『江戸琳派の旗手 鈴木其一展』

於・サントリー美術館

会期=2016/09/10~10/30

入館料=1300円(一般)

カタログ=2800

 

 

 

 

 鈴木其一(きいつ)は幕末を代表する琳派の絵師である。寛政八年(一七九六年)に江戸で生まれ、安政五年(一八五八年)に当時江戸で猖獗を極めたコレラに罹って死去した。享年六十三歳。鷗外が史伝に書いた渋江抽斎もこのコレラ流行の時に死去している。あと十年ほど長生きしていれば明治維新という最幕末である。其一は言うまでもなく、姫路藩酒井家藩主・酒井忠仰(ただもち)の次男(第四子)、酒井抱一の弟子である。

 

 姫路藩では抱一の兄・忠以(ただざね)が藩主となったわけだが、忠以は大変な文化人であった。忠以の書や絵、それに手びねりの茶碗などが残っているが、極めて頭が良く、芸術的センスに恵まれた人だったことがわかる。芸術に専念すれば、抱一に比肩するような芸術家になったかもしれない。抱一は兄とともに、江戸姫路藩藩邸で文化サロンのような場を持っていた。世継ぎになる可能性が完全に断たれたこともあり、寛政九年(一七九七年)に三十七歳で出家して風流の道へ進んだ。抱一は次男なので定府(参勤交代をしない江戸住みの武士)住まいだった。抱一の洒脱な作風は江戸っ子のものだ。

 

 抱一は寛政年間に尾形光琳に私淑し始め、江戸琳派を再興した。琳派は本阿弥光悦を遠祖とし、光琳を始祖とする絵画の流れだが、狩野派のように代々家によって受け継がれた流派ではない。絵師たちは琳派の技法を援用したが、はっきり光琳の後継者として琳派を称したのは抱一が初めてである。文化十二年(一八一五年)には光琳百回忌を主催し、『光琳百図』も刊行している。当時の光琳レゾネである。其一は抱一の画風を受け継いだ琳派系の絵師ということになる。

 

 展覧会は「江戸琳派の旗手」と銘打たれていたが、これはまあ、いわゆるジャーナリスティックな賛辞である。もちろん其一が素晴らしい絵師であるのは間違いないが、はっきり言えば抱一には劣る。ただまあそこにはちょっとした思い込みも影響していたことを、今回の展覧会の図録を読んでいて気づいた。

 

 其一は町人の出だとばかり思っていた。身分格差を持ち出すと申し訳ないのだが、抱一作品の高貴さからはどう見てもちょっと劣る其一の画風を、町人の出だからと解釈して納得していたところがあるのだ。この其一町人説は、其一の直弟子である中野其明が、其一の父親は近江の国の出で、江戸中橋に住む紫染の職人だったと書いていることに由来する。其一に親しく師事した其明が、師の口からその出自を聞いたことは疑いない。また其一が出自を偽る必要などないはずだ。しかし其一は武士の出だという説がある。

 

 酒井家家臣・松下高徐が抱一の事蹟をまとめた「等覚院殿(とうかくいんどの)(抱一の法名)御一代」には、其一は酒井家「小普請方水野勝之助殿家来飯田藤右衛門厄介」と記されている。抱一には鈴木蠣潭(れいたん)という付き人がいた。鈴木家は親子二代にわたって抱一の付き人を務めた。蠣潭は優れた絵師で作品も残っている。この蠣潭が文化十四年(一八一七年)に二十六歳の若さで死去し、跡取りがなかったため、其一が鈴木家の女と結婚して跡を継いだのだと「御一代」にはある。「御一代」は其一こと飯田藤右衛門の甥・西村為三郎が鈴木家の婿として家督を継いだのは文化十四年(一八一七年)二十三歳の時のことだと記載しているので、其一の生年は従来より一年早い寛政七年(一七九五年)で、出自は下級だが武士ということになる。

 

 この其一町人説と武士出自説は、どちらが正しいのか現在に至るまで裏が取れていない。江戸中期頃から御家人株・旗本株(武士株)は売買されていて、町人でも株を買って武士になる者たちがいた。中野其明は其一の父は「江戸紫染の始祖」と書いているので、手広く商売をした裕福な町人だったようだ。株を買って息子の一人を武士にした可能性はあるだろう。抱一は絵の下働きや代作をする付き人や弟子を必要としていたので、町人の出であろうと、鈴木家でも蠣潭(れいたん)と同レベルの腕を持つ其一が望ましかったのかもしれない。ただどちらかわからない以上、先入観を持って作品を見るのは危険だなぁと思ったのでした。

 

酒井抱一『白蓮図』

一幅 絹本墨画着色 一〇四・三×三七・二センチ 江戸時代後期 細見美術館蔵

 

鈴木其一画 大田南畝(蜀山人)賛『蓮に蛙図』

一幅 絹本着色 九七×三九・一センチ 江戸時代後期 メトロポリタン美術館蔵

 

 抱一と其一の蓮図である。南畝の賛は「はちす葉に おしくら露は 弥陀の光か 有がたや/そのとき蛙 まかりいで それは おれが小便だ/これは語斎ぶしのうたとなん」である。語斎節は江戸初期の浄瑠璃の一種である。蓮の葉におりた露をありがたい阿弥陀の光とだと思いきや、それは俺の小便だと蛙が茶化している。狂歌師らしい賛である。

 

 抱一の方は円熟期の作品である。其一は「庭柏子」の署名があることから若い頃の作品だ。技術の習得レベルが違うのだから、比較すれば其一の方が圧倒的に不利である。ただ其一は円熟期に差しかかっても、抱一のような極度に高い精神性を感じさせる絵を描いていない。だから出自の差が絵の差になってしまったのではないかと思ったりするわけだが、よく考えてみると、抱一に比肩するような画家はほとんどいない。宗達はもちろん光琳も、絵の洗練の度合いでは抱一にはかなわない。

 

 抱一作品の精神性は、宗教的なそれともまた違う。抱一作をたくさん見るとそれは誰でも理解できるはずである。ちょっと奇妙な言い方になるが、その美しさはある種の感覚欠落症を思わせる。異様に美しいのである。美以外の要素を削ぎ落としたような作品だ。このような美の極致とも言えるような作品を作ったのは、抱一の兄・忠以(ただざね)くらいかもしれない。酒井家の文化サロンで生まれた兄弟共通の美意識のようなものがあったのだろう。其一は確かに抱一の弟子だが、その独自性は抱一特有の洗練美とは違う。

 

鈴木其一画『群鶴図屏風』

二曲一双 紙本金地着色 各一六四・八×一七五センチ 江戸時代後期 ファインバーグ・コレクション

 

鈴木其一画『朝顔図屏風』

六曲一双 紙本金地着色 各一七八・二×三七九・八センチ 江戸時代後期 メトロポリタン美術館蔵

 

 『群鶴図屏風』は其一の比較的初期の作品であり、『朝顔図屏風』は菁々(せいせい)其一の署名があることから晩年作だとわかる。其一は五十歳に近づいた弘化元年(一八八四年)頃から靑々号を用いるようになったことが知られているからだ。菁々は青々とした生命の盛りを意味するので、晩年を意識した其一の反語的な雅号だろう。もしかすると戯作の響きもあるかもしれない。より自由な画風を求めた心境の表れとも取れる。

 

 其一は琳派のトレードマークとも呼ぶべきたらし込み(まだ濡れている色の上に色を乗せぼかしの効果を生み出す)技法を自家薬籠中のものとしている。琳派が好んだ画題も多い。ただ最も其一らしさが表現されているのは『群鶴図屏風』や『朝顔図屏風』といった作品だろう。

 

 なるほど絢爛豪華な絵で、鶴の背後の流水の描き方など琳派以外のなにものでもない。朝顔図は光琳『燕子花図』を想起させる。しかし師の抱一はもちろん、ほかの琳派の作家たちも其一のようなベタリとした平面絵画は描かなかった。この奥行きのない、言い方を変えればすべてを表面絵画として表現しようとする技法が最も其一らしい作風である。

 

 またいわゆる日本画では画面の余白効果を上手く利用する。其一もまた大胆に余白を残した作品を作っている。そのような作品は、先人の作風に倣ったという趣きである。ただ余白を活かすためには絵のタッチを少し抑える必要があるが、其一が力を込めた作品はどれも絵が強い。そのため余白が絵の一部ではなく、絵の背後に退いてしまう印象を与える。

 

鈴木其一画『藤花図』

一幅 絹本着色 九九・五×三六・五センチ 江戸時代後期 ヤマタネ

タン美術館蔵

 

鈴木其一画『富士千鳥筑波白鷺図屏風』

二曲一双 紙本金地着色・紙本銀地着色 各一四七・八×一七六センチ 江戸時代後期 個人蔵

 

 『藤花図』と『富士千鳥筑波白鷺図屏風』の署名はともに菁々其一であり、晩年作だとわかる。江戸以前の絵師はすべてそうだが、明治維新以降に芽生えた個人主義的自我意識をもって絵を描いていない。先人の画風に学びながら、ほんの少しだけ従来の画風とは異なる独自の境地を切り開いた。

 

 抱一に始まる江戸後期琳派の画家は其一だけではない。早世した鈴木蠣潭(れいたん)はもちろん、抱一の養子・鶯蒲(ほう)、其一の息子・守一や弟子の中野其玉などたくさんの絵師がいる。抱一を師系とする系譜である以上、その画風が似るのは当然である。どの画家の手になるのか、パッと見ただけでわかる作品は意外と少ない。ただ『藤花図』や『富士千鳥筑波白鷺図屏風』といった作品は、一目で其一だと見て取れるだろう。

 

 師・抱一の最上の作品には高度に繊細な幽玄の趣きがある。しかし其一の最上の作品は鮮やかすぎるほど鮮やかで、その輪郭が明瞭である。もちろんそこには当時流入し始めていた西洋画の影響もある。ただ若冲的な写生とも質が違う。其一という絵師は、物が見えすぎていたように思う。それが琳派という様式に当てはめられる時、一種異様な迫力を生むのである。

山本俊則

 

 

 

 

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