金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

第Ⅱ章 漱石小伝

―― 『漱石とその時代』を未完のまま自死した江藤淳に

 

■ 晩年 ―― 「則天去私」文学 ■

 

 漱石は大正四年(一九一五年)の寺田寅彦宛年賀状の余白に、「今年は僕が相変(あいかわ)つて死ぬかも知れない」と書いた。漱石の健康状態は相変わらずすぐれなかった。漱石は年末に大阪朝日から依頼されていた原稿を一月四日から二月十四日まで書いた。連作エセー『硝子戸(がらすど)(うち)』である。

 

 漱石は東京朝日の山本笑月宛に「去冬阪朝から新年に何かといふ注文があつたのを(中略)あなたの方に廻します。もし此方(こちら)(東京朝日)でも都合がつくなら載せて頂きたいからです。(しか)し無理をする必要もない(ほど)のものですから御都合が悪いなら御手数ですがどうぞあなたの方から大阪の長谷川(如是閑(によぜかん))君の方に廻して上げて下さい」(大正四年一月九日)と手紙を書いた。

 

 どんな組織でもあることだが、庇護者池辺三山(さんざん)を失った東京朝日社内での漱石の立場は弱いものになっていた。『硝子戸の中』は『心』と同様に岩波書店から漱石の自装で自費出版された。

 

 『硝子戸の中』を書き上げると、漱石は京都に移住した津田青楓(せいふう)の元へ遊びに行った。青楓が誘ったのだが、漱石を京都に連れ出すよう鏡子夫人に頼まれたのだった。

 

 胃病もさることながら、鏡子や子供たちは、大正二年末頃から再び始まった漱石の神経衰弱に悩まされていた。『行人』を書いていた頃には、鏡子が胃の薬と偽って睡眠薬を飲ませていたことも漱石門の林原耕三の証言からわかっている。弟子や友人たちには常に穏和な漱石も、家族にとっては手のつけられない暴君だった。弟子たちによれば鏡子は「悪妻」ということになってしまうが、鏡子の行為を責めることはできない。漱石は三月十九日に京都へと旅立った。

 

 漱石は木屋町御池の旅館北大嘉(きたのだいか)に泊まり、津田青楓や西川一草亭(いつそうてい)と京の町を遊び歩き、旅館で一緒に書画を描いて過ごした。また祇園の文学芸者として有名だった磯田多佳と親交を結んだ。多佳の紹介で芸妓の野村きみ、梅垣きぬ(芸名金之助)も漱石の話し相手になった。

 

 しかし青楓たちから饗応を受けたせいもあったのだろう、漱石はまた胃痛で寝込んだ。二十五日には東京から姉高田(ふさ)危篤の電報が届いたが、帰京することはできなかった。漱石は日記に「帰れば此方(こちら)が危篤になるばかりだから仕方がないとあきらめる」(『大正四年[一九一五年]日記』三月二十五日)と書いた。房は漱石の京都滞在中に亡くなった。

 

 胃痛が和らいで帰京しようとした矢先、漱石はまた胃痛で倒れた。今度は青楓の電報で、四月二日に東京から鏡子が駆けつけた。漱石は鏡子に付き添われ、ようやく十七日に東京に戻った。ただこの京都旅行は漱石には楽しいものだったようで、帰京した漱石は多佳や野村きみ、梅垣きぬ、青楓や一草亭らに丁寧な礼状を書いている。特に野村きみに依頼されて描き贈った書画帖『不成帖(ならずちよう)』、『拙哉帖(せつかなちよう)』は力のこもった良い書画集である。

 

 漱石は五月下旬頃から『道草』を書き始め、九月上旬に脱稿した。初期にはほとんど原稿を書き直すことのなかった漱石も、この頃には小説を書き上げるまでに大量の反故原稿を抱えるようになっていたことが、内田百閒(ひゃつけん)の証言で知られている。

 

 『道草』は評判が良かった。漱石がこの小説で幼年時代の体験を回想し、赤裸々に私生活を描いたからである。つまり『道草』は、当時文壇を席捲していた自然主義的私小説の一つと捉えられたのである。だが『道草』は単純な私小説ではない。

 

 『彼岸過迄』『行人』『心』三部作は、バランスの悪い異様な文体構造を持っていた。写生文的な短篇の積み重ねだが、観察者は『猫』のように作品世界から縮退することなく、同じ時空間で、実質的主人公である被観察者と対峙する。観察者は空虚な負の主人公として、鏡のように実質的主人公の自我意識を隅々まで映し出そうとするのである。

 

 しかし漱石は人間の自我意識すべてを捉えきれなかった。また三部作で漱石は、彼の中で初期から一貫していた「人間同士の無媒介的相互理解は可能か」というテーゼが、不可能であるという結論にたどり着いた。漱石は『心』で実質的主人公である先生に、私と呼ばれる最良の理解者を得てもなお自死を選ばせた。

 

 それは哲学的帰結として、あるいは直観的真理として正しいだろう。しかし小説は観念ではない。あくまで現実世界に留まり、人間世界の不可避的矛盾や解消不可能な苦悩を描かなければならない。漱石は『彼岸過迄』『行人』『心』三部作で一つの哲学的帰結を得て、『道草』で濃厚な現実世界に戻ってきたのである。

 

 漱石は『道草』で文体を、『三四郎』『それから』『門』三部作で援用した三人称一視点に戻した。自我意識と他者意識との関係性を客観的に描くためである。漱石の主題は「世の中に片付くなんてものは(ほと)んどありやしない。一遍(いっぺん)起つた事は何時迄(いつまで)も続くのさ」という言葉に表現されている。『心』の先生の自殺は直観的真理かもしれないが、自死は現実の人間世界にとって、小説にとってなんの解決にもならないのである。

 

 『道草』では養父との金銭問題が重要な小説の筋である。しかしこの問題はすでに解決済みだった。漱石が『道草』で描こうとしたのは、本質的には主人公と妻との夫婦関係である。それは『坊っちやん』で、血気盛んな主人公を立身出世に取り憑かれた功利主義的社会と戦わせながら、本質的には女中・清との関係を主題にしたのと似ている。ただ『坊っちやん』では主人公と清との愛はあの世で成就するが、『道草』の夫婦の精神は交わることのない平行線を辿る。『道草』も岩波書店から刊行された。ただし装丁は自装ではなく津田青楓である。

 

 『道草』を脱稿した頃に、第三次、四次『新思潮』同人芥川龍之介、久米正雄、松岡譲らが漱石を訪ねてきた。『新思潮』は明治四十年(一九〇七年)に小山内薫が創刊した帝大系の同人誌で、第二次『新思潮』は谷崎潤一郎や和辻哲郎らを輩出していた。第六次には川端康成や今東光らが参加している。芥川らのほかに百閒や和辻も漱石宅を訪れ、小宮豊隆や森田草平、滝田樗陰(ちよいん)ら昔ながらの門下生たちも顔を出すようになって、漱石門の木曜会は再び活気あるものになった。漱石は東京大阪両朝日の注文で年末から『点頭録』を書き始めた。『点頭録』は両朝日新聞に、翌大正五年(一六年)一月一日から二十一日まで掲載された。

 

 大正五年(一九一六年)の年始から、漱石は激しい左腕の痛みに悩まされていた。リューマチだと考えた漱石は、一月末から二月上旬まで湯河原に療養に出かけた。旧友中村是公が漱石に合流した。二月十五日に第四次『新思潮』が創刊され、芥川の『鼻』が掲載された。漱石は芥川に「あ()いうものを(これ)から二三十並べて御覧なさい文壇で類のない作家になれます」(龍之介宛書簡 大正五年二月十九日)と書き送って『鼻』を賞賛した。

 

 漱石の読解力は非常に優れていた。漱石が伊藤左千夫の『野菊の墓』(明治三十八年[一九〇五年])を絶賛したのはよく知られている。鈴木三重吉の出世作『千鳥』(三十九年[〇六年])を「ホトトギス」に推薦し、朝日新聞に長塚(たかし)の『土』(四十三年[一〇年])や中勘助の『銀の匙』(大正二年[一三年])などを掲載させた。島崎藤村の『破戒』(三十九年[〇六年])に関しても「明治の小説として後世に伝ふべき名篇(なり)。金色夜叉(尾崎紅葉の代表作)の(ごと)きは二三十年で忘れられて(しか)るべきものなり。破戒は然らず」(森田草平(そうへい)宛書簡 三十九年四月三日)と書き送った。

 

 ただ『破戒』について漱石は、「僕は何となく西洋の小説を読んだやうな気がした」(『夏目漱石氏文学談』明治三十九年)とも語っている。藤村がドストエフスキーの『罪と罰』の影響の下に『破戒』を書き、その後社会派小説を書くことなく、私小説作家の道を歩んだことは今日では衆知の通りである。

 

 尾崎紅葉を別にすれば、明治三十年代で最も器用な文学者は藤村だった。藤村は俳句・短歌の七五調にヨーロッパの恋愛幻想を振りまいた『若菜集』で詩壇の寵児となり、ヨーロッパ文学の主題と形式を器用に真似た『破戒』で文壇の寵児となった。藤村が詩壇・文壇での成功ではなく、文学そのものと真摯に向き合ったのは、『春』(明治四十一年[一九〇八年])以降の私小説においてである。

 

 藤村のような器用さは芥川にも指摘できる。芥川は漱石に私淑したが、漱石門かどうかは疑問である。芥川は鷗外とも親交があった。『羅生門』(大正四年[一九一五年])や『鼻』(五年[一六年])などの初期小説は鷗外の歴史小説の方法論を援用している。中後期の『侏儒の言葉』(昭和二年[二七年]は漱石の理知主義を援用した作品であり、後期の『歯車』(同)や『或阿呆の一生』(同)は私小説である。

 

 残酷な言い方をすれば、鷗外や漱石をなぞった作品で文壇の寵児と持て囃されたことが芥川の文学的生命を縮めた。芥川の文学は激しい混乱を示しており、それが時に前衛的に映ることがある。しかしそれは文学的汎用性を持たない。芥川は自殺に際して「僕の将来に対する(ただ)ぼんやりとした不安」と書き残した。この言葉は様々に解釈されているが、謎と言い出せばどんなに短い言葉にも謎はある。芥川は要するに「書けない」と言っただけである。文学者はどうしても書き残したい作品があれば、子規や漱石のように病苦に悩まされても自死を選んだりはしない。

 

 漱石の左腕の痛みは四月に真鍋嘉一郎に診察してもらったところ、糖尿病が原因だと判明した。漱石は胃病に加え糖尿病の治療もしながら五月末頃に『明暗』を起稿した。『明暗』執筆中の漱石の健康と精神状態は不思議に穏やかだった。

 

 漱石は久米正雄と芥川龍之介宛に、「僕は不相変(あいかわらず)「明暗」を午前中に書いて()ます。心は苦痛、快楽、機械的、(この)三つをかねてゐます。存外(ぞんがい)涼しいのが何より仕合(しあわ)せです。(それ)でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ(くらい)です。さうして七言律です。中々出来ません。(いや)になればすぐ()めるのだからいくつ出来るか分りません」(大正五年[一九一六年]八月二十一日)と書いた。漱石は毎日午前中に連載一回分の『明暗』を書き、八月十四日から十一月二十日までに、「午後の日課として」七十五篇の漢詩を作った。

 

 修善寺の大患以降、漱石は東洋的理想郷(イデア)への傾倒を深めてゆき、南画だけでなく漢詩も書くようになった。しかし面白いことにそれと反比例して、小説世界はかつてないほどギリギリとした人間同士の自我意識の衝突を描き出すようになる。

 

 『明暗』は津田とその妻お(のぶ)を主人公に立てた三人称二視点小説である。二人、あるいは三人、四人の主人公が現れて、交互に物語を語ってゆく小説はたくさんある。だが漱石の『明暗』ほど、明確な方法的意図を持って書かれた三人称二視点小説は現在まで存在しない。『明暗』の主人公は確かに津田とお延だが、彼らは登場人物の一人であり、便宜的に主人公になっているとも言える。津田とお延、それに彼らを取り巻く主要登場人物の自我意識の描き方が、ほぼ完璧に等価だからである。

 

 つまり作家漱石は『明暗』の物語世界の上位審級にいる。上位審級から物語世界を俯瞰している。しかし神のように登場人物たちを操っているわけではない。登場人物たちはそれぞれの重く固有の自我意識を抱えたまま、自動律的に衝突し合う。その衝突によって小説、つまりは現実世界の中に、一つの調和が自律的に成立してゆく。それが漱石が晩年に見出した「則天去私」文体構造である。

 

 漱石は小説を執筆し始めると書画の創作を控えていたが、それでも面会日で安息日でもある木曜日には書画の筆を取った。漱石に積極的に書画を描かせたのは滝田樗陰だった。晩年、漱石は書を良寛に倣った。大正三年(一九一四年)頃から良寛の書に傾倒し、良寛が暮らした越後出雲崎に近い高田の森成麟造医師に、良寛の書を購入してくれるよう再三頼んでいた。漱石が良寛の書をようやく入手できたのは大正五年(一六年)四月である。

 

 また漱石は、神戸祥福寺の若い禅僧鬼村元成(きむらげんじよう)(当時二十一歳)と富沢敬道(けいどう)(珪堂)(二十四歳)と大正三年頃から文通していた。二人は名古屋の徳源寺の開山五十年大会(だいえ)に参加した後、大正五年(一六年)十月二十三日に上京して三十一日まで漱石宅に泊まった。漱石と二人はこの時が初対面である。『明暗』執筆中の漱石に代わって鏡子が二人の相手をした。別れに際して漱石は墨絵で松と竹を描き、それぞれ賛を添えて二人に贈った。

 

 若い二人から漱石が学ぶべきものはほとんどなかっただろう。しかし漱石は若い禅僧の中に、知識(学問)と行動(修行)の合致という理想を見た。漱石は敬道宛に「私は五十になつて始めて道に志す事に気のついた愚物です。(その)道がいつ手に入るだらうと考へると大変な距離があるやうに思はれて吃驚(びつくり/rt>)して()ます。あなた方は私には()(わか)らない禅の専門家ですが矢張(やは)り道の修行に(おい)て骨を折つてゐるのだから五十(まで)愚図々々(ぐずぐず)してゐた私よりどんなに幸福か知れません、(また)()んなに特(殊)勝な心掛か分りません。私は貴方方(あなたがた)の奇特な心持を深く礼拝してゐます」(大正五年[一九一六年]十一月十五日)と書き送った。

 

 

 晩年の漱石の思想はほとんど道学者や倫理学者のそれと言ってよい位相に近づいていた。漱石は「倫理的にして始めて芸術的なり。真に芸術的なるものは必ず倫理的なり」(『大正五年[一九一六年]日記』)と書いた。「則天去私」は喩えれば禅の悟りの境地に近い思想である。ただ漱石は「則天去私」思想を、単に人間精神にとっての一つの抽象的理想郷として捉えていたわけではない。

 

 林原耕三らの証言から、晩年の漱石が、「則天去私」思想を基にもう一度帝大で『文学論』を講義してみたいと語っていたことが知られている。突き詰めてゆけば漱石にとって、「則天去私」思想はやはり文学の問題だった。遺作『明暗』はもちろん、『明暗』執筆の傍らで書き続けられた大量の漢詩作品が漱石の「則天去私」思想を体現している。

 

 大正五年(一九一六年)十一月二十一日、漱石は鏡子夫人とともに辰野隆と江川久子の結婚披露宴に出かけた。午前中に『明暗』の百八十八回目を書き終えて、漱石は新しい原稿用紙の右肩に「189」と書いていた。翌二十二日昼の十二時頃に、机に突っ伏して動けないでいる漱石を女中が発見した。原稿は右肩に「189」が書かれたままの状態だった。

 

 鏡子はすぐに床を敷いて漱石を寝かせた。漱石は鏡子に「人間も何だな、死ぬなんてことは何でもないもんだな。おれは今かうやつて苦しんで()ながら辞世を考へたよ」と言った(『漱石の思ひ出』)。漱石はこのまま病床から起たなかった。

 

 病床で漱石は、「頭がどうかして()る。水をかけてくれ、水をかけてくれ」と呻き、「死ぬと困るから」と言ったと伝えられる(『漱石の思ひ出』)。漱石門の弟子たちの中には、先生がそのような言葉を口にするはずがないと言う者がいるが、複数の人が証言していることから漱石はそう言ったのだろう。

 

 漱石は十二月九日の午後六時四十五分に亡くなった。数え年で五十歳、満年齢で四十九歳の早すぎる死だった。津田青楓は漱石の死に顔をデッサンに残した。また森田草平の発案で、彫刻家の新海竹太郎(しんかいたけたろう)が漱石のデス・マスクを作った。『明暗』は十二月十四日まで朝日新聞に連載された。

 

 漱石が可愛がった若い禅僧、富沢敬道は、十二月八日に漱石の危篤を新聞で知った。敬道は「涙がぽろぽろ出た。やたらに町を歩いた。翌日先生は亡くなられた」(『風呂吹きや頭の丸い影二つ』)と書いた。寺田寅彦は「夏目先生を失ふた事は自分の生涯にとつて大きな出来事である」と日記(大正五年[一六年]十二月三十一日)に短く書き付けた。森田草平は「私は今昴奮(こうふん)している。先生が亡くなられてから(ほとん)ど絶間なしに人と応接していたので、悲しいということもまだよく解らない」(『夏目漱石』)と書き残した。

 

 漱石の葬儀は禅宗で行われ、明治二十七年(一八九四年)に漱石が参禅した、鎌倉円覚寺の釈宗演(しやくそうえん)が導師を勤めた。遺体は東京帝国大学医科大学病理解剖室で解剖された。漱石が胃潰瘍の治療を受けた長与胃腸病院院長、長与称吉の弟、又郎が執刀した。宗演が付けた法名は「文献院古道漱石居士」である。墓は今も東京の雑司ヶ谷霊園にある。

鶴山裕司

 

 

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* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

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