金魚屋プレスより刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

Ⅳ 写生文小説-『吾輩は猫である』(上編)

 

 

 『吾輩は猫である』の第一回は、高濱虚子が俳人仲間と開いていた写生文の勉強会(山会)に出す文章として明治三十七年(一九〇四年)十一月末から十二月初旬に書かれ、翌三十八年(〇五年)一月に俳誌「ホトトギス」に掲載された。

 

 漱石は当時のことを「実はそれ一回きりのつもりだつたのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けといふので、だんだん書いて()るうちにあんなに長くなつて(しま)つた。(中略)私はた()偶然そんなものを書いたといふだけで、別に当時の文壇に対してどうかうといふ考も何もなかつた。(中略)書きたいから書き、作りたいから作つたま()で、つまり言へば私があ()いふ時期に達して居たのである。もつとも書き(はじ)めた時と、終る時分とは余程考が違つて居た。文体なども人を真似るのがいやだつたからあんな風にやつて()たに過ぎない」(『談話(時期が来て()たんだ)』明治四十一年[一九〇八年])と回想している。

 

 虚子の証言などから、漱石が当時かなり深刻な神経症を患っていたことが知られている。漱石は苦悩の極みでふと自分の自我意識を相対化して捉え、それを戯画化して描いたのである。その意味で『猫』はたまさか生まれた小説であり、ごく気楽に書かれた作品だった。執筆経緯から言っても漱石に文壇的野心はなかったろう。ただ漱石が小説を書かなければならない「時期に達して()た」のは確かである。『猫』発表当時、漱石は三十八歳になっていた。当時としては遅すぎる小説家デビューだった。

 

 作家としては愚図だが、漱石は決して不器用な文学者ではない。漱石は虚子宛に「卒業論文をよんで()ると頭脳が論文的になつて仕舞(しまい)には自分でも何か英語で論文でも書いて見たくなります。(中略)僕は何でも人の真似がしたくなる男と見える。泥棒と三日居れば必ず泥棒になります」(明治三十九年[一九〇六年]五月十九日)と書き送っている。『猫』執筆当時、帝大の講義は『文学論』が終わりに近づき『文学評論』の準備が始まっていた。長年の英文学研究に一応の見通しがついたことも、小説執筆の動機になっただろう。また『文学論』では主に英詩を取り上げたが『文学評論』では小説を論じることになっていた。小説に関する講義の準備をしていたことも『猫』執筆に影響を与えたはずである。

 

 漱石にしてみれば、『猫』はさしたる覚悟もなく見切り発車的に書いた小説処女作である。しかし処女作には作家の()の資質が表れやすい。漱石には『猫』の文体は独自のものだという意識があった。また「書き初めた時と、終る時分とは余程考が違つて居た」とも語っている。漱石は『猫』を書くことで、小説家として立つきっかけを掴んだのである。

 

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。

 どこで生れたか(とん)と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて()た事(だけ)は記憶して居る。吾輩はこ()で始めて人間といふものを見た。(しか)もあとで聞くとそれは書生といふ人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であつたさうだ。(この)書生といふのは時々我々を捕へて煮て食ふといふ話である。然し(その)当時は何といふ考もなかつたから別段恐しいとも思はなかつた。(ただ)彼の(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフハフハした感じが()つた(ばか)りである。

(『吾輩は猫である』「一」明治三十八年[一九〇五年]一月)

 

 『猫』の冒頭は二つの点で印象的である。一つは言うまでもなく語り手の猫に「名前はまだ無い」ことである。もう一つは猫がほとんど生まれ落ちたときからの記憶を持っていることだ。つまり『猫』は吾輩が生まれて意識を持ってからの、彼による世界描写である。ただし猫の描写が人間世界に絞られるのは第三章からだ。

 

 漱石が当初『猫』を読み切り小説のつもりで書いたことは、第一、二章を読めばわかる。一、二章で描かれたのは猫仲間との交流であり、そのいずれでも死の予感が語られている。第一章では車屋の黒という乱暴猫が魚を盗もうとして魚屋に天秤棒で殴られ、足が不自由になって衰弱してゆく様子が描かれている。第二章末尾では吾輩が秘かに恋心を寄せていた二絃琴の御師匠さんの飼い猫・三毛子が死んでしまう。三毛子の死を知った猫は「近頃は外出する勇気もない。何だか世間が(もの)うく感ぜらる()」と独白している。仲間の不幸や死を契機として、漱石は猫の意識の活動を停止させようとしていた。

 

 しかし帝大講師漱石が書いたユーモア小説は、思いがけない好評をもって読書界に受け入れられた。気を良くした漱石は虚子の勧めもあって『猫』を書き継ぎ、全十一章、単行本では上中下三巻の長編になった。漱石が書いた小説の中で『猫』が一番長い。

 

 漱石は第三章を「三毛子は死ぬ、黒は相手にならず、(いささ)寂寞(せきばく)の感はあるが、幸ひ人間に知己(ちき)が出来たので左程(さほど)退屈とは思はぬ」という記述から始めている。一、二章の内容を総括した上で「人間」の「知己」を描くという新たな展開を用意したわけだ。以降の章で、吾輩はもはや猫仲間とほとんど交わることがない。それは第三章で初めて猫の飼い主である英語教師・苦沙弥(くしやみ)(漱石がモデル)の名前が現れることからもわかる。また苦沙弥先生を中心とした人間たちを描くようになると、猫は饒舌な言葉を残したまま、その存在格を現実世界から縮退させてゆく。

 

 例によつて金田邸へ忍び込む。(中略)

 忍び込む(・ ・ ・ ・)()ふと語弊がある、何だか泥棒か間男の(よう)で聞き苦しい。吾輩が金田邸へ行くのは、招待こそ受けないが、決して(かつお)の切身をちよろまかしたり、眼鼻が顔の中心に痙攣的(けいれんてき)に密着して()(ちん)(など)と密談する(ため)ではない。――何探偵?――(もつ)ての外の事である。(およ)そ世の中に何が(いや)しい家業だと云つて探偵と高利貸(ほど)下等な職はないと思つて居る。(中略)そんなら、何故忍び込む(・ ・ ・ ・)と云ふ様な胡乱(うろん)な文字を使用した?(中略)元来吾輩の考によると大空は万物を覆ふ()め大地は万物を載せる為めに出来て居る。(中略)(この)大空大地を製造する為に彼等人類はどの(くらい)の労力を費やして居るかと云ふと尺寸(せきすん)の手伝もして()らぬではないか。(中略)空気の切売(きりうり)が出来ず、空の縄張が不当なら地面の私有も不合理ではないか。(中略)吾輩はそれだからどこへでも這入(はい)つて行く。

(『吾輩は猫である』「四」明治三十八年[一九〇五年]六月)

 

 『猫』は日露戦争中に書かれた。しかし苦沙弥先生とその友人たちは、騒然とした世相に背中を向けた「太平の逸民」で変わり者揃いである。戦争に取られることがないのはもちろん、日本の将来などの天下国家の問題にはほとんど興味を示さず、日々空疎な哲学的駄弁に耽っている。

 

『吾輩は猫である』単行本上編

 

 その中に理学者の水島寒月(かんげつ)(寺田寅彦がモデル)がいる。寒月は裕福な実業家金田家の令嬢・富子と恋愛のようなそうでもないような奇妙な交友をしているが、二人の微妙な関係を知った金田夫人が寒月の人柄を聞く目的で苦沙弥家を訪れたことから、猫はしばしば金田邸に忍び込むようになる。ただ吾輩は自分の行為は「探偵」ではないと言っている。

 

 『猫』では寒月に関する情報を得るために、金田夫人の依頼で車屋のおかみさんらが苦沙弥家の会話を盗み聞きするのを日課にしている。彼らは探偵と呼ばれる。漱石は探偵を嫌っていた。彼の神経衰弱は誰かに監視、追跡されているという強迫観念を伴うものだったが、その現実社会での象徴的存在が探偵だった。苦沙弥は刑事を「探偵と()ふいけすかない商売さ。あたり前の商売より下等だね」とこき下ろしている。漱石の定義では現実の利害関係に基づいて他者の行状を調査し、その意味を主観的に解釈する者たちが探偵なのである。

 

 しかし猫は異なる。吾輩は「猫と生れた因果で寒月、迷亭(めいてい)、苦沙弥諸先生と三寸の舌頭に相互の思想を交換する伎倆(ぎりよう)はない」。つまり猫の行動や思考は人間たちの現実に干渉しない。吾輩はただ現実を観察・描写し、それを読者に「報告」するだけである。

 

 このような観察・報告者は漱石の他の作品にも登場する。『趣味の遺伝』(明治三十九年[一九〇六年])の主人公や『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』(四十五年[一二年])の敬太郎がそうである。彼らは現実を切り取るように観察して報告するに留まる。漱石小説の観察・報告者は、主観を交えず自己や他者――すなわち世界を客体化して捉え描写する者たちである。

 

 このような純客観描写手法を、漱石は親友・正岡子規の写生俳句(散文では写生文)から得た。おおむね『虞美人草(ぐびじんそう)』までの漱石の初期作品が「写生文小説」と呼ばれているのは周知の通りである。子規も維新後に流入したヨーロッパ文学に大きな衝撃を受けた。ただ漱石と同様、子規もまた翻訳などを通した単純なヨーロッパ文学の模倣に懐疑的だった。

 

 子規は俳人としての高い資質を持っていたが、ヨーロッパ写実主義などの影響を受けながら俳句を中核とした明治の新たな文学を模索した。その結実がいわゆる〝写生理論〟である。具体的には芭蕉と蕪村俳句を比較検討することで、純客観描写手法が俳句のみならず、維新以降の小説にとっても有効であることを見出したのである。

 

 芭蕉には「五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」があり、蕪村には「五月雨や大河(たいが)を前に家二軒」の代表句がある。いずれも五月雨を詠んだ句だが、「あつめて早し」は芭蕉の主観である。これに対して蕪村俳句はほぼ完璧な純客観描写だ(子規の用語で言えば写生俳句)。芭蕉俳句の解釈は「最上川」という場所に限定されるが、蕪村の「大河」や「家二軒」は日本のどの場所にあっても良い。また蕪村は「五月雨」「大河」「家二軒」という風景を客観描写してるだけだが、大自然の猛威に曝された人間の不安を見事に表現している。〝俳聖〟といったフィルターを取り除けば、芭蕉俳句よりも蕪村俳句の方が遥かに作品に即した多様な解釈が可能である。

 

 子規は俳句研究で得た写生理論(純客観描写手法)を、維新によって大きく変容した社会を正確に捉えるために援用した。蕪村俳句の方法をさらに徹底させて、社会の諸相を複雑なら複雑なまま、単純なら単純なまま切り取るように言語化し始めたのである。子規が虚子ら門弟と始めた写生文は、俳句で得た写生理論の散文への応用だった。

鶴山裕司

 

 

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* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

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