人と人はわかり合えるのか。愛する人はこの世の中のどこにいるのか。あなたはわたしのことがわかっていて、わたしはあなたのことをほんとうにわかっているのか。いつだって純な心は純な心を求める。

第三回辻原登奨励小説賞受賞作家・原里実による鮮烈な短篇恋愛小説連作!

by 原里実

 

 

 

 海辺くんはいつもすずしい顔をしている。特徴的なのは切れ長の黒い目。背が高くてやせていて、髪は黒くて天然のカールがすこしかかっている。肌の色は珊瑚礁のように白い。つまり、海辺くんの顔は、とてもきれいである。

 けれど海辺くんのすごいところは、そんなことよりもほかにある。というのはだれひとり、海辺くんの声を聞いたことがないのだ。休み時間はもちろんのこと、海辺くんは授業中もふくめけっしてひとこともしゃべらず、さながら芦めいたたたずまいでただ無口にそこにいる。いつも固く閉じられたくちびる、動くことのない表情筋。海辺くんの顔はそれによってこそきれいに見える、そういうとくべつな顔なのかもしれないとわたしは思っている。

 授業中、海辺くんを指そうとする教師はいない。一年生のときのクラスで、英語の教師が海辺くんをあて盲腸で運ばれた、といううわさがまことしやかにささやかれているからだ。教師たちは、海辺くんをいないことのように扱うのがとても得意である。そして海辺くんはそれをいいことに、窓際の席からぼんやりと外をながめる毎日。それなのにどうしてか、テストの成績だけはどうしようもなく、憎らしいほどに良いのだった。

 海辺くんがなぜしゃべらないのかは、だれも知らない。そもそもわたしたちの高校にくるまえ、海辺くんがどこにいたのか、ということからして謎なのである。東中に通っていたあるひとは、海辺くんが東中にいた、という。またあるひとは、いなかった、という。その一方で、西中にかよっていたあるひとが、西中にいた、といい、また別のひとが、西中にはいなかった、という。

 わたしの持っている、北中の卒業アルバムに、海辺くんはいない。だからわたしは、すくなくとも海辺くんは北中にいたのではなかった、ということを知っている。けれどきっと南中にかよっていたひとのなかに、海辺くんが北中にいたにちがいないと思い込んでいるひとはたくさんいるだろう。それでもわたしには、そう思い込んでいるひとがだれかわからないから、アルバムを見せてまわって間違いを正すことはできない。

 そんなふうにして海辺くんはいつのまにか、わたしたちのなかにいたのだ。

 

 つまり、海辺くんは謎多き男である。いや、海辺くんは人ではない。かもしれないと、わたしは密かに思っている。

 だってひとこともしゃべらないなんて。家で海辺くんと、海辺くんのお父さんやお母さんは、どうやって通じ合っているのだろう、と思う。家ではしゃべるのだろうか。いや、きっとそうじゃない、とわたしは思う。家であれどこであれ、ほんとうはどこかで日常的にしゃべっている口がああも、からだの一部位というよりむしろ、そういうかたちのひとつの芸術作品のごときへんぺいな印象をしているわけがないのだ。そこから考えると、やはり、テレパシーで通じ合えるような、海辺くんはつまり宇宙人なのだ。そうだったらいいのに。

 わたしはそういう気持ちで、つねひごろから海辺くんに熱い視線を送っている。すると海辺くんの宇宙人性を感じる瞬間は、天使の祝福のようにときたまおとずれる。

 たとえば朝礼のとき隣の女の子が貧血で倒れる瞬間に抱きとめる瞬発力。

 たとえばイヤホンを耳に差し入れるしぐさ。

 たとえば出欠をとる先生の声に、ぴっ、と挙げる手のしなやかさ、垂直ぐあい。

 そしてたとえば、いま。目の前に、目を閉じて横たわっている海辺くんをみて、わたしの胸はちいさくふるえる。

 そっと近づいてしゃがみ込み、耳を海辺くんの口もとに近づけてみる。海辺くんは息をしていた。海辺くんも息をするのだ、と思って、わたしはほう、とため息をつく。

 海辺くんが、昼休みには屋上に忍び込んでいる、ということを知ったのは十日ほど前のこと。しかし、たちの悪いことに、海辺くんは内側から鍵をかけていた。

 それから屋上の鍵が職員室でなく守衛室のなかにあると知るのに一日、守衛室にしのびこむタイミングをはかり、これはもうピッキングで鍵をあける練習をしたほうが早いということに気づくのに三日、インターネットの動画をたよりに道具を自作し、実際に鍵をあけられるようになるまでに五日かかった。

 ピッキングの道具は所持しているだけで犯罪である。

 みつかれば逮捕、という緊張感、そして十日目のきょう、ついにわたしは鍵をあけおおせた。そうしてだだっ広いみどりいろの床の上で海辺くんはぴたりと横たわっていたのだ。

 わたしは海辺くんの呼吸のリズムをききながら、気づいたらいつのまにかそれに合わせて呼吸をしていた。苦しくなってきて、顔をあげた。海辺くんのからだのどこを探せば「しるし」があるのだろうか。それはもちろん、海辺くんが宇宙人である「しるし」。ところがそれを探す間どころか、そう考える間もなく、海辺くんの両目がひらいて、わたしのことを見ていた。しばしの沈黙。海辺くんはゆっくりと上体を起こした。

 わたしはなにくわぬ顔で、ぶらさげてきたサンドイッチを食べることにした。海辺くんの視線をかんじて首を向けると、鍵がかかっていたではないかという顔でこちらを見ている。無駄だ。そんなものはわたしがついさっき、ちょちょいとやっつけてしまった。

 海辺くんは、まあ、どうでもいい、という顔になって、ふたたびごろんと寝転がる。海辺くんが許してくれたから、わたしはサンドイッチのことなどどうでもよくなって放り出し、海辺くんにならって寝転がる。風にふかれて、頭のうえのコンビニ袋がかさかさと音を立てた。

 空は晴れて青く、ちぎった綿みたくうっすらとした雲がいくつかうかべてある。いま海辺くんの目にも同じものが見えているのだろう、とわたしは無邪気に思う。正確には、わたしの目と海辺くんの目は〇・五〜一メートルほど離れたところに位置しているけれど、そんなものはわたしたちと空との距離と比べたらまったく塵のようなものなのである。

 「海辺くん」

 わたしは海辺くんの名前を呼んだ。すると海辺くんはざり、と頭を傾けて、こちらを見た。

 「呼んだだけ」

 と言うと、海辺くんは顔をしかめて、また空を見た。

 海辺くんを見ていると、しゃべらないのに反応を返してくれるのがおもしろい。そういう機械みたいだ。反対にわたしはいつもよりおしゃべりだな、と思う。

 「海辺くん、楽しい」

 わたしはカメレオンみたいだ。というより、カメレオンの逆、ということはンオレメカ。海辺くんがしゃべらないから、きっとわたしがしゃべっている。まわりとおんなじ色になるのがカメレオンなら、まわりとは反対の色になってバランスをとるのがンオレメカ。

 海辺くんは空を見たままである。わたしのくちはすらすらとトランペットのようにしゃべる。よく知っている歌を歌うのとおんなじだ。考える前に口が動く。

 「海辺くん、さみしい」

 海辺くんのとなりは、心地が良いなあと思う。静かで、おだやかで、正直で、よけいなものをまとわない、きれいな海辺くん。

 「みんな海辺くんみたいならいいのに」

 わたしがつぶやくと、海辺くんはまた、ざり、と頭を傾けて、こちらを見た。そしてばかじゃねえの、みたいな顔をした。

 「ほんとうよ」

 わたしは言った。けれど海辺くんはなにも答えなかった。

 

 おでこにぽつりと冷たい滴をかんじた。空は晴れているから、気のせいか、鳥のおしっこかと思った。けれどそのままの姿勢でいると、今度はほっぺたに、ぽつりときた。やっぱり雨だ。雨なのだ。

 となりの海辺くんを見る。海辺くんはけれど顔色を変えることなく空をにらみつづけている。

 「海辺くん、雨だよ」

 声をかけるけれど、反応はない。黒い目がただ静かに、見開かれている。細いまつげが上を向いている。また大粒の雨がひとつぶ、ぴしゃりとわたしの頬を叩いた。

 「海辺くん」

 わたしは起き上がって、もう一度声をかけながらゆすってみる。やはり反応はない。海辺くんは壊れてしまったのかもしれない。けれど壊れているのかもしれない海辺くんはとてもきれいだった。ぴた、ぴた、と一定のリズムを、雨粒は海辺くんのうえで刻みはじめていて、ということはわたしのうえでも同じことが起こっているのだろうけれど、同じことが起こっているとはとうてい思えないほどに海辺くんのうえで起こっているそれはとてもきれいなのだった。

 その一連のようすを、わたしはすこしぽかんと、とほうにくれてただただ見つめる。海辺くんのそばで座りこんでいる。このままざらざらと雨がふれば海辺くんはますます壊れてしまうかもしれない。けれどわたしはそうなったら海辺くんはますますきれいになるに違いないと、そして今度こそそうなった海辺くんからわたしはけっして目を離すことができなくなってしまうに違いないと思って、こわいと思うと同時におなかの中の内蔵がふわっと持ち上がるみたいな、ジェットコースターに乗っているみたいな気分になったとき、海辺くんは突如こちらを向いた。目のたまが水晶みたいにきらきらと光っていた。わたしの手首をがしりとつかむ、海辺くんの白いうでの筋肉が動いて、うっすらと血管が浮いた。そうしてゆっくりと上体を起こす、海辺くんの例の冷えた目つきでわたしは動けなくなる。海辺くんはそっとわたしの手のひらをひきよせた。そうしてそれを、じぶんののど元におしつけた。指先に、海辺くんの固いのど仏がふれた。ひやり、として、背中に鳥肌がたった。

 「つめたい」

 わたしは言った。けれど海辺くんはけっして力を弱めはしない。わたしの指先は、海辺くんのつめたいのど仏とふれあいつづけて、それなのにちっとも、わたしの指先と海辺くんののど仏はおなじ温度にはならないのだった。

 そう思ったら、わたしはじぶんの指先があたたかいことを思い出した。わたしは指先にちからをこめた。するとそれに呼応するように、海辺くんの指先からはほんのすこし力がぬけた。ひゅる、とその隙にわたしは手のひらを回転させて、海辺くんの指先をからめとる。海辺くんのきれいな白い長い指がわたしのゆびと縫い合わさる。

 わたしは海辺くんののどに顔を寄せて、そっとくちびるをつけた。海辺くんの首すじから雨あがり間もない草むらのようなしめった匂いがした。そのことに、あ、と思ったのと、海辺くんののどがあんまりにもひんやりとしているので、くちびるの表面が凍り付いて離れなくなってしまうかもしれない、と思ったのと、同時だった。同時にその二つの思いが、わたしのなかをかけめぐった、そのとき、

 「いて」

 海辺くんは言った。

 海辺くんがしゃべった。

 わたしはおどろいて、ぱっとくちびるを離した。凍り付いてなどいなく、かんたんに離れた。そりゃそうだ。冷凍庫から出したての氷ではあるまいし。けれど海辺くんの目つきはといえばさらに冷えて、わたしをじろりと見下ろす。その海辺くんの目つきとさっきの、草むらのような匂いはちっとも結びつかない、そうしてわたしの口のなかには鉄の味がじわじわとひろがる。海辺くんの白いのどは桃色を帯びて、それがやがて鮮やかなひとすじの赤に変わる。

 わたしは、海辺くんの手をふり払った。その直後、海辺くんのつめにふれそびれたことに気づく。白い指先にならぶ、おおきな手強そうなつめ。とても惜しいことをした、という気持ちになる。

 胸がざわざわする。思考があっちこっちに散乱する。混乱する。混乱しながら、本能だけに従って、わたしは、逃げた。それから廊下の蛇口の冷たい水で、何度もうがいをした。

 

 次の日、学校へ行くと海辺くんは相変わらず、宇宙人らしく、すん、といた。わたしの聞いた、いて、という言葉以外、やはりなにもしゃべることはなく。その次の日も、また次の日もそうだった。

 そのうちにわたしはつい、海辺くんが人間であるということをまた忘れそうになる。けれど「そうになる」だけでけっして忘れられない、海辺くんの首すじのぬるまった匂いのことを。わたしの口のなかに広がった海辺くんの血の味のことを。

 わたしは胸がざわざわする。

 人間の海辺くんなんて、と思う。

 それでもわたしはどうしてか、海辺くんのところに行ってしまう。花に誘われるはちとおんなじだ、とわたしはわたしのことをじぶんでそう思っている。

 海辺くんは屋上に鍵を閉めなくなった。だからピッキングの道具は捨ててしまった。よかった、もう犯罪者ではないのだ、という安心のなかに、ひっそりと、どきどきの種を捨ててしまうさみしさのようなものが潜んでいた。または、その反対かもしれない。

 きょうも海辺くんは、また来たのか、という顔をする。わたしは海辺くんのとなりに、棒のようにそっと寝そべる。海辺くんと同じ空が見える。

 「海辺くん」

 わたしが名前を呼ぶと、海辺くんはわたしを見る。わたしはすっかり、海辺くんの目を見ているとなにも考えられなくて、言葉のつづきがみんな消えてなくなるようになってしまった。それはとても辛い。あの日のわたしはこんなふうじゃあなかった。海辺くんの隣は、もうちっとも心地よくなどない。

 わたしは口に出してしゃべるかわりに、心の中だけで思う。

 海辺くんのことが知りたいの。

 「なんでもない」

 やっぱり海辺くんはなにも言わない。海辺くんはとてもやさしい。

(了)

 

 

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* 原里実連作短篇は毎月11日にアップされます。

 

 

 

 

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