『パープル・レイン』(1985年 アメリカ映画)ポスター
監督アルバート・マグノーリ
紫禁城は英語で Forbidden City(禁じられた都市)と呼ばれることからも明らかなように、あたかも中世ヨーロッパの城塞都市と比較しても遜色のないほどの威容を誇る。ほぼ一千の建物が、七二ヘクタールという広大な敷地に軒を連ねるその宮殿は、確かに城という言葉の範疇を超えていよう。おなじみの東京ドームを単位とすれば、およそ一五個分にもなるのである。
元の時代に造られた建物をもとに膨張を続けた紫禁城は、明の時代から清末に至るまで、実に五百年にわたって国家の中心であり続けた。紫とは、古代中国の天文学において天帝の居所である北極星を指す。これと周囲の星々を含む天区を紫微垣(しびえん)というが、紫禁城とはこの天上の世界を地上に写し取ったものに他ならない。つまり紫であるところの皇帝の許可なくしては、そこへ入ることも、そこから出ることも禁じられた領域、それが紫禁城なのである。
『ラストエンペラー』(1987年 イタリア・中国・イギリス合作)スチール
監督ベルナルド・ベルトルッチ
言うまでもなく高貴な色としての紫の概念は律令制の一端として日本にも輸入された。衣服令においては紫は三番目の格付けであり、その色を身につけることを許されたのは親王と諸王、それに三位以上の位階にある者だけである。その他の者にとっては、紫は「禁色」であった。
ところで興味深いことに、紫のイメージは西洋でも驚くほど変わらない。古代ローマでは政務官が、そして東ローマ帝国や神聖ローマ帝国ではそのときどきの支配者が紫を身にまとい、カトリック教会の司教も、紫の衣にその権能を代弁させたのである。
『スパルタカス』(1960年 アメリカ映画)スチール
監督スタンリー・キューブリック
要するに紫という色には、典雅さや品格といったものと同時に、それらのものを可能にするのは絶大な権力のみである、という含みがあるように思われる。前回の記事で取り上げた茶色とは裏腹に、自然界には一部の植物を除いて、紫色がほとんど存在しない。逆に言えば森深く隠された美しい花であるとか、ほとんど超常現象ともおぼしいオーロラのような特異なものにのみ紫色は許されているのであり、人工的にこれを再現することは、取りも直さずその特異さを我がものとすることを意味していよう。
そうであってみれば、最初から権力を約束されている王侯貴族の傲慢さも悪くはないが、紫を禁じられた人間がしゃにむにそれを体現しようとする姿を追いかけるほうが、物語としては爽快ではなかろうか。
例えば「パープル・レイン」(1984年、米)である。映画公開と同時に発売された同名のアルバムと共に大当たりを取り(とくにアルバムは24週連続一位、国内だけで1300万枚を売った)、まだそこそこのヒット曲がいくつかあっただけのプリンスを一気にスターの座に押し上げた。映画の筋書きには散漫な部分もあるが、良質の音楽を散りばめたロック・ミュージカルとしては充分に見応えがある。
暗に自伝的であることを想像させるなど(もちろん、実際には自伝的要素は皆無に等しいが)、巧みに観客の目を引くことに成功しているこの映画では、主人公「キッド」のミュージシャンとしての成長が描かれる。両親に精神的、肉体的な虐待を受けながら、キッドは夜な夜なナイトクラブで腕を磨く。恋人との不和や表現上の危機が重なり、夢を諦める寸前まで追い込まれるキッドだが、最後には試練を乗り越えて作曲した「パープル・レイン」で観客に認められ、仲間の信頼を取り戻すのである。
内容を書き出してみると馬鹿らしいようだが、栄光を手中にするための最後の足掻きとしてキッドが選んだのが紫色であったことは重要である。両親との軋轢から安心できる家を失い、頼みの綱の才能も他人には認められないという状態にあったキッドにとって、紫はまさに自分の本来あるべき高貴さを必死で誇示するための色であった。役名こそキッドだが、彼が映画の外で「プリンス=王子」であることは観客には自明の理である(ちなみにプリンスは本名)。つまり紫を引き合いに出すことによって、失敗に終わっていたかもしれないキッドの人生は清算され、それはスターであるプリンスにふさわしい、紫色に輝く王子の人生に接続されるのである。
『パープル・レイン』(1985年 アメリカ映画)スチール
監督アルバート・マグノーリ
ところでこの映画出演によって戦略通りスターダムにのし上がったプリンスは、その後も何度も名前を変えたり、半ば架空のバンドを仕立て上げるなどして独自の世界を更新しつづけたが(これはデビッド・ボウイにも通じるところがある)、紫という色に関しては57歳で突然の死を迎えるまで一貫して好んでいたようである。つまりおそらくは映画の成功によって紫はプリンスのテーマ・カラーとなったわけだが、紫を身にまとう変幻自在のプリンスは、どこか江戸紫の粋な鉢巻を締めた、助六の外連味を彷彿とさせるようでもある。
もう一本挙げて置きたいのが、スティーヴン・スピルバーグ監督の「カラーパープル」(1985年、米)である。
アリス・ウォーカーのピューリッツァー賞を受賞した同名小説の映画化である本作は、主人公の黒人女性セリーの四十年にわたる半生を描いている。作品の舞台となっている二十世紀の前半では、当然ながら黒人の権利向上への気運はまだ高まっていない。そこへ来て荒んだ家庭環境に置かれたセリーは、少女の頃から父親(と思われる)男性に繰り返し暴行され、子供を産まされ、しかもその子供を取り上げられるという、これ以上ない虐待を受ける。自由を切望して結婚しても、今度は暴力を振るう相手が夫に変わるだけであった。日常的に差別にさらされる黒人であるというだけでなく、男性から抑圧され続ける女性でもあるセリーは、しかしそれでも希望を捨てない。
この筋書きを見れば、紫という色が主人公の内なる品格を象徴していることは明らかであろう。葛藤を抱えているとはいえミュージシャンとして自分の望むままに生きる「パープル・レイン」のキッドとは違い、セリーの品格は、常に死の危険と隣り合わせの人生のなかから醸し出されてくるものである。物語の最後でようやく自立(それが、結局は宿命と折り合いをつけるという意味の消極的な自立であったとしても)するセリーは、確かに香り高い紫色に包まれているのである。
なお原作者のウォーカーは、当初スピルバーグが自作を映画化することには反対であったようである。移民三世とはいえ、スピルバーグのような裕福な白人に、社会の底辺に追いやられた黒人女性の物語が綴れるのか。しかし音楽を担当したクインシー・ジョーンズの説得で、ウォーカーも最終的には了承した。結果としてこの映画は、感傷的で、現実を甘く捉え過ぎているなどの批判も受けたものの、傑作として高く評価されることになった。
『カラーパープル』(1985年 アメリカ映画)スチール
監督スティーヴン・スピルバーグ
確かにスピルバーグは、何ひとつ不自由のない家庭に育ち、若くして成功しているという表面的な条件だけを見れば、抑圧される側の心情を理解するだけの想像力に恵まれていなかったとしても不思議ではない。だがスピルバーグは両親が厳格な正統派ユダヤ教徒であったため、常に周囲の子供たちとの間に違和感を抱えて少年時代を送り、差別やいじめを受けることも多かったという。このような経験が抑圧に対する根強い抵抗感を植えつけたことは明らかで、それはスピルバーグが後にナチス党員でありながらユダヤ人を救う主人公を描いた「シンドラーのリスト」(1993年)や、奴隷船で新大陸に拉致された黒人たちを描いた「アミスタッド」(1997年)を撮ったことからも窺えよう。
そもそも紫(パープル)という言葉は、語誌としては十五世紀に王侯貴族の衣の色を指す言葉として定着したものと考えられている。一方で日本語の紫は植物のムラサキと関係が深く、その意味では英欧語の菫色(ヴァイオレット)に近いかもしれない。この二つは、どちらも染料の原材料であった。また、薄紫(モーヴ)はゼニアオイに端を発する色であるが、実はこれは、一八五六年に英国の科学者ウィリアム・パーキンが偶然に開発した世界初の合成染料に与えられた名前でもあるのである。1862年のロンドン万博では、早速この色に染めたローブがヴィクトリア女王に献上された。
要するに紫系統の色は当初から服飾との関連が強く、その意味でも瀟洒な色、華やかな色の代表格である。確かに映画においても、例えばオードリー・ヘプバーン主演の「パリの恋人」(1957年、米)や「ティファニーで朝食を」(1961年、米)など、いわゆるファッショナブルであることを前面に出すタイプの作品の色使いを見れば明らかなように、紫は力強い美しさを演出する目的で気軽に多用されている。しかし「パープル・レイン」と「カラーパープル」という、題名にまで「紫」を用いた二本の映画の主題に立ち戻れば、どうやらこの色に滲む意味合いはさほどお気楽なものでもないようだ。
『パリの恋人』(1957年 アメリカ映画)スチール
監督スタンリー・ドーネン
『ティファニーで朝食を』(1961年 アメリカ映画)スチール
監督ブレイク・エドワーズ
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■