人と人はわかり合えるのか。愛する人はこの世の中のどこにいるのか。あなたはわたしのことがわかっていて、わたしはあなたのことをほんとうにわかっているのか。いつだって純な心は純な心を求める。

第三回辻原登奨励小説賞受賞作家・原里実による鮮烈な短篇恋愛小説連作!

by 原里実

 

 

 

 そのとき車掌さんは、わたしの家の駅から数えて三番目くらいの駅の名前を呼んでいた。

 お出口は、右側です。

 わたしが一瞬、それに気をとられた隙に、

 「まったく、よっぱらってへんな話しちゃったな」

 と先生は笑って、わたしからふいと目をそらした。すこしの間つながった気がした糸はこうしてすぐにぷつんと切れて、先生は遠くに行ってしまう。

 わたしは立ち上がった。先生が遠くに行ってしまう前に、わたしが遠くに行くのだ。

 「わたし、ここでおります」

 とつぜん立ち上がったわたしを、先生は少しびっくりしたように見上げた。

 「ここに住んでいるんだっけ?」

 違います、でも、とわたしはすこしの間だけいいよどむ。

 「きょう、おばあちゃんのうちに泊まることになっているの」

 電車は失速をはじめ、わたしの隣に立っていた太ったおじさんのからだがもたれかかってきた。わたしはほんのわずか、おじさんに対するいらだちを胸に抱くけれども、もしかしてほんとうに悪いのはそのおじさんのとなりの人かもしれないし、そのまたとなりのひとかもしれない。全員が少しずつ悪いのかもしれない、わたしも含めて。

 よろけたわたしの手首を、よっぱらった先生の熱い手のひらがつかんだ。

 「大丈夫だよ」

 先生はいった。とてもまっすぐな目をして、すこし前のめりにつまづくように。わたしはどうしていいかわからなくて、中途半端に笑ってみせた。でも先生は笑わなくて、かわりにもう一度いった。大丈夫だよ。

 押し切られるようにして、わたしは二、三度うなずいた。先生は悲しそうな顔をして、一度うなずいた。電車はそのまま失速を続け、やがて停止した。

 「気をつけて帰るんだよ」

 わたしの手首をそっと離して、先生はいった。

 先生も、とわたしはいった。そうして電車を降りる。先生がふれていたわたしの手首は熱いまま。

 「おやすみなさい」

 わたしの手首を離して、ほんとうに眠たくなってしまいそうな深い海のような声で先生はいった。

 「さようなら」

 わたしはいった。ほんとうは、おやすみなさい、といいたかったけれど。

 だいたい、きょうは最初からついていないのだ、と改札に向かって歩きながら、わたしはひとり考える。コンタクトレンズを落としたときからそれはわかっていた。ついていないのだから、こんな日に福引きをするべきではなかったのだ。

 そういえばわたしの前の人、一度しか引いていないのに、わたしと同じ百円券が当たっていたなあ、と、わたしはくだらないことが気になりはじめる。そうだ、あのときわたしは福引き所の手前で、持っている券がこれで全部だろうか、と枚数を確かめていたのだ。もしもわたしがそんなことをしないでさっさと列に並んでいたら、わたしはあのひとの代わりに福を引きあてただろうか、と考える。わからない、あれはあのひとの福であって、わたしの福ではないのかもしれない。

 そうだ、コンビニでアイスキャンデーを買おう、とわたしは思い立つ。思いついたらとてもいい考えのように思えてきて、わたしはうれしくて小走りになる。

 わたしのお財布の中にはいま小銭があふれている。がま口の財布は年季が入っていて、すこしまえから、小銭を入れすぎるとくちが閉まらないのだった。

 アイスキャンデーは八十四円だった。わたしはレジで百円と、十円を四枚出した。

 その百四十円をちら、とみて、

 「すいません、十円玉と一円玉、間違えてますけど」

 と店員はいった。わたしは彼を見た。若い男の人だった。その人はわたしの歪んだ視界の中で、困ったような笑顔の裏にいらだちを隠しているように見える。わたしがほんとうは百四円を出したかったのだと勘違いしている。でもわたしは、十六円のおつりを、この四十円と合わせて五十円玉にしてほしいだけだ。それならそういえばいいというたったそれだけのことなのに、理解されなかった、ということと、彼が怒っているということに気持ちがいってしまい、わたしはぷか、と口を開けたまま、視線は店員の笑顔とトレーのうえの百四十円の間を行ったり来たりする。すると彼はますますいらだち、わたしはますます目の前が真っ白になって、アイスキャンデーを買おうとわくわくしていた自分までとても悲しく思えて四十円を引っ込めようと右手をのばしたとき、

 「おつりを五十円玉にしてくれませんか」

 後ろから声がした。わたしは振り返った。

 「先生」

 雨でもないのにレインコートを着た先生が立っていた。

 ちっとも気がつかなかった、と思い、それから、左の方から来たからだ、と気がつく。

 きょうわたしは、左目のコンタクトレンズを落としてしまったのだった。

 「なにしてるの」

 「なにしてるって、帰るんだよ」

 先生は笑った。

 店員はとつぜん現れた先生にめんくらったように、あ、失礼しました、といってわたしにおつりを手渡した。けれどそのときにはもうすでに、おつりのことも、閉まらない財布のことも、店員のことも、わたしの中で色を失っていた。ちょっとばかり小銭がふえたところで、店員を苛立たせたところで、わたしにとってどんな大きな問題があるだろう。

 わたしは駅のほうに向かって歩き出す先生のベージュのうしろ姿についてゆきながら、

 「ありがとう、先生」

 と呼びかけた。算数までなら、だいじょうぶなんだ、と先生はいった。

 「どうしてレインコートなの」

 「今日降るっていってたじゃない、予報で」

 「いってた?」

 「いってたよ」

 だまされたなあ、と、それほど怒ってもいなさそうに先生はいった。

 アイスキャンデーをかじりながら、わたしは先生に初めて会ったときのことを思い出す。

 その日は雨が降っていた。わたしは日直で、漢文の宿題を回収し、放課後に国語科の部屋まで持っていった。だけれど漢文の先生はいなくて、代わりに、先生がいたのだ。扉をあけた瞬間に、先生の横顔が見えた。間抜けそうに、少し口をあけて、頬杖をついて、ぼんやりと窓の外をながめていた。雨が降っているのに窓は開いていて、吹き込んできてしまう、とそんなことが気になった、そのとき、先生のほっぺたに細かにあたる冷たい雨の粒をわたしは確かに感じたような気がした。そのうちに先生は、わたしが見つめているのに気がついた。恥ずかしそうに笑って、「豊田先生?」と訊いた。「部活かもしれないな」とても澄んだ声だった。わたしは何度かうなずいて、「先生の名前は?」とたずねた。「僕?」わたしはもう一度うなずいた。「水出です」そして名前を聞いておきながらびくともしないでかたまっているわたしに、やさしく笑って左手を差し出した。

 あのとき先生は窓の外に何を見ていたのだろう。

 「水出先生」

 名前を呼ぶと、先生はふり向いた。交差点の赤信号に、わたしたちは立ち止まった。

 「きれいな名前」

 ありがとう、と照れたようにいった先生の顔が、背景の中でにじむ。みんな泣いているみたい。信号も、街灯も、車のヘッドライトも、コンビニの灯りも駐車場の看板も、光るものはみんなじんわりにじんで見える。

 「北側、きょうは遅いんだね」

 先生はつぶやく。

 不思議に背景に溶けてしまうような、この感じは水の中みたいでもある。うまく身動きがとれなくて、息苦しくて、ぶくぶくと沈んでゆく、それでも世界はまぼろしみたいにとてもきれいだ。

 「寄り道してたんです」

 「寄り道?」

 水の中で会話することはできない、と物理の授業で聞いたことがあるけれど、いまのところわたしと先生との会話に問題は起こらない。わたしはそっと、腕を持ち上げて、先生のレインコートのするんとした肩にふれてみた。腕は軽く、かんたんに持ち上がった。水の中のようではなかった。

 「どうしたの」

 急に肩に触れたわたしに、先生は不思議そうにたずねる。

 「ごみがついてた」

 と教えてあげると、その通り信じてしまう。先生はほんとうに、笑ってしまうくらいいい人である。

 先生を見ていると、わたしはときどきモーリシャス島のドードーのことを思う。空を飛べないのに警戒心がまるでなく、短い間に人間にたくさん捉えられて、あっけなく絶滅したドードーのことを。

 先生、とわたしは話しはじめる。

 「先生わたし、このあいだあそこの駅ビルの文房具屋さんで、委員会の備品を買ったの」

 うん、と相槌をうってドードー先生は目を細めた。

 「そうしたらなんかキャンペーンやってるって、抽選券を九枚もくれて、それできょう抽選にいったの、そしたら百円券が一枚当たったんです」

 すごいじゃない、と先生はいった。けっしてわたしを子供扱いしているのではなくて、本当にすごいと思っているのだ。

 「でも九枚もあったのに」

 「じゃ、いまティッシュ八個も持ってるの」

 先生がたずねるのでわたしはすこし考えて、

 「でも先生にもう三個あげたから、いまは五個よ」

 と答えた。先生は、そうだっけ、といいながら右手に持ったかばんのチャックをあけて、ああ、そうだったね、といった。

 「それでね、百円券をドーナツに変えたの」

 とわたしがいうと先生は心からうらやましそうに、いいなあ、といった。

 「いいの?」とわたしはたずねる。

 「いいじゃない」と先生。

 「いいの?」とわたしはもう一度たずねる。

 「よくないの?」とすこしいぶかしげな顔になって先生。

 「だって、それはりっぱな横領よ、先生」

 先生はしばらくきょとんとして、それから、楽しそうに声をあげて笑った。

 「ばっかだなあ」

 先生が笑った。うれしくてわたしもすこし笑った。

 「ほんとうに、北側、きみはいつもそんなことを考えているの?」

 といった先生の声がすこしずつ、かげっていった気がして、わたしは先生の方を見た。思ったよりもずっと近くに、先生の顔はあった。近づいてきていたことに、わたしは気がつかなかったのだった。それは左からだったから。

 わたしは立ち止まった。

 そこは駅前で、夜の七時十八分、人通りは多く、おじさんやOLや大学生や中高生たちが迷惑そうにわたしと先生をよけてゆく。

 先生のほっぺたの冷たさをわたしは感じながら、「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」という百人一首の中の歌をわたしは思い出していた。水面からはみだした岩にふたつに引き裂かれた川の流れが、すぐにまたひとつになるように、いまは別れても、またきっと必ず会いましょう、という意味の歌だと、先生が教えてくれた。流れを妨げて人々を迂回させているわたしと先生が、その歌に出てくる岩みたいだな、と思ったのだ。

 わたしたちはただ互いの頬の温度を感じていた。わたしは悲しくなって、目を閉じた。けれど目を閉じると余計に、先生の悲しみが頬を通じてじんわりとにじんでくるような気がして、わたしはそっと先生から離れた。

 「いまの」

 「いまの?」

 「瀬を早み……」

 「瀬を早み?」

 「じゃなかった」

 既視感のような、よくわからないものがわたしの頭の中でゆらゆらとゆれる。それに気をとられているとそのまま倒れてしまいそう。

 先生はゆっくりと歩き出した。わたしはだまってそれについていく。

 「いまのは、遠近法じゃないかな」

 先生は自信なさそうにいって、定期券を改札にタッチした。

 「遠近法」

 わたしも先生について、定期券をタッチする。

 「うん、北側はきょう、片目しか見えていないから、人ってそういうとき遠近感がよくわからなくなるっていうじゃない、だからきっと、そのせいだよ」

 先生は相変わらず自信がなさそうだったけれど、先生がそういうなら、わたしはそれを信じる。

 先生のぼやけた黒い革靴が、階段を一段ずつゆっくりとのぼってゆく。

 わたしはベージュのコートの背中にただただついてゆく。かるがもの子どもみたいに。

 階段をのぼりきると、ちょうど列車が来て、扉が開いていた。風がふいて、湿ったような夜の匂いがして、先生の前髪がふわふわとゆれた。ホームにあふれていた人たちがつぎつぎと車内に吸い込まれてゆく。停車のメロディ放送が鼓膜をたたいて、光がやたらに多くて眩しくて、わたしはすこしめまいがしそうになる。

 「じゃ、気をつけて帰るんだよ」

 先生は吸い込まれる前に、大きな右手を上げた。やはり前髪をゆらしながら。

 「さようなら」

 ひとの波にもまれながらわたしはいった。きらきら光る、星の王子様みたいな先生。たしかにどこかで、見たことがあるような気持ちにふたたびなるけれど、すぐにどこかに溶けてしまう。

 ぱーん、と警笛をならしながら、反対側のホームにも電車がすべりこむ。わたしは先生に背を向けて、先生が振り向けばいいのに、と思うけれど、やっぱり息がつづかなくなって、ふり向いた。先生の電車はもうホームからいなくなっていた。

(了)

 

 

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* 原里実連作短篇は毎月11日にアップされます。

 

 

 

 

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