パティシエを目指していた彩子は、ある罪を犯した怖れから逃げ隠れして暮らしている。行き着いた先は、人気が陰りをみせた歌手・カオルの付き人の仕事。だが不運はつきまとい、ついに運命の大事件へと…。詩人・小原眞紀子の原案が甘やかな哀愁とともに語られる、待望の金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第3弾!

原作・小原眞紀子 作・露津まりい

 

 

 

 

 

4 ショコラを砕けば香りは高く(後編)

 

 

 妙につるつるした自分の腕を、彩子は見ていた。手足が強ばり、でくの坊そのものだ。と、革張りのソファに放り出された。

 冷たい感触にぞくっとする。暖炉の上に、黄色いカーディガンを着た人形があった。ぽろりと目玉が取れるが、飴玉らしかった。砂糖とスパイスでできている。

 闇の中で跳ね起きた。

 時計は三時で、さっき寝ついたばかりだった。明日のCF撮りに緊張して、眠りが浅いのだろう。一日目のプロモ撮影で駆けずり回り、足が棒のようだ。

 そう、まるで、でくの坊の人形。

 カオルが真壁に贈ったというのは、昔、ファンクラブが作った巨大なカオル人形だった。

 「ダッチワイフだって」と、真壁は大笑いした。

 「母に持ってきてくれたんですよ。他にもFCグッズがあると自慢しておられましたけどね。顔を印刷したマグカップとか、デビュー曲のオルゴール付き宝石箱とか」

 だが、収拾策がどうやらまとまった、その打合せのときに、真壁は彩子に言ったのだ。

 「この企画の完成後、もしよかったら弊社の広報を手伝ってもらえませんか。製菓学校の学費ぐらい、出させますから」

 明朝は早い。彩子は無理やり目を閉じた。

 と、そのとき微かな声がした。気のせいだろうと、彩子は寝返りを打った。一瞬の後、その声はかん高く響いた。

 起き出してドアを開けた。

 歌声が糸のように流れている。スリッパを履いて廊下に出た。

 階段を降りるにつれ、声ははっきりしてきた。

 浴室のガラス戸の奧から激しい水の音がする。奇妙なリズムでタイアップ曲を歌いながら、カオルがシャワーを浴びているのだった。

 二階に戻ろうとしたとき、ふと、寝室の入り口が目に留まった。床にパジャマが脱ぎ散らされている。

 吸い寄せられるように近づくと、ベッドにガウンが放られ、サイドテーブルの引出しから紙切れの端がはみ出ていた。

 その黒いサイドテーブルの周囲が、粉をはたいたように汚れていた。

 彩子は寝室に入り込んだ。引出しの取っ手に指をかけると、鍵がかかっている。

 そのとき、歌が止んでいることに気づいた。シャワーの音はまだ聞こえている。

 寝室の照明を消し、慌てて廊下へ出た。水音が止まった。鉢合わせを避けるため、階段をまわり込み、納戸の影に隠れた。と、同時に廊下の電気が点いた。

 その瞬間、しまったと思った。

 寝室の照明を消してしまった。室内が見えたのは、灯りがついていたからだ。

 入ったことに、気づかれただろうか。

 ドアが閉まる音がした。少し経ち、ドアの隙間から洩れていた光が消えた。

 壁から身を剥がすと、爪先で階段に近づき、一気に駆け上った。

 布団に潜り込み、彩子は息を潜めた。

 家政婦が言っていた。「カオルさん、このところ、起きているのに寝ているような目で」

 開けっぴろげな彼女が引き出しに鍵を。

 サイドテーブルを汚していた白い粉。

 薬物だ。

 布団の中で、彩子は確信した。自身、一度だけ打たれた、あの経験が蘇ってくる。

 

 もう別れて、と彩子は言った。会社の寮を出て、彼のマンションで暮らし始めて四ヶ月目のことだった。

 受付嬢として勤めていた商社に、撮影の手伝いで来ていた根木は、名前の字画を見てあげる、と彩子に言った。方角を見るからと住所を尋ね、何の占いだったか、携帯番号まで聞き出した。

 カメラマンというのは名ばかりで、間もなく彩子の貯金に手を出すようになった。最初から水商売をさせるつもりだったのだろう。製菓学校も会社も、占いを口実に辞めさせられていた。

 さすがに男の本性に気づいた彩子は、こっそり自分でアパートを見つけ、それなりに準備をして、別れ話を切り出した。

 突然、意識が朦朧となった。

 気がつくと板張りの床で寝ていた。古い校舎を改築したようだった。

 紫のフェイクの毛皮を纏わされ、その下は全裸のあられもない格好だった。根木が背中を向けてカメラをいじっていた。

 すでに撮られた、と瞬間的にわかった。

 ふらふら立ち上がり、男に体当たりした。根木が落としたカメラを奪い、逃げ出した。やはりそこは廃校のようだった。下駄箱らしき場所にあった誰かの靴を履いたとき、看板が目に入った。数人の女がたむろしている。風変わりな売春宿だった。

 外は真っ暗な山の中だった。裏手の小道で、根木に追いつかれた。カメラを脇に放り、揉み合いながら闇雲に突き飛ばした。後ろが崖だということはわかっていた。

 殺してやる、と思わなかったか。

 殺さなければ、逃げられない。

 少なくとも確かに、そうは思った。

 水上温泉の近くだということは、カメラを拾い、山を下りた麓のタクシー乗り場でわかった。紫の毛皮一枚で、借りたばかりのアパートまで辿り着いた。知られていないはずのアパートに、不意に根木が現れることばかりが怖ろしかった。

 あの水上近辺の山中で見つかったという身元不明遺体は、やはり根木だったのか。

 しかし、なぜ身元不明なのか。たまたま何も持たず、あの宿に知り合いもいなかったのか。

 崖とはいえ、木立が鬱蒼と茂っていて、まさか死んだとは思っていなかったのだ。もしあの直後、警察に届けていたら…。だが、正当防衛という言葉は知っていても、証明してくれる者はいないのだ。

 警察。

 もしこのカオル宅に、麻薬捜査隊でも踏み込んできたら。

 そんな捜査に巻き込まれるわけにはいかない。明日、撮影が終了したら、ともあれすぐにここを出ようと、彩子は決意した。

 

 煉瓦造りのスタジオ・キッチンを、スタイリストやバックバンドのメンバー、事務所のスタッフや久能木が取り囲んでいた。広告代理店の若い女の子は真壁の隣りでうんざりした顔をしている。

 なるべく大勢を集め、盛り上げてカオルを乗せようとした手は、だが裏目に出たようだった。葡萄酒色のワンピースに白いエプロン、黒縁の眼鏡に長い鬘を被った彼女は一時間も椅子に坐り込んでいる。繰り返し流されるサビ部分のアレンジに首を傾げているのは、まるで嫌がらせだった。

 午前中、プロモ撮影は順調に完了した。

 後からフィルム処理で描き込まれる魔物に追いつめられてゆく演技は上々。またしても坊主に刈り上げ、黒いアンティークのオーガンジーを身に纏った本人が、見えない敵と戦いつつ後退する。

 例の柩はその先に口を開け、葬られた海から復活する最後の場面は一階に広げたスクリーンを使い、わずか二〇分で撮り終えた。

 が、このCF撮りは果たしてどうなるやら。

 と、そのとき突然、カオルは立ち上がった。

 老いさらばえたアリスのような格好で真っ直ぐディレクターに近づくと、「勝手にやらしてよね」と言い放つ。

 急拵えのコンテを手に、新人ディレクターは気圧されたように頷いた。

 「はい、いきまーす」

 1カメが威勢よく声をかけた。キッチンに入ったカオルは、古い白黒テレビの電源を入れた。午前中に撮ったばかりのプロモが編集され、そこに映り込む手筈になっていた。

 カメラが二台スタンバイし、ディレクターがカチンコを鳴らした。

 カオルは奥様ふうに眼鏡を持ち上げ、テレビに見入るふりをする。

 いやあねえ、と顔をしかめ、シンコペーションのリズムで冷凍庫と冷蔵庫を開いた。と、冷凍パスタのパックと卵を放り上げ、落ちてくるのを後ろ手で受け止め、三つの玉葱を蹴ってぶら下がった鍋に当て、冷凍パスタをフライパンに空けた。眼鏡を外してオイオイ泣き、床に倒れて大の字になると、2カメが慌ててカウンターに突っ込んだ。

 が、エプロンの端をくわえたカオルが、どうしましょ、と科をつくり、猛烈な湯気の中から立ち上がった。テレビ画面に向かって尻を突き出し、ボクシングのパンチを繰り出すと、カンカンカンカンとゴングが鳴ったように両拳を振り上げ、いきなりダッシュしてカウンターに跨ると、フライパンの中身を皿にぶちまけ、猛烈な勢いでスパゲッティを食った。

 鬘をむしり取って「カーット」と、自分で叫んだ。音楽とテレビ画面の表示がぴったり終わった。

 三分半だ。周囲はしんと静まっている。

 「すごーい」と、スタイリストの里佳が呟く。

 「正気かよ」と、久能木が頭を振った。

 商売、間違えてるんじゃないか、と囁き声も聞こえた。

 坊主頭にエプロンドレスのカオルは、憮然とした顔でカウンターを降りると、「あとは適当に編集して」と言った。

 「ほい、撤収、撤収」

 三輪田の声を合図に、全員の拍手が湧き起こった。歩み寄った彩子の頭に、カオルは手に持っていた鬘をぽんと被せた。一瞬、前が見えなくなる。

 「カオルさん、あの卵は」と、真壁の声がした。「ええと、だいぶ練習されたんですか」

 「まぐれよ。あれ一回しかできない」

 「じゃ、もし落っことしてたら」

 「そんときは別の卵、使う」と、面白くもなさそうに言う。「冷蔵庫、なぎ倒して」

 「そいつは見たかったな」と、真壁は残念そうに呟いた。

 スタッフたちが片づけはじめた騒音の中で、「あとはプロモのロケだけだなあ」と、三輪田が上機嫌で言い出した。

 「どう、これから皆で食事でも」

 「あたしはだめ」と、カオルは冷淡に答えた。「柩を倉庫棟に戻さなきゃ」

 「戻さなきゃって、制作スタッフが運ぶよ」

 「監視するのよ」と、カオルは言い張った。「傷がつくかもしれないでしょ」

 「そのための予備だろ」と、三輪田は呆れたが、カオルは軽蔑したように鼻で笑った。

 「それに、明後日のロケで、どっちを使うか決めなきゃ」

 「どっちって、同じじゃないか」

 カオルはもう返事をせず、楽屋代わりの奥の洗濯部屋へ入ってゆく。

 洗濯部屋の扉をノックすると、カオルは膝を抱え、床に坐り込んでいた。エプロンを外したきり、まだ衣装のままだ。

 「あの、着替えは」

 「これでいい」

 カオルはバッグからレーバンのサングラスを出した。

 坊主頭に葡萄酒色の裾の長いワンピース、緑のサングラスという、妙な出で立ちのカオルの後につき、彩子も館の外に出た。

 もう日はとっぷりと暮れていた。

 カオルは駐車スペースにしゃがみ込み、サングラスを外した。

 玄関先の灯りで、その場に運ばれた柩に傷がないかと、調べている。

 「あたし、どうだった」

 振り向いたカオルに「素晴らしかったです」と、彩子は答えた。

 「よいこの皆さんは真似しないでくださーい」と、カオルは裏声を出す。「刃物だけは振り回すなって言うから、やめといてやった」

 「編集仕上げがよければ、インパクトが出るでしょうね」

 お世辞のつもりはなかった。「『できる女はアグレッシブに料理する』ってコピー、どうでしょう」

 「さっきの最初のキャラクターさ、眼鏡かけた小母さん」

 カオルは急に笑い出した。「あれ、真壁さんの御母堂、若かりし頃のイメージよ。息子さんも満足されたようだけど」

 皮肉っぽく唇を歪め、「気取ったババアよ」と呟く。

 「きっとバラエティの出演依頼も来ますよ」と、彩子は矛先を変えた。

 「馬ッ鹿らしい、あんなもん、三分半以上見てられるやつがいるか」と、カオルは吐き捨てた。

 「あんな真似できたって、何の役にも立ちゃしない。あんたたちだって、暴れると迷惑そうにしてるじゃないさ」と嘲笑った。

 やがてスタッフが三人、駐車場に出てきた。

 カオルが待っているのに気づくと、抱えたベニヤ板を置き、倉庫棟の両開きの扉を開け放った。内階段は狭いので、いったん外へ出した柩をここから倉庫へ運び込む手筈になっていた。

 二人が見守る中、スタッフらは慎重に柩を肩に乗せた。コンクリ敷きの玄関を抜け、白々とした蛍光灯の下の長い廊下を進んだ。

 倉庫の一階は、ソファや天蓋付きベッドが並んだ家具屋のようだった。奥の左の隅に荷物用の吊り下げ型エレベーターがあり、スタッフは静かに柩を下ろすと、剥き出しの鉄骨に備えられた赤と緑のボタンを操作しはじめた。

 ゆっくりした速度で降りてきたエレベーターに柩が収まると、二人も促され、彼らの後から螺旋階段を上った。

 三階の通路を運ばれる間も、カオルは柩から目を離そうとしなかった。収納場所の小部屋に着くと、男たちは会釈して現場へ戻った。

 小部屋の中で、長い時間、カオルはほの暗い電球に照らされた二つの柩を見比べていた。

 「こっちを海に入れる」

 カオルは右側を指差し、彩子が渡したポストイットを自分で貼った。

 と、人の気配に振り返ると、さっきのスタッフの一人が様子を窺っていた。

 「ああ、いいわよ。社に戻るんでしょ」

 「それでは、お帰りのときは警備室に声をかけてください」

 挨拶する男に、カオルはもう見向きもしなかった。

 柩に繋いだ鎖の留め金や、とぐろを巻くロープと鎖の接合部まで仔細に眺めている。以前見たときからさらに手が入り、凝った彫刻にセピア色の塗料が塗られて古色がついていた。

 「皆、あたしが死んだらどうするかな」

 カオルは囁き、柩の蓋を持ち上げようとした。

 「ときどき見たくなるんだ。誰も悲しまないところを、さ」

 「自殺は勘弁してください」彩子は息を吐いた。

 「あたしね、事務所と切れようと思うんだ」

 唐突に、カオルは言い出した。

 「前から考えてはいたの。『すべてを思い切れ』って言われて、踏ん切りがついた」

 「『千住の伯母』」ですか」彩子は呟いた。

 そうよ、とカオルは頷き、彩子に手伝わせて蓋を床に下ろし、柩に入って横たわる。

 「『内なる真の希みを』。この柩がその象徴。ここから『復活への閾を抜け』る」

 カオルは跳ね起き、「そら、復活」と笑った。

 「で、独立する。あんたには独立事務所のマネージメントを頼むよ」

 「無理です。わたしは、」

 「決まったのよ」とカオルは遮った。「白水が言ってた。あんたは断らないって」

 白水が。なぜ。

 が、彩子はその問いを口に出せなかった。

 カオルは柩から出ると、ポケットにあったサングラスをかけた。

 「心配ないって。事務所は自宅だから経費かかんないし。『成り行きに救いの光』ってさ」

 「でも、」

 抗弁する彩子を振り切り、明るい通路に出ると、「あんたにもわかるでしょ。すべてチャラにして、まっさらになれるわよ。何があってもさ」とカオルは言う。

 「悪いことしても、ひどい写真を撮られても」

 彩子は立ち止まった。

 サングラス越しの彼女の視線は表情が読めなかった。

 「女二人でやり直そう、白水なんかぶっ殺そうぜ。真壁のことなんか、忘れなさい」

 甲高く笑い、カオルは駆け出した。彩子の手を振り払い、薄暗い踊り場に飛び込んでゆく。

 「気をつけて、右に穴が」

 彩子は叫んだ。エプロンドレスの裾が泳ぐようにひらめき、幅広い螺旋階段へ頭から吸い込まれていった。

(第08回 第4章後半)

 

 

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* 『お菓子な殺意』は毎月02日に更新されます。

 

 

 

 

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