『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014 ドイツ・イギリス合作)ポスター

監督ウェス・アンダーソン

 

 

 桃源郷という概念の出典は、五胡十六国時代の文学者、陶淵明(365〜427)の作品「桃花源記」である。

 

 ある漁師が、谷川を下るうちにすっかり迷ってしまったが、ふと見ると両岸に桃の花が咲き乱れている。漁師は花の香りに誘われてどんどん奥へと進む。すると川の水源に山があり、その山にあいた穴から光が差している。船を捨てて穴をくぐると、そこに大きな土地がひらけ、整然と並んだ建物や、豊かな田地、池、林があり、動物の声もする。村人たちも普通と変わらない姿をしているが、老若男女を問わず、誰しも満面の笑みで愉快そうである。彼らは漁師に気づくと、外の世界の話を聞かせてくれと歓待する。そうして反対に漁師にも、自分たちの祖先は戦乱の世を逃げ出し、まったく隔絶された新天地で平和な生活を始めたのだとその来歴を教える。数日の滞在の後、漁師は自分の世界へ帰る。漁師は口止めされたにもかかわらず、すぐに役人に不思議な楽園のような村のことを話してしまうが、もう誰もその場所を見つけることはできなかった。

 

 この短い物語に、道教と共に日本へ伝わったと思われる浦島伝説の類型を見出すことは容易いし、さらにはダンテの『神曲』をはじめ、世界中に類話を求めることも興味深い試みではある。また血腥い世俗を嫌って楽園のような別天地を求めた桃源郷の人々の姿は、しばしばトマス・モアに端を発するユートピア思想の枠組みで語られることもある。

 

 とはいえ私たちにとって重要なのはそんなことよりも、桃色で覆いつくされた桃源郷の色調そのものである。桃の花で溢れんばかりになっているのは実は桃源郷へと続く通路であって、楽園のような村のほうではないのだが、桃源郷という言葉を聞いたとたんに私たちの意識を満たすのは、紛れもなくこの桃色であろう。

 

 映画の役割もまた、私たちを別天地へ誘うことにほかならない。そのためには現実世界で抑圧されている色を解き放ち、世界を塗り替えてしまうこともひとつの重要な手段である。もちろんその色が桃色であることもめずらしくない。

 

 「グランド・ブダペスト・ホテル」(2014年、独・英)は、作品ごとに輪郭の濃い、個性豊かな世界を創造するウェス・アンダーソン監督の評価を一気に世界的なものに高めた作品である。監督の作品として初めて日本で劇場公開された「ザ・ロイヤル・テネンバウムズ」(2001年、米)では迷宮のように入り組んだ邸宅に暮らす奇妙な一家が、「ライフ・アクアティック」(2004年、米)では世界中を船で旅する海洋学者の冒険が描かれていたが、「グランド・ブタペスト・ホテル」の舞台は架空の国・ズブロフカのアルプスのふもとである。アンダーソンは作品ごとに基調となる色を選び、そこから独特の淡いパレットを構成してゆく手法を採るが、本作では珊瑚を想起させるような桃色が中心となっている。

 

 シュテファン・ツヴァイクの自伝『昨日の世界』に触発されたというこの映画で語られるのは、題名となっているホテルの歴史である。富裕層の集まる華やかなホテルに下働きとしてやってきたのは、戦乱で故国を逐われた移民のゼロ。ようやく仕事に慣れ、菓子店のアガサと恋に落ちたのも束の間、ゼロは得意客であるマダムDの遺産争いに巻き込まれてしまう。ファシズム政権が影響力を強める不穏な空気の中、ゼロは雇い主であるグスタフのために尽力し、見事この問題を解決する。だが平穏は続かず、戦争と流行病のためにゼロはグスタフも妻子も喪ってしまう。それでもゼロは唯一残った「ユートピア」であるホテルの経営を、採算を度外視して続けるのであった。

 

 もちろんこの場合、ユートピアは常に「ディストピア」に変貌する可能性を孕んでいるということになるが、この映画のメッセージは決して後ろ向きなものではない。ユートピアが字義通りには「存在しない場所」を意味することは周知の通りだが、おそらく私たちの思い出こそ、最も重要なユートピアであろう。たとえ悪によって踏みにじられようとも、幸福な思い出には誰も手出しができないのだ。これはアンダーソンのあらゆる作品に共通する主張と言えるが、小津安二郎の影響と言われる、きわめて定い位置からの定点観測のようなシーンの多用も、観客に安心感を与えつつ、どことなく郷愁を誘う効果があり、監督の人生賛美の哲学に似つかわしい。

 

『グランド・ブダペスト・ホテル』(2014 ドイツ・イギリス合作)スチール

色使いと共に、カメラ・アングルの低さにも注目されたい

 

 ところで桃色と言えば日本人にとってとくに身近なのは桜であろう(もちろん、それは厳密を期せば桜色なのだが)。漢詩の影響がなおさら濃かった『万葉集』でこそ梅が優勢だったが、日本独自の美学構築が進んだ『古今集』以降、花と言えば桜を意味するようになる。

 

世中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし

(業平、古金、春上、五三)

 

 という歌に端的に現れているように、桜は咲かなければたまらなく寂しいし、咲いたら咲いたで、今度は散るのが忍びないという、まさに恋を透かしてみるのにふさわしい意味を獲得してゆくのだが、後には武士道との兼ね合いや、軍国主義によるその歪曲を通して、死の賛美にまで利用されるようになる。しかしいつの時代も、市井の人々にとって桜は結局のところ酒の肴であって、「桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが」(桜の森の満開の下)という坂口安吾の説明のほうが、下手な哲学よりしっくりくる向きもあろう。

 

 映画の桜では谷崎潤一郎原作の「細雪」が第一に思い浮かぶ。大阪船場に大店を持つブルジョワである蒔岡家の四姉妹、鶴子・幸子・雪子・妙子とそれぞれの生活、なかでも雪子の縁談を中心に展開してゆくこの壮大な絵巻物は、内容が時局にそぐわないとして連載差し止めの憂き目をみているが、私家版の形で戦時下に細々と書き継がれたこの作品で描かれているのは有閑階級の美学というよりもその崩壊であり、さらにはその崩壊を招いた戦争であるから、内容が時局にそぐわないというよりも時局そのものであったところに、官憲としては問題があったわけである。

 

 『細雪』は三度も映画化されている(余談だがこれは谷崎が『源氏物語』を三度も翻訳したことと鏡写しの現象と捉えてみると興味深い)が、桜の使い方に関して印象的なのは最新の市川崑監督のもの(1983年、日)であろう。四姉妹の配役(岸惠子、佐久間良子、吉永小百合、古手川祐子)は阿部豊による最初の映画化(1950年、日)の配役(花井蘭子、轟夕起子、山根寿子、高峰秀子)と比較するとどうにも説得力を欠くし、演出も意図的に軽妙な部分が多い点では賛否が分かれようが、カラーであることを最大限に活かした終幕の花見のシーンには確かに文化的記号としての桜が面目躍如としており、姉妹の来し方、ユートピアの消滅を目前にしたそこはかとない不安、そして新しい時代への淡い期待が、桃色の空に層をなして溶け込んでいる。

 

『細雪』(1983 日本映画)スチール

監督 市川崑

 

 一方、桃色が圧倒的に女性、なかでも女児や若い女性に結びつけられる色であることも無視できまい。このようなジェンダー設定に加えて、とくに米国で根強い金髪の女性に対するステレオタイプ、すなわち「ブロンド娘はバカである」という約束事を逆手にとったのがロバート・ルケティック監督の「キューティ・ブロンド」(2001年、米)である。

 

 主人公のエルは成績優秀、何事にも前向きな性格だが、金髪であることを理由に恋人のワーナーに振られてしまう。上院議員を目指す自分には、知性を疑われやすい金髪の妻は似つかわしくないから、という無茶な理屈であった。一念発起したエルは難関ハーバード大学の法科大学院に進み、最初こそ派手なファッションと奔放な言動で煙たがられるものの、次第に持ち前の機知と明るさで頭角を現わし、ついには実習先の弁護士事務所で大活躍をする。ワーナーは反省しエルに求婚するが、もちろんエルは言下に拒絶するのである。

 

 二十一世紀に入ってからは、ディズニーのアニメ作品などを含む女性を主人公とする映画において、主人公が試練を乗り越えて手に入れるものが配偶者や幸福などといった消極的なものから、社会的成功や自尊心という積極的なものへと切り替わりつつある。「キューティ・ブロンド」においても変化するのはエルを取り巻く環境や価値観のほうであり、エル自身は成長を遂げはするものの、彼女の個性や本質は最初から最後まで一貫している。彼女が常にピンク色の服で身を固めていることも、その明白な表象であると言えるだろう。

 

『キューティ・ブロンド』(2001 アメリカ映画)スチール

監督ロバート・ルケティック

 

 もっともこのような映画は、裏を返せば無難にパッケージ化された安全な映画に過ぎず、社会のジェンダー構造をひっくり返すというには程遠い。そこへゆくとクリスチャン・マルカン監督のキャンディ(1968年、米・仏・伊)のような作品に横溢するアナーキズムは、遥かにカーニヴァル性に富んでいる。主人公のキャンディは思考とは無縁の(金髪の)存在であり、すれ違うあらゆる人々と奇天烈な情事に及ぶ。しかしセックス・ファルスとも呼ばれるこの典型的なサイケ映画を観て、宇宙からやってきた女子高校生キャンディに憤慨する者はいないだろう。いや、おそらくその手の御仁もいるには相違ないが、それこそまさにこの映画の思う壺である。ここではジェンダーに秩序を求めるような価値観こそが嗤われる対象なのであり、そこにあるのはただジェンダーのエントロピー、あるいはカオスのみなのだ。

 

『キャンディ』(1968 アメリカ・フランス・イギリス合作)スチール

監督クリスチャン・マルカン

 

 ところで桃色が随所に漂うこの映画、単調な筋書きのためか観ているとついつい眠気を誘われてしまい、能ではないが、婉然とした退屈の美に包まれる心地がする。桃源郷に暮らす人々も、きっといつも眠かったのではなかろうか。

大野ロベルト

 

 

 

 

 

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