パティシエを目指していた彩子は、ある罪を犯した怖れから逃げ隠れして暮らしている。行き着いた先は、人気が陰りをみせた歌手・カオルの付き人の仕事。だが不運はつきまとい、ついに運命の大事件へと…。詩人・小原眞紀子の原案が甘やかな哀愁とともに語られる、待望の金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第3弾!

原作・小原眞紀子 作・露津まりい

 

 

 

 

 

5 マーブル状の悲劇(後半)

 

 

 朝の光が射していた。

 最初、なぜリビングに寝ているのかわからなかった。

 食堂の電気が点けっぱなしだった。と、不意に記憶が蘇った。

 夢。いや違う。

 時計は八時前だった。あのまま眠ったなんて信じられない。家政婦が来たら騒ぎ出すだろう。大変ですったら、いなくなってしまわれたんですう。

 起き上がってソファに坐り直した。「またなの」と、返事をする自分がいた。

 「ええ、またです」と、家政婦が頷く。「どうします。三輪田さんに知らせますか」

 まるでいつもの光景だ。平穏無事。

 馬鹿な、と顔をこする。カーテンが開いていたので、リビングはすでに明るい。と、あることが思い浮かんだ。

 まるで現実的ではない。だが、夕べ起きたこと自体、現実的でなかった。大事なことはそれから逃れることだ。本来、自分は今日にでも出て行くはずだった。

 彩子は食堂に向かい、グラスを取った。ミルクに蜂蜜を注ぎ、マドラーで掻き混ぜた。一杯をシンクに流すと、もう一杯をいつものように自分で飲み干した。グラスは二つ、汚れたまま食卓に置いた。

 それから寝室に向かい、ベッドに転がった。白い粉で汚れた、例のサイドボードが目に入った。が、少し考えて、そのままにしておいた。

 リビングの奥のウォーキング・クローゼットで、カオルの舞台衣装や普段着を探った。

 高校生じみたミニの黄色いキュロットスカート、黒い七分袖のハイネック、丈のあるグレイのジャケットを引っぱり出した。帽子を捜したが、パーマのかかったショートウィッグしかない。ジャケットのポケットの中に茶色い縁の素通しの眼鏡があった。

 タイトスカートとセーターを脱いで着替えた。小柄な彩子に、サイズは大きめだった。

 クローゼットの壁の姿見には業界の若い女性、少し頭のいかれたタイムキーパーといった姿が映っていた。

 別人になったと思ったとたん、気が軽くなった。その格好で再び食堂や寝室を見てまわった。浴室の石鹸を泡立て、歯ブラシを濡らした。

 脱いだ自分の服をバッグに詰め、玄関を出た。

 と、再びドアを開けて戻り、廊下から二階へ駆け上がった。自分の居室に入り、寝床を乱した。三日に一度の割合で家政婦がシーツを替えにくるのだった。

 再び玄関を出ると、家政婦が通る道を避けて駅へ向かった。

 

 渋谷のハンズで細釘と楔、金槌とペンチを買い、代官山駅へ戻ったのは一一時半過ぎだった。

 カオル宅と反対方向に坂を上りきると、やがて洋館の煉瓦塀に行き着いた。散歩がてらふうに塀沿いに歩き、門から覗き込んだ。三台のバンが停まっていた。

 彩子は、撮影資材を調達してきた使いっ走りのように、東急ハンズの紙袋とバッグを下げて敷地に入った。

 警備室では、昨日の老人が坐って新聞を読んでいた。

 門を通り抜け、バンの影から本館の裏口に向かった。

 梱包用のボール紙があちこちに広げられていた。夕べ管理室で見かけたスケジュール表の通り、何かの撮影が始まっている様子だ。

 廊下の窓から見ると、中庭にスタッフが集まっていた。

 非常口から別棟の倉庫に行き、階段を昇った。三階の踊り場を過ぎて、吹き抜けの通路から下を覗いた。誰かが古めかしい椅子を二つ、両脇に抱えて運び出そうとしていた。

 彩子は頭を引っ込めた。足音が遠ざかると、高い天井に物音ひとつ響かなくなった。

 奥の小部屋へ急いだ。柩は昨晩と同じ状態で並んでいた。扉のドア止めを外して閉めた。

 手前の柩の前に跪くと、蓋に手をかけてずらした。指がかじかんだように動かない。蓋の隙間から闇が覗いた。一瞬、空かと思い、叫び出しそうな恐怖に駆られた。両掌で押し開くと足が見えた。

 今、自分は別人だ、と彩子は考えた。

 部屋の隅に、四つのL字型の錘と布袋が用意されていた。袋の内部には、クッキーの箱に入っているような凹凸のあるビニールが何枚も重ねられている。柩の中が傷つくのを嫌がったカオルの言いつけ通り、錘の角が当たらないようにするためだった。

 重い錘に布袋を被せ終わると、彩子は再び柩の前に跪き、息を詰めて蓋を向う側に押しやった。

 罅の入ったサングラス。血の気を失った顔が見えた。

 今、「復活!」と跳ね上がって、腕を掴まれたら。

 布袋に包まれた錘を持ち上げ、L字の角を右足の下に填め込んだ。

 膝はすでに硬直して、折り曲げられなかった。目を逸らして太股から持ち上げ、やっと押し込んだ。もう一つは左足の下に入れた。残りは身体の上に載せるしかない。痛いじゃないのさ、この馬鹿。

 蓋は閉まるのだろうか。反対側にまわり、床の上から押し上げると、どうにか蓋は閉じた。

 東急ハンズの紙袋から、金槌とビニールの小袋を出した。小袋には細釘と楔が入っている。蓋の手前の角に釘の一本を当て、金槌を下ろしてみた。装飾彫りのへこみに釘の先が刺さる。が、続けて打つと鈍い音とともに曲がった。

 もう一本取り出した。どうにか釘の頭が沈んだ。装飾を潰さないよう浮かせて止めた。

 二本目。五センチと離れていない場所に打った。三本目。前より早く十打ほどで済んだ。

 以前、インタビュー直前に酔って、呂律が回らなくなったカオルを衣装箱に隠したことを思い出した。

 いつもよく世話をしてくれました、とスタッフは皆、証言してくれるだろう。彼女がカオルさんに危害を。あり得ませんね。

 四本目は四回やり直した。五本目と六本目も一度ずつ打ち損ね、この調子では釘が足りなくなることに気づいた。

 七本目の釘も曲がった。ラッキーセブン。カオルの口癖だった。

 やはり無理なのだ。彩子は金槌を置き、腰を伸ばした。ウィッグと眼鏡を外して奥の段ボールの上に放った。

 三輪田に連絡するしかない。たとえ警察に何を訊かれようと、とバッグから携帯を取り出した。

 「あっ、すみません」

 その声に、携帯を手にしたまま振り返った。

 戸口に立っていたのは、昨日ここに柩を運んできた道具係の一人だった。

 「いらしてたんですか。あっちでやってる撮影、うちの会社も応援頼まれちゃって」

 男はジーンズのポケットで掌をこすった。

 呆然としている彩子に、「駆り出されたのは俺だけですけど」と言い、「あのう、」と申し訳なさそうに柩を指差した。

 「それ、明日、ロケ先でちゃんとやろうと思って」

 彩子は返事をしようとしたが、乾いた唇が動いただけだった。

 「ここんとこ忙しくて。足台を取りに来たら、音が聞こえたもんだから」

 「構わないから、」とやっと答えた。「言いつけられたの。指示通り打ってきてって」

 男は安堵したように頷いたが、その場に屈み込んだ。

 「お手伝いしますよ。今、ちょうど昼休みだし」

 手伝いってことないか、こっちの仕事なんで、と言い訳がましく呟く。

 「いいの、」と悲鳴のような掠れ声が出た。

 「叱られるから、あんたがやってきなさいって言われたから」

 「そうですかあ」と、男は疑わしそうに柩を眺めた。

 「きれいに打ってますね」と、素人仕事が心許ない様子で言う。

 「あの、釘もこれでって、カオルさんが。間隔とかも、このぐらいでって」

 「いいんじゃないですか、細釘で。目立つと変だし、そうかといってあまり間が開いてもよくないし」

 道具係はなだめるように言い、釘の頭に触れた。と、床から金槌を拾い上げる。

 引き抜くのか。思わず息を呑んだ。

 コン、コンと軽い音が響く。男は金槌を横に使い、角で釘を叩いていた。「なかなか難しいですよね」

 彩子が打った釘を端から打ち直し、「引っかかったりすると、困りますから」と言った。

 それから床に散らばった釘を掻き集め、四、五本を口にくわえて反対側に取りかかった。

 ものの三分ほどで蓋の周囲を打ち終えて立ち上がると、「あれは」と、顔見せの小窓を指差した。

 「あそこは、く、楔で」

 答えるが早いか、道具係は小窓に近づいた。

 「これは厳しいな」男は首を傾げ、右側の窓を開けた。

 今にも叫び出す。

 彩子は目を閉じた。

 「ふーん。楔の大きさは、と」

 がさがさと紙の音がした。道具係はこちらに背を向け、床に置かれたハンズの袋を探っていた。

 開かれた右の小窓からは、錘の布袋だけが覗いていた。左の窓を開ければ、そこにサングラスをかけた顔があるのだ。

 「ええっと、」

 ビニールの小袋を逆さに振り、男は柩の脇に坐り込んだ。右の小窓の裏を子細に眺めると、首を振り、そのまま閉じた。

 左右の窓の間に楔をあてがい、金槌の反対側の釘抜きを使ってコンコンとごく小さな音をたてはじめる。

 道具係は行ってしまった。

 彩子はそっと柩に近づいた。

 釘の頭は装飾彫りの隙間にぴったり入り込んでいた。小窓に楔を打たれた柩は、出来上がった一つの作品のようだった。側板には夕べカオルが貼った黄色のポストイットが付いている。

 柩を見下ろし、彩子はしばらく佇んでいたが、段ボールの上に携帯を置くと、ハンズの紙袋の残りの包みを出した。

 ペンチを取り出し、柩の前に跪いた。底の四隅に付いた鉄製の金具を開き、ペンチに挟んで少しずつ縮めた。締めすぎず緩めすぎず、強く引けば鎖が抜ける幅。首尾を考える余裕はない。ただ、他人の作品に些末な仕上げを施している気分だった。

 最後に打ち損ねた釘を拾うと、ジャケットのポケットに入れた。

 段ボールの上の茶髪のウィッグと眼鏡は紙袋に仕舞い込んだ。女子高生のような彩子のキュロット姿に、道具係は幸い無頓着だった。もしウィッグや眼鏡を着けていたら、さすがに変に思ったろうが。

 人に出くわさないよう、早足で廊下を戻り、建物を出て門を抜けた。警備室には誰もいなかった。

 

 千葉の海に向かうバンの中で、三輪田はずっと上機嫌だった。

 「今回は結局、万事うまくいったよ。スケジュールも、予算も」

 柩の経費はカオル持ちだし、その柩をこれから海中に投下するクレーンもタカノヤの関連会社から無料貸与してもらえたのだ。

 「ほんとについてるよな。こんなロケでプロモ作れるなんて、カオルは幸せもんだ」

 そのカオルが昨日から出かけたまま戻らない。そう聞いても三輪田は気にも留めなかった。

 「じゃ、今日は来ないつもりなんだな」と嬉しそうに言う。

 「ロケ先に、直接現れるつもりかもしれません」と、彩子は言った。

 「いい、来なくて。我々は今日、とってもついてる」と三輪田は笑う。

 彩子は乾いた唇を舐めた。あの道具係が現れた瞬間から、すべてを成り行きにまかせるよりほか、なくなっていた。

 「あれ、君、車に酔うの。カオルの運転手なのに」

 座席に凭れた彩子の顔を、三輪田は眺めた。が、すぐに向う隣りの撮影監督を相手にしはじめた。

 誰かが気づくだろうか。何よりそれが自然の成り行きに思えた。

 が、それはいつなのか。そのとき自分はどうするのか。

 バンは高速を降り、山が連なる国道を一直線に勝浦海岸へ向かっていた。柩は別のバンに、予備の柩や撮影機材とともに積まれている。

 柩がこの車に乗ってなくてよかった、と彩子は思った。我々は今日、とってもついてる。

 海岸に着いたとき、彩子は蒼ざめて立ち上がれなかった。

 「ひでえ車酔いだな。どうする、車で休んでるか」

 彩子は首を横に振り、座席の背にすがりながらバンを降りた。

 三輪田は携帯用の簡易椅子を広げ、彩子を坐らせた。

 天気は上々だった。

 初冬の海には冷たい風が吹き、昼下がりの東の空に花びらのような雲がいくつか散っている。借りたウィンドブレーカーを着込み、彩子は石像のように固まっていた。

 「おい、これ。やたら重いぞ」

 反射的に振り返った。バンの後ろで五人のスタッフが立ち往生している。二人の男が柩に駆け寄り、岩場に置いた荷台にやっと載せた。

 「なんだい。錘の入れすぎじゃないか」

 「カバ材ですからねえ。かといって、ぷかぷか浮かんでも困るし」

 「引き上げるのは楽ですよ。ちゃんと中性浮力を計算して、海水に浮きも沈みもしない重さにしてありますから」

 そう返事したのは、昨日の釘打ちをした道具係だった。

 荷下ろしと機材の組み立ては着々と進んでいた。平穏な作業を見守るうち、昨日からのすべてが撮影作業の一環のように思えた。

 が、黒装束に着替えた四人のスタッフが岩場の崖上に置かれた柩に手をかける。一瞬だけのその撮影シーンに、彩子の意識は薄れた。

 視界に海辺が真っ暗に反転し、柩だけが浮かび上がる。ほのかな光の筋に包まれた塊。

 なぜだ。なぜ何も起きない。

 クレーンがやってきた。オレンジに塗られた鋼鉄製のジブ部分にカメラを設置し、二○分のテストを行う。永遠にも思える長さだった。

 潮風も光も書き割りなのだ、と彩子は考えた。

 自分は存在していない。さもなければ、耐えられなかった。

 特殊フックに掛けられた柩はやがてゆっくり持ち上がった。

 鎖の当たる音がした。「大丈夫、大丈夫」と、三輪田が口元に手を当てて叫んだ。「まだ時間はあるからさ」

 三輪田は競馬の予想屋のように赤鉛筆を耳の後ろに挟み、スケジュール帳を指で辿っている。

 「リラックスしていこう」と、撮影監督が言った。ふと現場の空気が緩み、笑い声が起きた。

 穏やかな海、岩場に陽光が降り注ぐ。花びらのような雲を彩子は見上げた。そのとき、撮影監督がスタッフの肩を叩いた。

 緊張が走り、鎖に繋いだワイヤロープが吊り上がった。

 死体遺棄の疑いで。彩子の頭の中で、ニュースのアナウンサーが言った。シタイイキ。

 立ち上がると、岩場に簡易椅子が倒れた。殺人および。アナウンサーの声ではなかった。

 目の前が暗くなり、神様、と彩子は呟いた。

 いや、神じゃない。誰も、何も悪くない。

 前触れもなく、クレーンは柩を放した。

 柩は宙に浮き、次の瞬間、水しぶきが上がった。あっと叫び声がして、鎖が一本、弾き返されて海面に飛び出した。もう一本、のたうつ蛇のように跳ねたのが見えた。

 スタッフは全員崖に駆け寄り、ワイヤロープを引いた。

 「だめだ、外れてる」

 「まさか、四本ともか」と、誰かが言う。「どうするよ、おい」

 「撮影は」

 「OKだ」と、モニターを見ていた監督が答えた。

 「しかし、まずいなあ」

 「どうなってんだ、誰が鎖、つけたんだよ」三輪田が大声を上げた。

 「あの、鎖と金具は既製品で」と、スタッフの一人が返事している。

 「これ回収するったら、どうするよ。誰が最終チェックしたんだ」

 三輪田は腕組みして一歩も引くかと怒鳴りつけている。

 「最終って、特にそんな、」

 「チェックしなかったの、あんたらねえ」と、三輪田は言う。「チェックだよ、チェック、常識だろ。回収しなかったらね、」

 不法投棄だよ、と言いかけ、急に黙った。

 「昨日、釘打ちしたときには、特に異常は、」道具係は必死の面持ちだった。

 「釘打ちって、あんたね、」

 「異常ありませんでした」

 彩子の声に三輪田が振り返った。

 「あたしも立ち会ったんです。カオルさんに言われて、最終チェックしてくるようにって」

 いつの間に、という目で三輪田は見た。「車酔いはどうした」

 道具係は、感謝の眼差しを向けた。

 三輪田は撮影監督と相談していたが、やがてスタッフを集めて輪を作らせた。

 「とにかく撮影は完了しました。で、回収作業についてはあらためて準備します。時間がかかるから、誤解を招かないよう、この件は口外無用」

 三輪田の意図を理解し、その場の全員が頷いた。

 決まってるだろ、原状回復なんかできるかよ。

 もとより大型の重機を手配し直し、ダイバーを雇って回収するなどあり得なかった。

 スタッフは無言で撤収をはじめた。

 これが成り行きだった。彩子はまだいくらか蒼ざめた顔色で、なかば呆然と海を眺めていた。

(第10回 第5章後半)

 

 

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* 『お菓子な殺意』は毎月02日に更新されます。

 

 

 

 

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