金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

Ⅲ 英文学研究と文学のヴィジョン-『文学論』『文学評論』(下編)

 

 

 「君は自分(だけ)が一人()っちだと思ふかも知れないが、僕も一人坊っちですよ。一人坊っちは崇高なものです」

 高柳君には(この)言葉の意味がわからなかつた。(中略)

 「それが、わからなければ、到底一人坊っちでは生きて()られません。――君は人より高い平面に()ると自信しながら、人がその平面を認めてくれない為めに一人坊っちなのでせう。(しか)し人が認めてくれる(よう)な平面ならば人も(のぼ)つてくる平面です。(中略)自分こそ後世に名を残さうと力むならば、たとひ同じ学校の卒業生にもせよ、(ほか)のものは残らないのだと()ふ事を仮定してか()らなければなりますまい。(中略)大差別があると自任しながら他が自分を解してくれんと云つて煩悶するのは矛盾です」

 「(それ)で先生は後世に名を残す御積(おつも)りでやつてゐらつしやるんですか」

 「わたしのは少し、違ひます。(中略)わたしは名前なんて(あて)にならないものはどうでもい()。(中略)(ただ)かう働かなくつては満足が出来ないから働く迄の事です。(中略)これが、わたしの道に相違ない。人間は道に従ふより外にやり様のないものだ。人間は道の動物であるから、道に従ふのが一番貴いのだらうと思つて居ます。(後略)」

 ()げか()つた山高帽を阿弥陀(あみだ)(かぶ)つて、毛繻子張(けじゅすば)りの蝙蝠(こうもり)傘をさした、一人坊っちの腰弁当(下級文学者くらいの意味)の細長い顔から御光(ごこう)がさした。高柳君ははつと思ふ。

(『野分』明治四十年[一九〇七年]一月)

 

 『野分』は漱石が帝大で『文学評論』を講義している最中に書かれた。初出は明治四十年(一九〇七年)一月一日発行の「ホトトギス」で、実質的主人公は文学者の白井道也(しらいどうや)である。といっても世に認められた文学者ではない。大学を出て教師の職についたが学校の教育方針と道也の教育思想が合わず、辞めざるを得なくなった。「博士はえらからう、(しか)(たか)が芸で取る称号である。(中略)道也が(学校を)追ひ出されたのは道也の人物が高いからである」と漱石は書いている。道也は漱石自身がモデルである。清貧の中で自己の信じる仕事を淡々と続ける道也が漱石の理想の文学者像なのかもしれない。道也は文芸誌の編集者などを細々と勤め、いつ世に出るかわからない作品を執筆している。

 

 この世に埋もれた文学者に強い興味を抱くのが高柳である。大学を卒業したばかりの文学青年だ。道也は高柳の中学時代の先生だった。しかし道也を煙たく思った教師にそそのかされてほかの学生たちと一緒に騒動を起こし、学校から追い出してしまった。「(ただ)いぢめて追ひ出しちまつたのさ。なに()い先生なんだよ。(中略)子供だから丸でわからなかつたが」と高柳は回想している。

 

 高柳はたまたま道也が雑誌に発表した文章を読んで強い感銘を受ける。友人の中野の話から東京に戻っていることを知り、かつての教え子だということを隠して道也宅を訪ね、親しく言葉を交わすようになる。引用は高柳が自己の苦悩を赤裸々に道也に告白した箇所である。高柳は孤独な青年だった。また自己の作品が世に受け入れられないことに苦悩していた。

 

 「自分こそ後世に名を残さうと力むならば、(中略)外(ほか)のものは残らないのだと()ふ事を仮定してか()らなければなりますまい」という道也の言葉は、『文学論』の天才的意識論に正確に対応している。また『吾輩は猫である』発表以降の漱石山房の賑わいばかりが強調されがちだが、漱石は道也と同様にずっとひとりぼっちだった。子規を始めとする少数の理解者しかいなかった。その孤独の中で漱石は「より高い平面」を、明治文学がやがて到達するだろうFnの文学ヴィジョンを考え続けていた。

 

 「わたしは名前なんて(あて)にならないものはどうでもい()」とソフィスティケートしているが、漱石が明治の金字塔となる文学を書こうと強く志していたことは間違いない。実際漱石は日本近代文学を代表する作家になったわけだが、道也のように世に埋もれたままその一生を終える可能性もあった。ただ人はこうなりたいと願う人間にしかなれない。漱石の文学に対する高い志が、終生にわたって彼の文学を変化させ続けたのである。

 

 「文学に紅葉氏一葉氏(尾崎紅葉、樋口一葉)を顧みる時代ではない。是等(これら)の人々は諸君の先例になるが為めに生きたのではない。諸君を生む為めに生きたのである。(中略)是等の人々は未来の為めに生きたのである。子の為めに存在したのである。(しか)して諸君は自己の為めに存在するのである。――(およ)そ一時代にあつて初期の人は子の為めに生きる覚悟をせねばならぬ。中期の人は自己の為めに生きる決心が出来ねばならぬ。後期の人は父の為めに生きるあきらめをつけなければならぬ。明治は四十年()つた。まづ初期と見て差支(さしつかえ)なからう。すると現代の青年たる諸君は(おおい)に自己を発展して中期をかたちづくらねばならぬ。後を顧みる必要なく、前を気遣ふ必要もなく、(ただ)自我を(おもい)(まま)に発展し得る地位に立つ諸君は、人生の最大愉快を極むるものである」(中略)

 「なぜ初期のものが先例にならん?初期は(もつと)も不秩序の時代である。偶然の跋扈(ばっこ)する時代である。僥倖(ぎょうこう)の勢を得る時代である。初期の時代に(おい)て名を揚げたるもの、家を起したるもの、財を積みたるもの、事業をなしたるものは必ずしも自己の力量に()つて成功したとは()はれぬ。(中略)中期のものは(この)点に於て遥かに初期の人々よりも幸福である。事を成すのが困難であるから幸福である。困難にも(かかわ)らず僥倖が少ないから幸福である。困難にも(かか)はらず力量次第で思ふ所へ行ける程の余裕があり、発展の道があるから幸福である。後期に至るとかたまつて仕舞(しま)ふ。只前代を祖述するより外に身動きがとれぬ。(中略)

 「以上は明治の天下にあつて諸君の地位を説明したのである。か()る愉快な地位に立つ諸君は(この)愉快に相当する理想を養はねばならん」

(『野分』)

 

 道也が世話になっている雑誌社で、社会主義者の嫌疑をかけられ拘束された記者がいた。長期拘留で困窮したその家族を救うための演説会が開かれることになった。演説会の収入を同僚の家族に渡すのである。道也も講師の一人に選ばれた。道也の講演は「現代の青年に告ぐ」というタイトルである。「自己は過去と未来の連鎖である」で始まるこの講演を、漱石が『文学論』「集合的F」論を元に書いているのは言うまでもない。高柳青年も聴衆の中にいた。

 

 道也は人間の「生存の意義」を初期・中期・後期の三期に分けて論じている。初期は次世代の「子の為めに存在する」時期である。中期は「われ(その)物を樹立せんが為めに存在する」時期である。後期は「(中期の)父母の為めに存在する」時期である。初期は新たな文化創生期、中期は文化隆盛期、後期は文化衰退期である。

 

 漱石の認識では明治の四十年間は「明治開化の初期」である。この時期に活躍した文学者は新たな文化の創始者だが、中期の「子の為めに存在」したのである。初期の文学者は中期の青年たちのお手本にはなり得ない。なぜ初期の文学者たちの仕事が「先例」にならないのかと言えば、彼らの仕事が「不秩序」で、「偶然」と「僥倖(ぎょうこう)」によって評価されたものだからである。それゆえ中期を生きる現代の青年たちは理想を掲げ、本質的に「自己の為めに存在」する新たな文学を構築しなければならない、というのが道也の講演の要点である。

 

『文学評論』自筆稿

 

 『文学論』「集合的F」論に即せば、初期は能才的意識(秀才)の時代、中期は天才的意識(天才)、後期は模擬的意識(模倣者)の時代ということになる。この漱石の文学史観は現在から振り返れば驚くほど正確な認識だった。坪内逍遙(しょうよう)二葉亭四迷(ふたばていしめい)、尾崎紅葉、幸田露伴など明治二十年代から三十年代の文学を支えた初期の作家たちは、現在では文学史に名前が残るだけでその作品はほとんど読まれていない。現実の寿命は別として、彼らの文学的生命は二十年代から三十年代でほぼ尽きてしまった(露伴は漱石と同い年だが戦後の昭和二十二年[一九四七年]まで生きた)。大正・昭和文学に直接的に強い影響を与えた文学は、明治四十年以降の中期の文学者たちによって生み出された。漱石はその中核である。

 

 また漱石は明治の四十年を初期としているので、初期・中期・後期の文学サイクルは四十年単位と仮定できる。つまり初期は一八六八年から一九〇七年(明治元年から四十年)、中期(文学全盛期)は一九〇八年から四七年(明治四十一年から昭和二十二年)、後期(文学衰退期)は一九四八年から八七年(昭和二十三年から六十二年)までで、一九八八年(昭和六十三年)から二〇二七年までは再び混沌とした、だが新たな文学ヴィジョンを模索する初期の時代ということになる。

 

 漱石の四十年文学サイクル説にしっかりとした裏付けがあるわけではない。しかし漱石の文学史観は示唆的だ。日本の現代文学の手法は戦前までにほぼ出尽くしている。戦中の自由の抑圧から解放された戦後文学はジャーナリズムの大発展もあって華々しいものとなったが、大局的に見れば概ね戦前文学を継承したものであり、緩やかな衰退に向かっていたと言っていい。それは二十一世紀初頭における戦後文学のほぼ完全な崩壊・消滅が証明している。現在の文学界が大きな変容期にあり、文学ジャーナリズムのあり方も含めて試行錯誤の時期に入っているのも確かである。

 

 もし現在の文学の混迷が二〇二七年まで続くのだとすれば、それは同時代を生きる者にとっては絶望的に長い。この四十年間にすっぽりと活動期間が重なってしまう文学者もいる。しかし漱石は講演で「明治の四十年を長いと()ふものは明治のなかに齷齪(あくそく)して()るもの()云ふ事である。後世から見ればずつと縮まつて仕舞(しま)ふ」と道也に言わせている。それは現在の混乱期も同じだろう。

 

 「先生(中略)(この)原稿を百円で私に譲って下さい」(中略)

 道也先生は茫然として青年の顔を見守つて()る。(中略)

 高柳君は懐から受取つた(まま)の金包を取り出して、二人の間に置いた。

 「君、そんな金を僕が君から・・・・・・」と道也先生は押し返さうとする。

 「い()え、いゝんです。()いから取つて下さい。――いや間違つたんです。是非此原稿を譲つて下さい。――先生私はあなたの、弟子です。――越後の高田で先生をいぢめて追ひ出した弟子の一人です。――だから譲つて下さい」

 愕然たる道也先生を残して、高柳君は暗き夜の中に紛れ去つた。

(『野分』)

 

 高柳は結核を病んでいた。それを心配した友人の中野が転地療養を勧め、当時としては大金の百円を出してくれる。中野の家は裕福だったのだ。金を懐に道也の家に暇乞いに行くと、金貸しが取り立てに来ている最中である。借金取りは今夜中に貸した百円を返せと道也に迫る。道也は動じることなく淡々と、今書いている原稿を本屋に売ったら返すと繰り返すばかりである。もちろん原稿が売れる見込みはない。

 

 高柳は道也に原稿を見せてくれと頼み、「百円で私に譲って下さい」と言うと原稿をつかみ、懐の金を置いて道也の家から去る。高柳青年は、いわば自分の命と引き替えに道也の原稿を買ったのである。このような赤の他人同士の無媒介的で強固な精神的結びつきを描いているという点でも『野分』は重要な作品である。この主題については「Ⅴ 漱石的主題」で改めて論じる。(了)

鶴山裕司

 

 

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* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

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