パティシエを目指していた彩子は、ある罪を犯した怖れから逃げ隠れして暮らしている。行き着いた先は、人気が陰りをみせた歌手・カオルの付き人の仕事。だが不運はつきまとい、ついに運命の大事件へと…。詩人・小原眞紀子の原案が甘やかな哀愁とともに語られる、待望の金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第3弾!

原作・小原眞紀子 作・露津まりい

 

 

 

 

 

6 段取りと計量。道具はささっと片づける

 

 

 「で、銀行の前からタクシーで行っちまったのか」

 三輪田に説明するのは、この二日間で五度目だ。

 カオル宅の食堂の椅子に坐り、彩子は受話器を握り直した。壁の時計は昼に近かった。

 「一千万以上も抱えて行くなんて、不用心にもほどがあるだろ」

 「だから、不動産屋の目の前にキャッシュを積むんだそうです。それが芸能界の慣習だって、美空ひばりもそうだったって」

 幾度も同じことばかり言っていると、だんだん本当のことに思えてくる。

 「ひばり御殿と張り合ってどうするんだ、馬鹿が」

 三輪田は溜め息を吐いた。「稼ぎすぎた御仁の税金対策だろうが。で、どこに買ったって」

 「西方の宝、ですから伊豆。堂ヶ島の辺り、と言ってました」

 「どういう占いなんだよ。ちゃんとコントロールしろと言ったろう」

 「わたしの占いはもう信じてくれません」と、彩子は答えた。

 「都合のいいことばかり言うんで、さすがにばれたようです。西の宝というのは、」

 受話器を顎に挟み、封筒から便箋を引き出した。

 新しく届いた「千住の伯母」のお告げには実際、「一.西方の宝を見よ。一.幸運の眠る場所を探せ。」と書かれてあった。

 「まったく、もう」と、三輪田は舌打ちした。

 「連絡先も確認せずに、どうすんのよ」

 「教えないんです。隠れ家だからって」

 「それじゃ、付き人つとまらんだろうが」

 「撮影が完了するまでのお約束でした。それにカオルさん、柩の引き上げが失敗したんで、頭にきてるんじゃないですか」

 三輪田は黙り込んだ。

 「それで、柩の代金は」

 「そんなことは問題じゃないそうです」

 「そうだよな、金には無頓着だもんな」

 三輪田は安心したように呟いた。

 「わかったよ。じゃ、連絡あったら知らせてくれ」

 受話器を置いたとたん、「あの、お買いになったんですか」と声がした。

 台所から出てきた家政婦が盆を抱え、目を輝かせている。

 「リゾートマンションって、よっぽど素敵なとこにあるかねえ」

 どうかしら、と彩子は言った。「大金を持ち出すための口実かもしれない」

 「だって、御自分のお金でしょう」と、家政婦はきょとんとしている。

 「それでも他人に知られたくないものを買うことはあるわよ。このところ少し、様子がおかしかったし」

 「おかしい様子って、そうでしたかねえ」と、首を傾げる。

 なんて鈍いんだろう。

 彩子は内心呆れ、苛ついた。サイドボードの粉もきれいに拭き取ってしまい、何も気づかないらしい。

 もっともこんな小母さんに、麻薬などという二文字が思い浮かばないのは当然だ。ジャンキーのカオルが失踪し、行方知れずとなった、という筋書きに自分から乗ってきてはくれないだろう。

 「そう、伊豆ってったら家政婦協会の旅行で行ったけど、暖かくって」

 家政婦はおしゃべりを始めた。こうなると止まらないのが、カオルでさえ辟易していた難点だった。

 「ちょっと急ぐから」と、彩子はカオル宅を出た。

 タカノヤの一階ロビーに降りてきた真壁は、こちらに手を挙げた。

 「CFのラッシュが出ました」と、彩子は言った。「一両日中にお見せすると、三輪田が申してます」

 「カオルさんは、どうしていらっしゃいます」

 「伊豆で骨休めしています」

 ふと、真壁の目線が心許なく泳いだ。

 が、「それで、あなたはいつまで」と訊いた。

 「企画担当は終了しましたので、今日はそのご挨拶に。カオルさんの付き人は、とりあえずバイトの子が引き継ぎます。住み込みではありませんが」

 「お引っ越し先なども、決まりましたか」

 「事後処理を済ませてから、ゆっくり考えます」

 「ちょうどいい。広報部を見ていってください」

 エレベーターを下り、廊下の扉を押し開けると、そこが広報室だった。制服の女子社員が二人、六つ向い合わせに置かれたデスクの上にパネルを広げている。三〇代の男性社員は、新製品の冷凍パスタの写真を横断幕にして壁に貼ろうとしていた。

 「居心地がよさそうですね」

 呟いた彩子に、腕まくりした男性社員が「御覧の通り。この世の楽園です」と大声を上げた。

 「ほんとに行儀が悪くて」と、真壁は苦笑する。

 「キャンペーンの準備ですか」

 「ええ。来年以降、クッキーやパイ生地を出してゆくので、あなたにモニターをお願いしたいと考えています。今年はまず例の新製品で、東京ドームのイベントに参加します」

 横断幕には「☆イタリア祭り☆」と書かれてあった。

 「そこにカオルさんのステージを開設する件で、さっき三輪田さんにお電話しました」

 

 「どうした。浮かない顔して」

 久能木は編集機のキーを叩き、「そこはかとなく、春の噂もあるというに」と笑った。クライアントの担当者が彩子をお気に入りだと、三輪田が言って回っているらしかった。

 「で、カオル宅に、いつまで足止めくらってるって」

 三輪田は、引き上げるなら本人が戻ってからにしろ、と言ってきかない。「だってそれが筋ってもんだろ。カオルはそういうの、一番嫌がるんだよ」

 「まあ、勝手なことばかり言うもんだ」と、久能木は肩をすくめた。

 スピーカーからはカオルのおしゃべりが流れている。

 話の間隙は想像が勝手に埋めるとはいえ、捏造も二本続けては厳しかった。準備したリソースの不足で話題は細切れに変化するし、タイトルコールも作れない。

 「聞いてすぐわかる曲ならいいだろ」と、久能木はやや自棄気味だった。「しかし、もう十日か。こう出てこないのは変だな」

 「最長で一ヶ月、行方不明だったこともあるのよ」

 「それは急にスケジュールが空きだして、ゴネていた時分だろ」と、久能木は言う。「だけどさ、今度のアルバムは売れるよ」

 「どうして」

 「どうしてって、ただの予感だけど」

 本人も手応えを感じてるはずだ、と彼は言い張った。

 「それにタイアップ企画だ。雲隠れしている場合じゃない。カオルってあれで結構、仕事熱心だぜ」

 やがて曲が終わり、カオルがまた低い声でしゃべりはじめていた。

 「しかし販促としては、出てこないのが正解かもしれないな」

 紙コップのコーヒーを啜り、久能木は呟いた。

 「テレビのお座敷がかかると、どこかガツガツしてるだろ。だから飽きられるんだ。CMと、この声だけで十分じゃないか」

 流れていたのは、カオルの古い曲だった。やや低く湿り気を帯び、高音は掠れる手前で遠くへ伸びてゆく。天上から漏れ落ちる光のような浮遊感を与える瞬間すらある。

 「露出したがりがすべてを裏切ってる。ずっとそんな気がしてた」

 しかし事務所は、そう思っていない。

 「興信所まで雇ってな」と、久能木は頷いた。「いればいたで面倒がるくせに。この会社にも探偵がうろうろしてるよ。ここを出たら、きっと捕まるぞ」

 スタジオを出ると、その言葉通り、痩せた中年男が廊下で待っていた。

 「こちらにいらしていると聞いたものですから」

 調査員はジュースの自動販売機の脇にあるベンチに彩子を坐らせ、スーツの上着のポケットから地図を取り出して開いた。

 地図の新宿周辺には点々と黒い印がつき、不動産業者らしき名が書き込まれている。

 「すぐ済みます。ええと、ご本人が不動産を見に行くと言い出したので、新宿へ送っていらした」

 興信所というのは警察を退職した者が勤めると聞いていたが、男は慌ただしい話し方で、警官らしいところはなかった。

 「はい」と、彩子は頷いた。

 「で、普通預金を一千五百万ばかり下ろして別れた。その場所は」

 「青梅街道と甲州街道の、たぶんここで」

 駅に近い交差点のマークを、彩子はでたらめに指差した。

 調査員は赤鉛筆で丸印をつけた。

 「新宿近辺で、堂ヶ島近辺のリゾート物件を扱っている仲介業者は全部調べました。しかし、カオルさんが訪ねた形跡はないんです」

 「さあ、仲介業者のところへ行ったのかどうかも」

 「もちろん、個人から譲り受けた可能性はあります。不動産登記も調べます。登記は省略するとしても、売買契約を結ぶなら、住民票は取るでしょうし」

 そんな手続きを、あのカオルが自分でするはずもないと言いたげに、男は彩子の顔を見た。

 「最後に話されたのは、自宅マンションにかかってきた電話ですか」

 「そうです。彼女は絶対に携帯を持とうとしないので、公衆電話からだと思います」

 「あなたの携帯に、ではなかった。それだとエリアが特定できるんですが」

 探偵は腑に落ちない顔つきで考えている。

 「もう担当を外れているんです」と、彩子は答えた。

 「自宅への電話にわたしが出たのは、たまたまです。カオルさんは、家政婦と話すつもりだったかもしれません」

 「そうですか」と、調査員は面倒そうに頭を振った。

 「できれば来週中に居所を突き止めるように、との三輪田さんの御依頼で。まあ、そうこうしているうちに、御自分でお帰りになるんじゃないかと思うんですがね」

 

 カオル宅のインターホンが鳴ったのは、翌日の昼前だった。

 家政婦が呼ぶ声に、彩子は二階の居室から降りていった。玄関先に、着物姿の女性が立っていた。

 「カオルさんと、お約束して参ったんですけど」

 「今日、ですか」

 ええ、と風呂敷包みを抱え、女は頷いた。「もしかして、お忘れになったのかしら。着付けをお教えするって」

 女は薄紫色の名刺を出した。クラブ紫の結城圭以子といえば、タカノヤの広報にカオルを紹介した元モデルのママだ。

 そのまま追い返すわけにもいかず、リビングに通した。

 「京橋のお店は一年前にオープンしたんですけど、タカノヤさんには当初からご贔屓にしていただいて。今度のCMの件、うまくいって本当にようございました」

 女はやや小太りだが、着物映えがして非常に美しかった。

 四十過ぎと聞いていたが、とてもそうは見えない。好奇心に満ちた感じのきらきらした目がいっそう若々しくみせている。

 家政婦がお茶を置いて出て行くと、「あのう、なぜカオルさんをタカノヤに」と、彩子は訊いた。

 「長いこと大ファンでしたのよ」と女は華やかな笑みを浮かべた。

 「カメラマンの白水さんにお引き合わせいただいて、感激しました」

 こんな水商売の言う大ファンは知れていた。が、女はどこか見覚えのある印象で、カオルのミニコンサートに足を運ぶぐらいのことは、本当にあったのかもしれない。

 「で、ちょうど真壁さんから、こんな広報企画で、いいタレントさんに心当たりはないか、とお尋ねがあったものですから。うちの店はモデルクラブや広告代理店の御接待にも、よく使っていただいてます」

 「ありがとうございました」と、あらためて挨拶せざるを得なかった。

 「それでカオルさんはどちらに」と、女は訊いた。「お気になさらないで。また出直しますから」

 「それが、伊豆のリゾートからいつ戻るかわからないのです」

 クラブママは突然、目を輝かせた。

 「まあ。伊豆の、どちらへ」

 「実は、どなたにもお教えしないようにと言いつけられていて」

 あら、と女は鼻白んだ。「カオルさんとは最近、とても親しくさせていただいてるのよ。先日は芦ノ湖に御一緒したし」

 芦ノ湖。あのときの。彩子は無表情を取り繕った。

 「それは、お二人で」

 「ええ、そうよ」と、クラブママはにっこりする。「お店を人に任せてお付き合いしたの。東京に戻ったら、タカノヤさんとの会食があるって言うから、旅館で着付けをしてさしあげたのよ」

 あの行方不明の三日間、カオルはこの女といたのだ。

 「何しろダイエットで悩んでらしたから」と、ママは屈託なく言う。

 「デブ隠しには着物が一番。モデル仲間で評判のいいお薬もさしあげたけど、あたしがこんなじゃ信憑性ないって」と笑った。

 「そう、あなた、彩子さんでしょ。プロ級のお菓子をお作りになるんですって」

 クラブママはさらに輝く瞳を見張った。「ねえ、ブランデーのアテになる洒落たチョコレート菓子を焼いてくださらないこと。お店で評判になったら、広告代理店の方にご紹介するわ」

 返事を躊躇する彩子に、「もちろん、カオルさんにも承諾を得なくてはね」と言う。

 「戻ったらご連絡させます」

 そうとしか答えようがないが、圭以子はいっこうに席を立つ気配をみせなかった。

 「実はね、こんなこと申し上げたくないけれど、帯締めを一本、お貸ししているの。金の蝶の縫い取りのあるものですけど」

 「カオルさんに、ですか」

 あの会食のときの帯締めだろうか、と彩子は記憶を辿った。

 「わたくし、それを仕事で使う予定がございまして。仕事って撮影なんです。年配向け雑誌の着物モデルをまだ続けておりましてね」

 さもなければ差し上げてもよろしいんですが、と美しい弓形の眉を顰める。

 「ずいぶん高価なものでしょうか」

 「ええ、まあ」と圭以子は言葉を濁した。

 が、すぐに陽気な口調で、「わたくしね、たまたま来週、また芦ノ湖の方へ参るんですの。伊豆まで足を伸ばしてお訪ねしてみようかしら」と言う。

 いえ、と彩子は急いで首を振った。

 「帯締めのことは確かに承りました。今日、明日中にでも本人に連絡を取りまして、御電話いたします」

 

 「これ以上はありそうなところ、ないでしょ」

 家政婦はため息をついた。

 ウォーキング・クローゼットと寝室をさんざん探し回ったが、金の蝶の縫い取りのある帯締めなど見つからない。そもそも着物自体、クローゼットの隅の行李にあの大輪の椿の帶とともに一式があるのみで、他に袖畳みをした覚えもない、と家政婦は言う。

 夕方、家政婦が帰ってからも、クローゼットの引出しの隅に押し込まれてやしないかと、彩子は一段ずつ探していた。

 電話する、と約束したことを後悔したが、カオルに伝えても無視されたことにすればいい、と腹を決めた。やはりここに留まっているとろくな事がない。

 その途端、帯締めなんて嘘だ、とふいに確信が湧いた。

 白水。あの男は何をどこまで知っているのか。が、あの女は、もしかして白水の差し金で来たのではないか。

 芦ノ湖で一緒だったというのは、本当だろう。だとしても、カオルの居所を聞き出そうと必死なのは隠しようもなかった。

 長いこと思案したあげく、彩子は二階の居室に向かった。

 久能木の作った捏造テープのコピーを取り出すと、隣室からラジカセを二つとコードを運んできた。

 翌朝八半時、薄紫色の名刺に書かれた店の番号に電話した。営業時間を知らせる録音が流れただけだった。

 女の自宅の番号にかけた。一種の賭だったが、この時間に水商売の女が起きて出たりはするまい。

 案の定、留守電になっていた。

 ―カオルでーす。ごめんね、また今度。

 朝までかかって自分で初めて編集した、わずかそれだけのテープを止めると、ラジカセとコードを元の部屋に戻した。

 

 家政婦が来る十時前に、彩子はカオル宅を出て、公園に向かった。

 住宅街の中の小さな児童公園には幼児が二人、砂場で遊んでいる。その母親たちはベンチでおしゃべりに夢中だった。

 彩子は反対側のベンチに坐り、バッグを開けて、ひと綴りの払い戻し用紙を出した。

 カオルが本名で署名した用紙が、まだ十枚ほど残っていた。

 あれからたびたび言いつけられ、彩子が金額を書き込んでは下ろしたものだった。カオルが面倒臭がって判までいっぺんに押そうとしたのを、危ないからと止めたのは彩子だ。

 公園に来る途中のコンビニで買った百円ライターで、用紙に火をつけた。

 灰を踏みにじり、周囲の砂利に紛れされた。母親たちはこちらを見もしない。が、注意を引かないよう、頃合いをはかって立つと、ライターと一緒に留守電に入れたテープを公園のごみ箱に捨てた。

 駐車場まではそこからすぐだった。

 彩子は周囲に目がないのを確認し、マークⅡのトランクから布製バッグを引っぱり出した。後ろの座席に乗り込み、バッグを開ける。

 一千五百万円。

 新宿の銀行で下ろしてやり、カオルが抱えて消えたことになっている金だった。

 実際、ロケの翌日、そこで彩子が下ろした。寝室の引出しにある印鑑と保険証を持ち出し、いつものように署名入りの払い戻し用紙の一枚を使った。

 もっともカオル自身、この金を使う予定があったことは確かだった。

 CM撮影の数日前、突然、カオルは定期を解約しろと言い出し、普通預金に移していた。理由を教えられることはなく、不動産でも買うつもりか、と思った。

 頭によぎったそのことを今、周囲の者がそのまま信じている。

 車の座席で、彩子はしばらく身動きしなかった。

 これからやろうと思っていることをすれば、後戻りはできない。

 しかし、そうは言っていられなかった。

 おそらく圭以子の目当てはこの金だ。芦ノ湖の宿でカオルに渡したダイエット薬とは、覚醒剤か何かだろう。さらに薬を入手するため、カオルはこの金を用意したに違いない。

 白水と圭以子はカオルを薬漬けにする目的で近づいたのだ。

 が、それに気づいたことは、何より自分の身の守りになる、と彩子は考えていた。

 今後、カオルの失踪が薬物絡みとされれば、身に覚えのある二人は姿を消すしかない。白水が自分の何を知っているにせよ、怯える必要はなくなるのだ。

 彩子は決心し、布バッグを持って車から出た。

 きれいごとは言っていられない。この金もまた、いざというときの身の守りとしなくては。かといって現金のまま隠しておくのは、いかにも犯罪者然としていた。

 彩子は代官山駅に向かった。電車の中では大金を持っている実感はなかった。渋谷に着くと、人混みに紛れて横断歩道を渡り、三井住友銀行に入った。

 「新規口座の開設でございますか」

 自分の印鑑と免許証、札束を二つ出した。

 勤め人ふうのブラウスとジャケットを着てきたが、ボーナス期には早いと思われないか不安だった。

 受付嬢はにこやかで、同時にまるで無関心だった。

 二百万円。ほんの端金なのだ。

 押しつけられた粗品を布バッグに突っ込み、その周辺の都市銀行、あまり名を聞いたことのない銀行、それと以前から口座を持っていた信金と郵便局を回った。

 金を預け終えると、駅の構内を突っ切って宮下公園に向かった。

 住み着いている浮浪者がこちらを眺めていた。洗剤やティッシュで膨らんだ布バッグごとごみ箱に捨てた。あの浮浪者が使い、消し去ってくれるだろう。

 バッグの中の七冊の預金通帳。

 もし露見したら、この金のために最初から事実を告げる気がなかったと思われるだろう。だが事実がそれほどに大事なら、事実、自分にはカオルの身に起こったことに責任はないのだ。

 

 「彩子さん、彩子さん、」

 カオル宅の玄関を入るや、家政婦が廊下を走ってきた。

 「来て、すぐに来て」

 肝が冷える思いで寝室に入ると、家政婦はベッドに跳び乗り、脇に下がったカーテンをめくった。

 「これ。血でないの、血」

 焦げ茶に塗られた窓枠の下の部分に、黒ずんだ赤い染みが残っていた。彩子は顔を近づけ、「ああ、これ」と息を吐いた。

 「ケチャップよ。カオルさんが自殺ごっこしたことがあって。部屋中にケチャップをぶちまけたの」

 自殺ごっこ、と家政婦は気が抜けたように呟いた。

 「そういえばケチャップ、えらい早く減ると思ったこと、あったわ」

 家政婦は雑巾がけの続きをはじめ、「カオルさん、まだ帰って来られんかしら」とぼやいた。

 「全然、電話もよこさないし。何かあったんでないか。そんでも、恨みを買うような人でもないし」

 彩子はベッドの隅に掛け、始まったおしゃべりに息を吐く。

 「ちっと変わったとこはあるけれども、親切だもの、いつも来るクリーニング屋さんも、お釣り銭なかったとき一万円札下さったって」

 「ねえ、相談なんだけど」彩子は言った。

 「カオルさんが戻るまで三、四日に一度だけ、掃除に来たらどう」

 家政婦は雑巾を手に突っ立ち、彩子の顔を眺めた。

 「事務所には毎日来ていることにするから。お給料はそのままで」

 家政婦は激しく頭を振った。

 「いえ、来なかった分は頂けません」

 「それじゃ、あなただって困るでしょ。いいじゃない、少しくらい」

 「そんでも頂く分は働かせてください」

 家政婦は頑強に言い張り、空の屑箱の内側を意地になったように拭き上げた。

 と、四角い木製の屑箱が持ち上げられた瞬間、彩子はその底の裏側に、何かの鍵がテープで貼り付けてあるのを見た。

 家政婦がやっと帰ると、彩子はすぐさま寝室に向かった。

 屑箱の底をひっくり返し、ビニールテープを剥がすと、鍵をサイドテーブルの鍵穴に差し込んだ。

 やはりこの引き出しの鍵だった。こじ開けて傷つけるわけにもいかず、さんざん探した鍵を、カオルがこんなところに。

 引き出しの中は、一面に白い粉が散っている。

 が、古びたコンパクトの口が開いたまま転がっていた。

 麻薬だとばかりと思っていた粉は、化粧用の白粉だったのか。

 なかば混乱としながら、引き出しを閉めようとしたが、何かに引っかかって閉まらない。覗き込むと、奥に押し込まれた写真の束が目に入った。

 取って見た瞬間、彩子の膝から力が抜けた。

(第11回 第6章)

 

 

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* 『お菓子な殺意』は毎月02日に更新されます。

 

 

 

 

■ 小原眞紀子さんの本 ■

メアリアンとマックイン 水の領分

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■