パティシエを目指していた彩子は、ある罪を犯した怖れから逃げ隠れして暮らしている。行き着いた先は、人気が陰りをみせた歌手・カオルの付き人の仕事。だが不運はつきまとい、ついに運命の大事件へと…。詩人・小原眞紀子の原案が甘やかな哀愁とともに語られる、待望の金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第3弾!

原作・小原眞紀子 作・露津まりい

 

 

 

 

 

5 マーブル状の悲劇(前半)

 

 

 カオルは身動きせず、コンクリの床に横たわっていた。

 さらに階段を下りていくと、サングラスに罅が入っていたが、仰向いた顔には赤味が差しているのが見えた。

 「カオルさんったら、」

 ふざけないで、という言葉が出かかった。階段にカオルの指が引っかかっている。その手を取り、脈をさぐる真似をした。

 カオルはくすぐったがらない。こんな堪え性があったなんて。

 鼻の下に手の甲を当てた。今にも吹き出すか、怒り出すに違いない。

 数分が過ぎた。空気は静まり返っていた。

 彩子は立ち上がり、コンクリの床を見下ろした。葡萄酒色のドレスが広がっている。

 サングラスのせいで見えなかったのだ。通路は明るいが、踊り場は。

 救急車。階段を駆け上ろうとして、足が止まった。サイレンを鳴らさずに来させろ、と三輪田は言った。

 次の瞬間、はっと息が詰まった。

 右に穴が。自分はそう言った。

 違う。板敷きがめくれた穴は、階段の左側だ。右に避けて、と言おうとしたのに。

 動転していたのだ。「悪いことしても、ひどい写真を撮られても」と、カオルは言った。何を知っていたのだ、白水から聞いて。

 階段を下り、再びカオルの手を取っていた。

 「まず最初に、」と呟く。必死で頭を働かせようとしながら、怖ろしさに瞬きもできない。手は温かかった。だが救急車を呼んでも無駄だ。結局は警察が来る。しかも今度は自殺でなく、事情を訊かれるのは自分だけだ。考えるための時間が欲しかった。

 腕を引っ張った。カオルは重力に逆らわず、軟体動物のように床に貼りつく。その開いた口から目を逸らし、もう一方の腕も拾い上げる。

 下まで一気に落ちるなんて、運が悪かったのだ。

 そう思ったとたんに手を放しそうになった。

 死ぬとは思わなかった。よほど打ち所が悪かった。あの男のことと同じ言い訳になる。

 「まず最初に、」とまた呟いた。

 頭の方向へ引きずる、というより持ち上げては緩め、再び持ち上げた。自身で支えることを放棄した肉体は重かった。コンクリの床にドレスがこすれて進まない。手が滑って頭部を床に打ちつけた。自分の頭を打ったように、彩子の口元が歪んだ。

 時間だ。時間が必要だ。血は出ていない。

 荷物用エレベーターの前に来るまで、彩子の目には物の輪郭は見えても、それが何なのかよく理解できなかった。

 鉄骨に付いた赤いボタンを押した。ガタンと大きな音がして胸が潰れそうになった。が、エレベーターは動かない。

 緑のボタンを押した。また金属音が響き、シューッと空気の洩れる音がして四角い箱がゆっくり降りてきた。

 三階の踊り場へ引きずり出したとき、エレベーターとの境目で身体が引っかかり、腰が定まらずに回転した。寝そべったモダンダンスのようだった。

 板敷きの目に沿って引っ張ると、ドレスはよく滑る。通路はコンクリ敷きだが、簀の子が並べてあった。載せると足が開き、靴底が板の隙間に入り込んだ。靴を脱がせて通路脇に放った。背筋が汗で冷たい。靴下履きの足はまっすぐ伸びて簀の子の上を引きずられてゆく。

 さっきの小部屋に辿り着いた。照明はついたままだった。

 手前の柩の蓋を外した。脇に手を差し込み、ふにゃふにゃした身体を起こした。とりあえずここに。

 腰から柩に入れた。ちょうど収まった。誂えたようだ。誂えたのだった、と思ったら全身の力が抜けた。手が震えていることに初めて気づいた。

 通路に出て、放った靴を捜した。見当たらなかった。さらに冷たく汗が吹き出した。

 靴は簀の子の下に入り込んでいた。拾い上げて戻り、足の隙間に押し入れた。まだサングラスをしていた。ここまで外れなかったのは奇跡だ。その下で目は見開いているのか。

 蓋を持つ手が硬直した。落とすように閉じた瞬間、顔見せの小窓が弾みで浮き上がった。砺波の職人の豪勢な装飾彫り。

 部屋の電気を消し、蛍光灯が白々と点いた通路へ逃げるように出た。

 倉庫棟を離れ、外の夜気に当たると、やや冷静になった。

 車のキーを持っていないことを思い出した。

 洗濯部屋の手荷物の中だ。

 本館二階にまだ灯りがついていたが、さっきの撮影用キッチンにはすでに人の気配はなかった。洗濯部屋のノブを握ったとき、鍵のかかったような手応えに一瞬、背中が凍った。

 が、重いドアは押すと開いた。小一時間ほど前、坊主頭のカオルが膝を抱えていたときのままだった。

 浴場にあるようなロッカーにレインコートが突っ込んである。雨が降りそうな気配はなかったが、カオルが上着代わりに引っかけてきた。

 彩子はレインコートを羽織ると、自分の荷物とカオルの着替えのバッグを取った。

 薄暗い廊下に出た。通り過ぎかけた角に、倉庫棟に向かう直接の通路があった。非常口の金属扉を開けると、螺旋階段の途中に出た。階段を上りきったところが、あの踊り場だ。

 埃を被ったマネキンが隅にあったのを、目に留めた記憶がある。

 上半身と下半身、別々に立てかけられていた。上半身を抱えた。重くはないが持ちにくい。いったん下ろし、バッグを持ち直して抱えた。

 通路を戻り、本館一階に下りた。柩を運び込んだ通用口を、音を立てずに開けた。他の車は見当たらなかった。機材を運び込んだバンもいない。玄関灯以外の照明はなく、手探りでキーを出した。

 車の後部座席にマネキンを置き、シートベルトをかけた。こんなことを思いついた自分が不思議だった。

 運転席に坐り、キーを回す。来たときと同様にエンジンがかかる。それも不思議だった。

 煉瓦塀の門の付近に車を停め、警備室へ向かった。振り返って眺めると、後部座席に黒っぽい坊主頭の人影が坐っているように見えた。

 警備室の奥に声をかけると、小柄な老人が出てきた。

 灰色のカッターシャツにズボンで、警備員というよりはパートタイムの管理人だった。

 「遅くなりました。これから帰ります」

 ああ、と管理人は小窓から建物の玄関を窺った。

 「もう誰もいませんね」

 「撮影資材をチェックしてたもので」

 相手の視野に車が入るように身体をずらしたが、管理人は興味なさそうに頷き、机の上の紙切れに時刻を書き込んだ。

 「お世話さまでした」と会釈したとき、壁のスケジュール表が目に留まった。

 旧山手通りを中目黒方面、恵比寿の方へ走った。千駄ヶ谷の事務所にはもう誰もいないだろう。赤信号で停まったとき、携帯で三輪田の短縮番号を押そうとしたが、隣りのアウディの助手席から女が見ているのに気づいた。

 次の信号でわざと引っかかり、後部座席に身を乗り出し、マネキンを横倒しにした。座席の下に落ちていた毛布を拾い、マネキンに掛けた。信号が青に変わった。身体を捻りすぎて背中を傷めた。

 「まず最初に、」と自分に囁いたとたん、恐怖が襲った。

 もし、あのビュイックがこの車のナンバーを届け出たら。マネキンを後部座席に乗せた変な車が走って…。

 どうかしている。

 とにかく次を左折し、レンタカーの駐車場に向かうことにした。マンションでは、家政婦もとうに帰ったはずの時刻だった。

 玄関に家政婦の靴はなかったが、彩子は足音を立てずに上がった。

 食堂の電気をつけると、いつものように食事が用意されていた。

 暗いリビングのソファに、カオルは寝転がっていない。彩子はコートを着たまま、そのソファに腰を下ろした。

 そのときサイドボードで電話が鳴り、飛び上がるほど驚いた。

 留守電のアナウンスが流れ、数秒後に切れた。

 三輪田だろうか。立ち上がって見たが、番号表示はなかった。三輪田はまだ、スタッフと食事中だろう。

 その三輪田に、自分は何と言うのか。

 カオルさんが、今度は本当に死にました。誂えた柩に入ってます。

 冗談としか思えなかった。

 専用庭に面した窓に近づき、カーテンを開けた。ガラス越しに芝生もケーシャの小屋も今朝と変わらず存在していた。

 ソファに戻って腰掛けたとき、指が固い物に触れた。レインコートのポケットを探ると、金属の装飾品のようなものが出てきた。

 撮影に使った小道具で、ワインの瓶に差してあった栓だ。

 頼めばもらえるだろうに、カオルが撮影後にくすねたに違いない。

 ラッキーアイテム。「珍しい光り物が幸運を呼ぶ」と、夕べカオルに告げたブック占いを思い出した。

 信じてない、と言っていたくせに。

 「あたしね、本当はファンって大嫌い」

 昨日の夕飯時、彼女はそんなことを言い出した。夕飯だけは何を食べてもいいから、上機嫌といってよかった。

 「だって怖いんだもん。あたしのこと、しゃぶりつくそうとしてるんじゃないかな」

 皮肉っぽく唇を歪め、「あたしは何も食えないってのに」と呟きながら、彩子の皿のメンチカツに箸を伸ばした。「なのに、連中がいなけりゃ、どうしようもないときてる」

 彩子はふいに、何も起こらなかった気がしてきた。

 そう、二人一緒にここへ帰ってきたのだ。

 飽きっぽい彼女が今、このワインの栓を自分にくれたのだ、と思った。バッグを開け、それを仕舞った。

 灯りのついた食堂にとって返し、食卓に載せられた蚊帳を外した。

 いつものように、二人前の皿が向かい合わせに並んでいた。

 白身魚のフライ、肉じゃがに春菊のお浸し。何も喉を通りそうになかった。ビニール袋を持ってきて、二つの肉じゃがの器を空けた。フライとタルタルソース、千切りキャベツにお浸しと出汁醤油もそれぞれ袋に捨て、白飯も少し減らした。すると普段と同じ、食事が済んだ食卓になった。

 空いた皿を流しに運び、ビニールの口を結んで紙袋に入れると、玄関を出た。近くの公園で、大きなごみ箱に処分した。

 マンションに戻り、汚れた皿を食器洗い機に入れた。小鍋に若布のスープがあった。カオルはスープが嫌いなのだ、と思い、シンクの三角コーナーに流した。

 片づけが終わると、リビングのソファに横になった。いつもカオルが寝転がっていた場所。

 何ということをしたのか、と突然、思えてきた。

 遺体を動かすなんて。

 身体を起こし、バッグから携帯を出した。三輪田の言いつけに従ったまでだ。救急車はサイレンを鳴らさずに…。

 指が止まった。警察の事情聴取がある。

 カオルさんとはいつから。その前には商社にお勤めで。

 「根木さんという方はご存じですか」と、警官が訊く。

 「カメラマンの白水さんが共通の知人だとおっしゃってますが、三年前に発見された身元不明遺体が根木さんと判明しました」

 こちらも、転落死のようで。

 彩子は携帯を閉じた。考え続けることに精魂が尽き、食器洗い機のまわる音だけが奇妙な現実感を響かせていた。

(第09回 第5章前半)

 

 

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* 『お菓子な殺意』は毎月02日に更新されます。

 

 

 

 

■ 小原眞紀子さんの本 ■

メアリアンとマックイン 水の領分

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■