「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。

by 小松剛生

 

 

 

 彼がその詩を見つけたのは、洗面台の上に腰掛けて母親が来るのを待っているときのことだった。

 ふと自分が腰掛けた洗面台の表面に、ある種の凹凸を感じた彼は少しだけ自分の腰をずらして、その違和感のあるべき場所を見た。

 ホワイトヘッド。

 そう書かれていた。

 彼はそれを見た瞬間、それは詩だと気付いた。

 もっというとそれはまだ途中だとも感じた。

 ホワイトヘッド。

 この後に続くべき言葉がまだあるはずだと、彼は直感的に感じ、そしてそれを信じた。その言葉は自分に対して書かれたものであり、自分に見つかるときを今か今かと待っていたのだ、とも思った。

 母親が来るのはわかりきっていた。

 彼女に無断で高校を辞めたおかげで、その通知葉書が今日家に届いたことを彼は知っている。美容師の専門学校に行きたい旨を伝えてから半年間、彼女相手に交渉を始めたまではいいけれど、経過は芳使(かんば)しいものとは言えなかった。

 彼が思いついたのは、先に取り返しのつかない行動に出てしまうというカードを自分から切ることだった。

 扉の向こうでは何か物を壊す音が聞こえる。彼の母親はときどきひどくヒステリックになるときがある。たぶん、今がそのときなのだろう、物が散乱している部屋は今の彼女にとっては格好の獲物で満ちている。

 あるとき、自分の夫が(つまり彼の父にあたる人物が)、勤め先から降りる毎月の給料を彼女に少なく見積もって伝えていたことが発覚したことがあった。余ったお金をいったい何に使ったのか、父は沈黙を貫き通して、その間母は家中の窓ガラスをすべて叩き割ってしまった。

 それ以来、家の窓には飛散防止用のフィルムが貼られることになった。怪我人が出なかったのは奇跡としか言いようがないと事情聴取に訪れた警官に言われ、頭を下げる母の小さな背中を彼は今でも覚えている。母はいつも妙なタイミングで奇跡を起こす。

 彼の妹が。

 いや、これを書くのはやめておこう。

 この前、僕の文章に毎回目を通してくれている友人に「君の文章は世界とか奇跡という言葉がやたら使われてないか。あんまりそういう言葉を安売りするべきじゃないよ」と指摘されたばかりだった。僕は忠告に従うことにする。

 鈍い音がした。

 何かを壊そうとして、失敗したのかもしれない。

 たぶん母は自分が彼女に無断で高校を辞めたことに対して怒り、ヒステリックな感情になっている。自分でコントロールできないものが目の前で起きたとき、彼女はそうなる傾向にあることを、長年の付き合いで彼は知っていた。

 ホワイトヘッド。

 彼が美容師になろうと決意したのは、ある種の直感があったからだった。両親がそれと関連する仕事についているわけでもなく、美容師の誰かに憧れがあったわけでもなく、ただ自分は美容師になるべきなのだという直感が彼の中にはいつの間にか生まれていた。そして今、それと同じ感覚で彼は洗面台に刻まれた文字を、たぶん誰かの手で彫刻刀のような道具を使って削られたのだろう、その文字を見ていた。

 ホワイトヘッド。

 昨日までそんな文字はなかった。

 もしもそれが本当に詩の一部だとすれば、いったい誰がそんなことをしたのだろう。

 父親? いいや、自分の給料を着服するような人間がそんな詩的な行動に出るとは考えづらい。

 では母親か。

 彼は首を振った。

 詩を書くよりも壊すことのほうが得意な人が、わざわざ詩の一部だけを削って止めるとは想像できない。

 妹はどうだろう。

 少なくとも彼の妹は彼よりも預言者の素質を備えていた。

 広島カープのレギュラー打線になぜ鈴木誠也を加えないのかと開幕当初から文句を言っていた彼女の思惑通り、シーズン途中から鈴木はレギュラーの座をつかみ、その年にリーグ優勝を果たした。

 そんなことが妹の周りではわりとよく起きる。

 授業に遅刻しそうになったときは予め体調が悪い旨を連絡して、悠々と午後から出席したりする。自分なんかよりもよっぽど理知的だ。

 妹であれば、可能性はあるかもしれない。

 彼がそう考え始めたとき、洗面所の扉が開いた。

 「ああ」

 嗚咽(おえつ)ともとれる声と一緒に、散々暴れて疲れきった母親がそこには立っていた。

 「そこにいたの」

 「ずっと、ここにいたよ」

 「あなたは、ああ」

 彼女はそう言うと彼の隣に座った。そのせいで件の文字は隠れてしまった。仕方なく彼は乱れた母の髪をかき上げながら、彼女を彼なりのいたわりを持って押しのけた。居場所を奪われた母は床に敷かれたバスマットにしゃがみこんでしまった。

 「ねえ」と、母。

 「なに」

 「もうちょっと、その、あなたは思いやりをもったほうがいいと思うの」

 「何に対して」

 「何に?」

 いろんなことに、と彼女は言い切った。

 何をしてるの、と遠くのほうで声がした。妹の声だ。扉の隙間からこちらを覗いているのがわかった。妹が着ているTシャツには大きく「War is over」の文字がプリントされていた。たぶんだけど、特に意味はないのだろう。

 「何もしてないよ」

 「そうは見えないけど」

 可能性はある、と彼は思った。

 この妹であればホワイトヘッドの詩を書く素養はある。両親よりはある。

 妹は僕の隣に座った。今度は押しのけようにも狭い洗面所の床は母が支配してしまっている。2人が洗面台に乗ることになった。

 「また昨日着た服を着てる」

 母の言葉は妹に向けられたものだった。

 「汚れてないよ」

 「それでも着替えなさい。服は毎日変えるものなの」

 嫌がる妹に意を介さずに、母は彼女のTシャツを脱がせにかかった。僕がそれに対して口出しする理由はない。無理やり裸にさせられた妹は逃げるように洗面所を後にした。

 「まったく」

 母は脱がせたばかりのTシャツを、妹がさっきまで座っていたスペースに無造作に置いた。しわくちゃになったせいで「War」の文字が隠れる。

 「あ」

 彼は思わず声を上げた。

 ホワイトヘッド is over(ホワイトヘッドは終わった)。

 それが詩の正体かどうかはわからなかったけど、つながったことは確かだ。母はいつも妙なタイミングで奇跡を起こす。この小さな背中の持ち主の奇跡を無駄にしてはいけない。彼はそう思った。

 「母さん」

 「なに」

 彼は母に絶対に聞こえない程度の音量で「ごめん」と謝った。母は小さくうなずいた。聞こえるはずはないのに。

 ホワイトヘッドが何かはわからない。

 でもホワイトヘッドが終わるとき、奇跡は起きる。

 忠告なんか、くそくらえ。

おわり

 

(第30回 了)

 

 

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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月6日と24日に更新されます。

 

 

 

 

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