人と人はわかり合えるのか。愛する人はこの世の中のどこにいるのか。あなたはわたしのことがわかっていて、わたしはあなたのことをほんとうにわかっているのか。いつだって純な心は純な心を求める。

第三回辻原登奨励小説賞受賞作家・原里実による鮮烈な短篇恋愛小説連作!

by 原里実

 

 

 

 「健太くんは、学校の帰り?」

 「塾行ってた」

 「もう、塾行ってるの、たいへんね」

 そうでもないよ、と健太くんは大人びた口調でいった。

 「新しいことを教わるのは、楽しい」

 となりに座っていたおじさんが電車をおりて、うれしそうにわたしを見上げながら空いた座席をたたいたときの健太くんは、けれどやっぱり子どもだった。わたしたちは子ども同士だ。先生とわたしの歳よりも、わたしと健太くんの歳の方がずっと近い。そしてその近さを、ずっと、と思うのも、わたしが子どもであるからなのだ。

 わたしは健太くんの右となりに腰を掛けた。

 「今日はね、さんすうだった」

 「算数。なにをやったの」

 「九九だよ。学校ではまだ三の段までしかならってないけど、塾では九の段やったの」

 くいちがく、くにじゅうはち、くさんにじゅうしち、と健太くんは指を折りながら呪文のように唱え始める。

 すごいじゃない、と本心からほめると、えへへ、と嬉しそうに健太くんは笑って、興が乗ってきたのか、

 「けんた、のけん、ていう漢字もね、まだ学校では習ってないけど、もう書けるんだ」

 と続けた。手、出して、とわたしの右の手のひらに、ちいさな指で、健、と書いてくれる。わたしはくすぐったくて笑ってしまいそうになる。

 「あ! じゃ、おれここでおりるから」

 健太くんの湿った手のひらがふいにわたしから離れた。

 「そう、気をつけてね」

 またね、と健太くんはいった。また、会うことがあるのかしら、とわたしは思う。細くてちいさなからだは林立する大人のあいだをくぐりぬけて、すぐにみえなくなった。

 健太くんのくちびるは、ぷっくりしていて、なんだか、女性のようだった。もしかしてくちびるはお母さん似なのかもしれない、と思う。するとそのお母さんの赤いくちびるがとても濃いデジャビュのようにして、わたしの目の前に降ってくる。けれどそれもすぐに霧のように消えてなくなってしまう。なんだか今日は変なことばかり起こる。すべてコンタクトレンズを落としたせいだ。

 健太くんのお母さんは、彼の母でもあるし、先生の妻でもある。そして、ひとりの女性であり、人間でもある。それってどんな気持ちだろう。わたしにはわからない。先生は健太くんの父であり、先生の妻の夫であり、ひとりの男性であり、人間である。それがどんな気持ちかも、わたしにはやっぱりわからないと思った。

 「北側」

 と声をかけられて、わたしは顔をあげた。

 「先生」

 わたしは先生の顔を見上げた。わたしはそのとき先生の顔を見て、どうしてかすごくほっとした。

 先生は、わたしの右隣の座席にするりと腰掛けた。空いているのがそっちの席でよかった、とわたしは思う。

 きょう、左目のコンタクトレンズを落としてしまったから。

 「どうして、ここにいるの」

 「先生たちと飲んでて」

 そういわれると、いつもよりすこしだけほっぺたが赤い気もする。あー、よっぱらった、といって、先生は首の後ろを手のひらで押さえた。

 「きみも、ずいぶん遅いね」

 「寄り道してたの」

 「寄り道?」

 「ドーナツ」

 「ドーナツ?」

 「買ったの」

 いいなあ、と心から羨ましそうに先生はいった。怒らないの、とわたしはたずねた。

 「どうして怒るの」

 「悪いことしたくてやったの、わたし」

 ふうん、と先生は言った。

 「どうして悪いことしたくなったのかは、訊きたくないなあ」

 「どうして?」

 「それも答えたくない」

 「どうして?」

 「訊いたらきみは答えないだろう、っていったら、きみは答えないだろう」

 わたしはそれでも答えずに、だまっていた。先生は笑った。まるでこうなることをわかっていたみたいに。

 「なにかいやなことでもあったの」

 先生はわたしの目をみてたずねた。そうしてわたしははじめて、自分のなかの違和感に気がつく。わたしは先生の顔を見て、ほっとしていた。けれども、きっとわたしがいま先生に会えてほっとしているのは、ついさっき先生にひどいことをされたばかりだからだということに気がついたのだ。けれどもそのひどいことというのがいったいなんだったのか、思い出せない。

 「どうしたの」

 先生の黒い目は本気だった。本気で、わたしに起こったいやなことがなんなのか、それが自分に関することかもしれないなどとは露ほども思わずに、わたしに向かってたずねているのだった。

 わたしは教えてあげるのがいやで、というより、いやもなにもわたしの方こそその教えてあげるべきことを忘れてしまったのだったけれども、それは棚に上げて先生が覚えていないことをとても悲しく思った。これは、いじめられた子が忘れるのはいいけれど、いじめた子が忘れては決していけないというのと同じことだ、と思いながら、だまっていた。先生はだまっているわたしを見てすこし、悲しそうな眉毛をした。わたしはそれを見るのもまたいやだったので、目を閉じた。世界は暗かった。電車は揺れていた。

 「目が、辛いの?」

 わたしはさらさらと首を横にふった。そうだけれど、そうではない。

 「真っ暗なところにいったら、なんにも関係なくなるもの」

 そういいながらわたしが目を閉じたままでいると、先生もとなりで目を閉じる気配がした。わたしは目を開けて先生を見た。先生は目を閉じたままいた。静かに、そっと、できうる限りの誠実さで、わたしの気持ちに波をあわせようとするように。

 それを見てわたしは、やさしい先生のことを許してあげよう、という気持ちで胸がいっぱいになる。もやもやしている先生の閉じられたまつげと、通った鼻筋をわたしはじっと見た。

 「先生」

 わたしは呼んだ。先生はびっくりしたようにぱっと目を開けて、なんだ、もう開けてよかったの、といった。わたしはそれをきいてすこし笑う。わたしが笑ったので、先生もすこし笑った。

 「先生は、がちゃ目になったことある?」

 ないよ、と静かに先生はいった。僕は目がいいから、と先生はいって、そうね、知ってた、とわたしはいう。

 「とっても変なの」

 先生はわたしの左右の目を交互にみて、そう、といった。とっても変。

 「そう、透明人間みたいなの」

 「透明人間?」

 「先生」

 「うん?」

 「先生は一日に、いくつのことを決めていると思う?」

 わたしは、たずねた。むずかしいなあ、と先生はいって、ひとさし指でこめかみをかいた。少し困ったときにいつも先生がする仕草だ。

 「だいたいでいいから」

 「ううん、百個くらいかなあ」

 ふうん、とわたしがいうと、どうして、と先生は深い声でたずねた。

 「わたし、いま、自分でなんにも決めないでも一日生きられるんだっていうことに気づいちゃったんです。何時に起きるかとか、なにを着るかとか、なにを食べるかとか、なにをするかとか」

 先生はくるりと黒目を上に向けて、すこし考えてから、

 「きみはそれをいやだと思うの?」

 と少々遠慮がちにたずねた。

 「いやかどうかは、わからないけど」

 わたしも考えて、答えた。

 「ただ困ってるんです」

 困ってる、と語尾を下げて先生はくり返す。たったそれだけで、不思議なことに、わたしはつづきを少しだけ上手に話すことができるようになる。

 そうなの、とわたしはいって、呼吸を整えた。

 「わたしきょう、一日中、だれにも見えない透明人間みたいで、一日中そんなふうだったら、ふと、わたしがなにをしてもしなくても、だあれも気がつかないんじゃないかって思ったの」

 そう、と先生は白いため息をつくように相槌をうった。

 「そうしたら、わたしほんとうはいろんなこと、いままで決めていなかったいろんなこと、ほんとうはじぶんで自由に決められるんだってことを思い出しちゃったみたいなんだけれど、自分がほんとうは決めたいのか決めたくないのかわからなくて、決めたいのか決めたくないのかさえ、決めるのも決めないのも、どっちもいやなの」

 ずいぶんわがままだなあ、といって、先生は笑った。先生はわたしの膝か、あるいはぎゅうとにぎられて膝の上に置かれたこぶしあたりをみていた。

 「先生」

 「うん?」

 「あしたになっても、目が直っても、透明人間じゃなくなっても、やっぱりなんにも決められなかったら、わからなかったらどうしよう。それでもまた次の朝が来て、朝が来つづけて、そうしたらわたしどうなっちゃうんだろう」

 視界が一定しないせいで、まるでわたしまでよっぱらっているみたいに、いわなくてもいいことまでいってしまっているのかもしれない。

 「先生、わたし、朝がくるのがこわいの」

 うん、と先生はいった。先生は腕組みをといて、今度は手のひらを組んだ、その親指がくるくる、と動いた。

 「きっと、みんなそうだよ」

 先生はいった。電車はなめらかに、藍色の夜の中をすべってゆく。

 「生きていればいつかわかるかもしれないし、いつかわからなくてもいいと思うようになるかもしれない、でも、やっぱりずっとわからなくて、ずっと苦しいのかもしれない。どうなるかはわからない。きみだけじゃない、たぶんみんな、だあれもわかりやしない」

 「先生も?」

 「ああ、俺も」

 先生はじぶんを俺、といった。先生の、俺、は新鮮だった。

 「みんな途中にいるのさ。生きるってことは、ずっと、いつまでも、途中にいるってことなのさ」

 先生が急に、違う人みたいに見える。先生の低い声は知的な感じがするので、僕、という一人称が似合っていると思っていたけれど、俺、といわれると急にそっちの方がほんとうの先生なのではないかという気持ちになってくる。

 「ただ」

 「ただ?」

 もしもし、先生、ほんとうのせんせいはここですか?

 「俺はきみじゃないからわかることがある」

 心臓がどきりと波打った。わたしはつばをのみこんだ。

 「きみは幸せになれるよ」

 そういいながら先生は、わたしの顔をみなかった。下向きのまつげがさびしそうに、まばたきをした。

 「どうしてそんなこと、わかるの?」

 わたしの声はかすれていた。わたしは先生の横顔をみつめるけれど、先生の心の中をわかることはできない。

 どうしてだろうね、と先生は静かにいった。

 「先生も、幸せなの?」

 わたしはたずねた。先生はすこし考えて、そうだね、と肺の中の息を吐き出すようにいった。そうなのかもしれないね。

 わたしは先生から目をそらした。すると今度は、先生が顔を上げてわたしをみた。わたしは先生にばれないように、小さく深呼吸をした。そのあいだ、それでも、先生は目をそらさなかった。だからわたしは、先生をもう一度みた。

 そのすぐ後に、わたしは後悔した。けれども、そのときにはもう遅かった。ミイラ取りはミイラになった。視界のまんなかでぱきっとするでもなく、ぼやけるでもなく、中途半端ににじんだ先生の黒い目からわたしは目が離せなくなって、わたしは、わたしが先生をこんなにみつめることは果たして許されていたのだったのだったかどうか、ふわふわした視界の中でそんなこともわからなくなる。先生の目の中にわたしはおだやかな光をみる。

(下編に続く)

 

 

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* 原里実連作短篇は毎月11日にアップされます。

 

 

 

 

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