人と人はわかり合えるのか。愛する人はこの世の中のどこにいるのか。あなたはわたしのことがわかっていて、わたしはあなたのことをほんとうにわかっているのか。いつだって純な心は純な心を求める。

第三回辻原登奨励小説賞受賞作家・原里実による鮮烈な短篇恋愛小説連作!

by 原里実

 

 

 

 みんな泣いているみたい。信号も、街灯も、車のヘッドライトも、コンビニの灯りも駐車場の看板も、光るものはみんなじんわりと万華鏡のようににじんで見える。けれども左目を隠すと、すべてのものがぱっきりとした輪郭を取り戻し、固そうにちいさくまとまる。そういえば、いつもの世界はこうだった、と思い出す。思い出すと、ため息の粒が肺の奥でむくむくと大きくなりそうになって、それでも出てくる前にしぼんだ。

 「北側」

 声をかけられて、わたしは振り返った。

 「先生」

 ちっとも気がつかなかった、と思い、それから、左の方から来たからだ、と気がつく。

 きょうわたしは、左目のコンタクトレンズを落としてしまったのだった。

 「まだいたの」

 きょうわかったのは、左右の目の見え方が違うというのが、思ったよりもずっと疲れるということだった。世界のピントが合わないので、からだ全体がうすい膜に包まれてしまっているようなのだ。

 「寄り道してたの」

 というわたしの声は、けれどちゃんと先生に聞こえたようだった。その証拠に先生は、寄り道? とたずねた。

 ああ、よかった。わたしは心の中だけでそっとため息をついた。

 先生のスーツの肩に指先を伸ばしてみると生地がざらりとする。先生は本物なのだった。そして、わたしが先生のいる世界から切り離されてしまったというわけでもないのだった。

 「どうしたの」

 急に肩に触れたわたしに、先生は不思議そうにたずねる。

 「ごみがついてた」

 と教えてあげると、その通り信じてしまう。先生はほんとうに、笑ってしまうくらいいい人である。

 先生を見ていると、わたしはときどきモーリシャス島のドードーのことを思う。空を飛べないのに警戒心がまるでなく、短い間に人間にたくさん捉えられて、あっけなく絶滅したドードーのことを。

 先生、とわたしは話しはじめる。

 「先生わたし、このあいだあそこの駅ビルの文房具屋さんで、委員会の備品を買ったの」

 うん、と相槌をうってドードー先生は目を細めた。

 「そうしたらなんだかキャンペーンやってるって、抽選券を九枚もくれて、それできょう抽選にいったの、そしたら駅ビルで使える百円券が一枚当たったんです」

 すごいじゃない、と先生はいった。けっしてわたしを子供扱いしているのではなくて、本当にすごいと思っているのだ。

 「でも九枚もあったのに」

 百円券は、参加賞のティッシュの次に良い景品だ。わたしは口のなかでぶつぶつつぶやいた。

 「じゃ、いまティッシュ八個も持ってるの」

 そう、とうなずいて、先生にもあげる、とかばんを開こうとすると先生は、いいよ、とすこし笑う、けれどわたしは正直にいってこんなにたくさんのティッシュを持て余していて、さらにいえばそのせいでかばんがふくれてしまっているのがいやだったので、三つ先生に渡した。ありがとう、といって、先生はそれを受け取った。

 「それでね、百円券をドーナツに変えたの」

 とわたしがいうと先生は心からうらやましそうに、いいなあ、といった。

 「いいの?」とわたしはたずねる。

 「いいじゃない」と先生。

 「いいの?」とわたしはもう一度たずねる。

 「よくないの?」とすこしいぶかしげな顔になって先生。

 「だって、それはりっぱな横領よ、先生」

 先生はしばらくきょとんとして、それから、楽しそうに声をあげて笑った。

 「ばっかだなあ」

 先生が笑った。うれしくてわたしもすこし笑った。

 「ほんとうに、北側、きみはいつもそんなことを考えているの?」

 といった先生の声がすこしずつ、かげっていった気がして、わたしは先生のほうをみた。ほんのわずかな時間だけ、わたしのうえで合っていた気がした先生のきれいな茶色い目の焦点はするり、とわたしの奥でむすばれた。先生はわたしのひじをそっと引いた。うしろをみると、ひとの波がなにかの障害物をよけて、流れを変えていた。

 「瀬を早み……」

 「瀬を早み?」

 「っていう歌を、思い出した」

 わたしがいうと、先生はまたしばらくきょとん、とした顔をして、そしてまた笑った。

 さっそうと改札をくぐる先生の背中に、わたしは置いて行かれないようについていく。

 先生のぼやけた黒い革靴が、階段を一段とばしでのぼってゆく。かんたんに置いて行かれてしまう、とわたしは思うけれど、不思議とそうはならない。先生はやさしいからだ。わたしはグレーのスーツの背中にただただついてゆく。かるがもの子どもみたいに。

 階段をのぼりきると、ちょうど列車が来て、扉が開いていた。風がふいて、湿ったような夜の匂いがして、先生の前髪がふわふわと揺れた。ホームにあふれていた人たちがつぎつぎと車内に吸い込まれてゆく。停車のメロディ放送が鼓膜をたたいて、光がやたらに多くて眩しくて、わたしはすこしめまいがしそうになる。

 「じゃ、気をつけて帰るんだよ」

 先生は電車に吸い込まれる前に、大きな右手を上げた。やはり前髪をゆらしながら。

 「さようなら」

 ひとの波にもまれながらわたしはいった。

 ぱーん、と警笛をならしながら、反対側のホームにも電車がすべりこむ。わたしは先生に背を向けて、振り返らなかった。先生が振り向けばいいのになあ、とかすかに思うけれど、わたしが振り向かないので結局、先生が振り向いたかどうかは永遠に謎のままになる。

 わたしも電車にのりこんで、つり革を握りながらさっきの、右手を上げた先生が星の王子様みたいだったな、とすこし思う。思っていると、

 「北側」

 と声をかけられて、振り返った。

 「先生」

 ちっとも気がつかなかった、と思い、それから、左の方から来たからだ、と気がつく。

 きょうわたしは、左目のコンタクトレンズを落としてしまったのだった。

 「あら、生徒さん?」

 歌うような声が、先生の陰から、聞こえた。目を凝らすと、先生は後ろにちいさなひとを隠している。そうか、わたしいま遠近感がわからないから、このひとこんなにちいさくみえるのかしら。

 「うん。文化祭委員の北側さん」

 先生はわたしのことを、ちいさなひとにそう紹介した。わたしは誰にも気づかれぬまま、かすかに、傷つく。文化祭委員の北側さん、二年B組の北側さん、生徒の北側さん。先生の中でわたしはただのわたしではない。わたしの中で先生はただの先生なのに。

 「こちら、妻です」

 先生は、ちいさなひとのことをそう紹介した。妻。

 「はじめまして、妻です」

 妻たる人物はふっくらと笑った。はじめまして、とわたしは答えた。先生の妻として、ただそれだけの存在としてここに立っている人。本当は誰なのだろう。分厚いくちびるの、口角の上がり具合の左右対称性がわたしは怖くなって、視線をそらした。

 「いつも主人がお世話になっています」

 主人。わたしは先生のお世話になんかしていないけれど、と思った。思っていたら、

 「お噂は、かねがね」

 などといってしまった。

 「やあだ、どんな噂かしら」

 妻はそれを聞いてころころと笑った。

 かねがねって、なんかへんな言葉、と、わたしはどうだっていいことを思う。そうだ、今度先生に聞いてみよう。先生、どうしてかねがねはかねがねって言うの。

 「どうしたんですか、おふたりで」

 どうしたら良いのかわからずに、わたしはまた聞きたくもないことを聞く。

 「たまには待ち合わせして食事でも、って主人が」

 主人を横目でみながら、妻はそういった。主人は照れたように、妻の言葉に半端な感じでうなずいている。

 すてきですね、といって欲しいのかもしれないけれど、わたしにはいえなかった。先生はただの主人なんかじゃない。

 わたしはそっと左目を左手で隠した。妻の輪郭ははっきりとひとつになった。やはり本物なのだ。どうしたんですか、と妻は不思議そうにたずねる。

 「きょうさ、コンタクトレンズ片目だけ落としちゃったんだって、ばかだろう」

 先生が横からいって、楽しそうに笑った。わたしも楽しくなって、笑おうとした、けれどその前に、

 「生徒さんのことをばかだなんて、そんな」

 と主人に、そして、すみません、と生徒さんに、妻はいった。

 妻は当然のように、主人のかわりに生徒さんに謝罪する。いいえ、そんなことなんでもありません、とわたしは思った。わたしは妻にとってただの生徒さんでも、妻にとっての主人はわたしにとってただひとりの先生だからだ。そのことをわざわざ、先生や妻にいうつもりはなかったけれど、考えていたらなにも気のきいたことをいえず静かになってしまって、そうしたら結局、いってしまったのとおなじことだと思う。

 わたしはもう諦めてしまって、そっと、首をもとの角度にもどした。すると先生も、妻も、ぼやけた視界の中に消えてしまう。最初からなにもなかったみたいに。

 だいたい、きょうは最初からついていないのだ、とわたしはひとり考える。コンタクトレンズを落としたときからそれはわかっていた。ついていないのだから、こんな日に福引きをするべきではなかったのだ。

 そういえばわたしの前の人、一度しか引いていないのに、わたしと同じ百円券が当たっていたなあ、と、わたしはくだらないことが気になりはじめる。そうだ、あのときわたしは福引き所の手前で、持っている券がこれで全部だろうか、と枚数を確かめていたのだ。もしもわたしがそんなことをしないでさっさと列に並んでいたら、わたしはあのひとの代わりに福を引きあてただろうか、と考える。わからない、あれはあのひとの福であって、わたしの福ではないのかもしれない。

 「北側さん」

 しのごの思考していたわたしは名前を呼ばれて、つり革を握る自分の手から、声のした方に視線を落とした。

 わたしを呼んだのは、目の前に座っている男の子だった。右目と左目の視野の境目で、男の子はぼんやりと溶けてしまいそうなぎりぎりのところを保っている。

 きょう、左目のコンタクトレンズを落としてしまったのだ。そのせいで世界は歪んでいる。

 「北側さんでしょ」

 きっと怪訝そうな顔をしているのだろうわたしに、男の子は念を押すようにもう一度いった。

 たぶん、小学校低学年くらいだろう。制服の半ズボンから、棒のように細くて白い足が飛び出していた。頭の上にはすこし大きすぎる紺色の帽子が乗っていて、その下に隠れそうになっている、黒目がちな目がだれかに似ている。だれだっただろうか、たぶんわたしの、とても好きな人に。

 「健太だよ」

 悩んでいるわたしに、健太くんはいった。それを聞いて腑に落ちる。笑ったときの気の抜けた顔が、先生にそっくりだ。

 それがわかってしまうと、ついさきほど自分の胸に降ってきた、とても好きな人、という概念が見慣れないもののように、すこしの違和感をもってわだかまりとして残った。人は何かを思い出すとき、そのものを思い出す前に、それが好きか嫌いか、楽しいことか嫌なことか、そのものにまつわる感情を先に思い出す、わたしはそれをいつも不思議に思う。そしてそれはあまりにも正直で、ときどきあまりにも酷だと思う。

 「どうしてわたしのこと知ってるの」

 「パパの写真で、見たことある」

 きっと去年の林間学校のときの写真かなにかだろう。これは北側さん、と、先生はきっとそういったのだ。うれしい気もするし、悲しい気もして、わたしはわたしがほんとうはどう感じるのが正解なのか、すぐにはわからない。わからないのでなにも感じないようにする。

(中編に続く)

 

 

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* 原里実連作短篇は毎月11日にアップされます。

 

 

 

 

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