要らないクリスチャン・ブラザーズ系の公立学校へと転校させられてしまう。
コナーはさっそく偏屈な校長のバクスターや乱暴者のバリーと反目するが、その過程で仲間とも出会う。そしてある日、いつも学校のまえに所在無げに立っているラフィナに一目惚れしたコナーはどうにか彼女の気を引こうと、自分はミュージシャンであり、いまは撮影中のプロモーション・ビデオに出演してくれるモデルを探しているところだ、と口から出まかせを言ってしまう。こうしてバンド「シング・ストリート」は急ごしらえで結成されるのである。
当時は次々と現れるスターが独自の世界観に彩られたプロモーション・ビデオを矢継ぎ早に発表する、まさにMTVの黄金期であった。コナーたちはデュラン・デュランにザ・ジャム、そしてザ・キュアーと、週ごとにまるで違うバンドに夢中になり、いかにも若者らしく、音楽はもちろん彼らのファッションや思想からも、何のこだわりもなく影響を受ける。
勢いはあるが節操はないバンドが、路地裏でビデオ撮影に臨む
ところでラフィナには、すでに年上の恋人がいる。本気の恋ではないが、ロンドンに知り合いがいるというその男について行けば、ダブリンからの脱出が叶うのである。こうしてコナーには知らせずに黙って去るラフィナだったが、もちろん無責任な恋人の言葉が当てになるはずもなく、実際には住まいも仕事もまったく無計画であったことが判明し、ラフィナは飢え死にするよりはと、恥を忍んでダブリンに戻ってくる。
このことがきっかけで二人はしばらく仲違いするが、それでもコナーはラフィナを憎むことができない。兄に向かってコナーは自分の気持ちをこう打ち明ける。
She wears these sunglasses, and when she takes them off, her eyes… are like the clouds clearing to let pass the moon. Sometimes, I just want to cry looking at her.
あの子がサングラスを外すと、まるで雲が晴れて月の光が透けるみたいだ。僕はあの子を見ていると泣きたくなることがあるんだ。
霧のない世界を象徴するラフィナの澄んだ瞳
フィオナは月を隠す雲、すなわち「希望」を覆い隠す「霧」を払いのける、いわば若者たちの未来にとって象徴的な存在なのである。そしてコナーたちが高校の体育館でのライブを無事に終えると、物語は急速に大団円に向かう。コナーは兄に見送られ、フィオナと共に祖父の形見の小舟に乗り込むと、二度と戻らない覚悟でイギリス本土を目指して船出するのである。
ところで音楽経験のほとんどなかったはずのコナーが次から次へと曲を作り、ビデオを演出し、ほんの数ヶ月のあいだに地元のスターとなってロンドンを目指すというのは、確かにあまりに予定調和的ではある。だが本作の主題はそこにはない。この映画は、未来のない世界からの脱出を描く冒険譚であり、さらに言えば、本質的に抑圧される存在である少年が、大人になることで自由を手に入れる姿を描く寓話なのである。だからこそ最後の船出のシーンは、不気味なほど死の予感に満ちてもいる。若い恋人たちの乗り込んだ小舟は、アイリッシュ海の荒波をかいくぐろうというには、どう見てもあまりに貧弱なのである。
死へと漕ぎ出してゆくかのような二人
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■