パティシエを目指していた彩子は、ある罪を犯した怖れから逃げ隠れして暮らしている。行き着いた先は、人気が陰りをみせた歌手・カオルの付き人の仕事。だが不運はつきまとい、ついに運命の大事件へと…。詩人・小原眞紀子の原案が甘やかな哀愁とともに語られる、待望の金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第3弾!

原作・小原眞紀子 作・露津まりい

 

 

 

 

 

4 ショコラを砕けば香りは高く(前編)

 

 

 新アルバムのレコーディングが始まった。

 毎日、昼過ぎにカオルを横浜のスタジオに送ると、彩子は事務所の用事を済ませ、深夜に迎えに行く。

 十一月に完了する予定だったのが、タイアップ曲の上がった時期が響き、スケジュール全体が遅れていた。カオルは録音で消耗するのか、どこか生気がなく、すれ違っても視線すら動かさない。食事も自分の寝室に運ばせていたが、ある晩、彩子がリビングに入ろうとすると、二色の声音が聞こえた。

 「侮辱されるのはまっぴら」

 「綺麗なものじゃないか」

 「金で片付けてやる」

 来客か、と半開きのドアから窺った。

 カオルがベランダのガラス窓の前に佇んでいた。家政婦の口添えで、やっと室内に入れられたカナリアの鳥籠に向かい、彼女が独り、そんな台詞を喋っていた。

 

 予定から大幅に遅れながらも、どうにかレコーディングは終了し、取り急ぎアルバム・ジャケットの撮影が進められた。

 現場はカオルの自宅にもほど近い代官山の貸しスタジオで、雰囲気のある洋館は業界では知られていた。

 「あれは何なの」

 建物の中庭で、カオルは男物の背広を羽織り、古い塗り壁に突っ伏すように立っていた。横顔の黒ずんだ口紅がオフホワイトの壁に映えている。

 「あれって」

 レフ板を高く掲げ、明度を測るアシスタントが返事をした。

 あれよ、と彩子は指差す。

 「カオルさんの隣りに何が置いてあるの」

 「棺桶ですよ。まっずいな、わかりませんか」

 それはわかる。塗り壁に立てかけられた空っぽの黒い木の箱は、どう見ても蓋のない棺桶だ。

 「どこから運んできたの、って訊いてるの」

 「どこって、そっちの持ち込みじゃないですか。今朝、ここに届きましたよ」

 色褪せした青いシャツの袖を端折り、再びレフ板を持ち上げると、アシスタントは忙しそうにカウンターを見つめる。

 彩子はその場を離れ、洋館の玄関から出て裏手の駐車場に回った。

 廊下に直結した勝手口から機材や衣装の荷を運び込むには、駐車場で梱包を外すしかない。転がっていた段ボールの荷札を見た。

 彩子は携帯を取り出すと、事務所の短縮番号を押した。

 

 洋館二階の小部屋に制作会社の担当者が現れたのは、夕方五時をまわってからだった。六井というその男は分厚い紙の束を抱えていた。

 三輪田は肩を怒らせて撮影用のフランス窓の前で待っていた。

 西陽が部屋の埃を白く浮かび上がらせていた。

 「あの柩、こっちから発注書は出してませんよね」

 六井は革のソファに腰掛け、「発注書なしでも動く場合はあります。手直しだの追加だの、電話で頼まれることも多いし」と、落ち着き払って応えた。

 「しかし、あれは手直しでも追加でもない」

 「これが、カオルさんが描いたデザインです」

 六井は眼鏡の奥から棘のある目で見返すと、紙の束をめくった。

 「蓋はまだ完成してませんが。こういう指示書ってのは、発注の事実を証明するんじゃないですか」

 鉛筆の走り描きだが、上部が三角に尖った木の箱の図や装飾だらけの蓋がいくつも並べて描かれている。サイズや色の指定は確かにカオルの字だった。

 六井はさらに、その下の資料を見せた。

 「こちらが絵コンテです。カオルさんが何度も会社へ足を運ばれましてね」

 三輪田は彩子を睨みつけたが、「しかしねえ、」と粘る。

 「企画はタイアップですよ。クライアントの承諾もなしに、プロモビデオの絵コンテまで決めるなんて」

 「それは御社の問題でしょう」と、六井は焦れたように言い返した。

 「困りますよ、今さら。柩の蓋だって、二度も修正してる」

 「見ますか」と、六井は立ち上がった。

 三輪田と彩子は、仕方なく後について出た。

 廊下の角を曲がると、倉庫代わりの別棟に入る。建て増しされた部分らしく、壁や柱は一見して新しい安普請になっていた。ペンキ塗りされた金属の扉を開け、薄暗い階段を上る。

 「足元に気をつけてください」と、六井は言った。鉄製の階段は途中から螺旋になり、上りきると踊り場にはマネキンだのベニヤ板だのが所狭しと置かれていた。

 「こっちです」と、六井は手招きした。踊り場の先は一階からの吹き抜けで、手摺り越しに視界が開けた。幅の狭い通路を突き当たりまで足早に進むと、暗い穴のような小部屋がある。

 壁のスイッチで灯りをつけた。

 立派な柩が置かれていた。四、五日やそこらでできる代物ではなかった。

 「うちのスタッフが作ったのは本体部分だけです。蓋は砺波の欄間職人に注文しました」

 ガラスの小窓の縁には、切り子の装飾まで入っていた

 「全部手彫りで、しかもカバ材を使ってます。顔見せの小窓はもっと細かい彫りで、とおっしゃったので、そうする予定です」

 「大まかな見積もりは」と、三輪田は訊いた。

 「柩だけ見積もるのは難しいんですが。最低で四〇万ぐらいですか」

 「四〇万だって!」

 「もう一セット、予備があるんです。まだ出来てませんが」

 「何だって予備なんかいるんだよ」

 三輪田は怒鳴りつけた。

 六井は絵コンテをめくり、「海に放り込むからです」と言う。

 「一個は水に沈めます。もちろん回収しますが」

 「誰がそんなこと決めたんだ」

 「カオルさんです。絵コンテのストーリーも彼女が、」

 「だったら演出料は払わないぞ」と、三輪田は吐き捨て、背を向けて出て行った。「ったく、足元見やがって」

 三輪田に向かって「気をつけてくださいよ」と、六井は声をかけた。

 「そこ、重みで床に穴が」

 三輪田は振り返りもせず、カンカンと靴音を響かせ、通路から下へ駆け降りた。

 

 彩子は寝室のドアを開けた。

 部屋着姿のカオルは大きく目を見開き、天井を眺めていた。

 「今日は、お一人でタクシーで帰して、すみませんでした」

 カオルは焦点を結ばない視線を天井に向け、微かに頷いた。

 椅子の上には、家政婦が用意した夕飯の盆が置かれていた。食欲はあるらしく、スープ以外の器は空っぽだった。

 「柩、拝見しました」

 カオルは身じろぎして顔を向けた。

 「そう、見たの」と、呟く。

 「みごとな出来ですね」

 と、そのときカオルの目に表情が浮かんだ。

 「そうでしょう」と身を起こし、ベッドで跳ねはじめる。

 「復活への閾を抜けよ、って『千住の伯母』のお告げで閃いた。すぐ注文しなきゃ、時間かかるって言われてさ」

 「四○万だそうです」

 「何よ。値段?」カオルは跳ねるのを止めた。

 「完全に予算オーバーです」

 「ああ、そう」と、カオルは天井を眺めた。

 再びぼんやりした目の色に戻るかと思ったとき、「じゃ、買い取る」と言った。「二つとも。たいしたことないわ」

 「そうですか」

 平静を装って頷いたが、彩子は内心、ほっとした。

 カオルはベッドに坐り直した。

 「あんまりいい出来だったから、もう一つ作ってもらったの。海水を吸ったり、岩に当たったりすると思うと惜しくてね」

 「で、プロモ撮影は五日後だそうですね」

 そう言いながら、彩子には自分の言葉が信じられなかった。

 五日後。カオルの指示で、あの洋館全館と海辺で使うクレーンをすでに押さえてある。

 帰り際、六井からそう聞かされると、三輪田は怒りを通り越し、すべてを放り出してしまった。

 「そうよ。代理店にも連絡しといたから、心配いらないわよ」

 「それより、どうしてもっと早く三輪田さんに」

 「うるさいね。三輪田、三輪田って」カオルは唇を歪めた。

 「あいつ、レコーディングにだって、ちっとも顔出さない。文句言えた筋合いじゃないよ」

 カオルは立ち上がると、「これでスケジュールは追いついたじゃないの」と笑った。

 「遅れてるって皆が血相変えてるから。ちゃんと考えてんだからね」

 「でも、クライアントの承諾なしじゃ」

 カオルは肩をすくめた。

 「何よ、あたしのビデオじゃない」

 「あたしのって、CMはビデオを流用して作るんです」

 ついに彩子は大声をあげた。

 「経費削減で、そうする話になってるんです。勝手にビデオ作ったりしたら、全部の予定が」

 カオルは顎を突き出し、呆れたように目玉をぐるっと回した。

 「そもそも甘いんじゃなーい。ビデオからCM起こそうなんて」

 「それ、御自分で言ってください」

 彩子は壁を睨んだ。「すみませんが、わたしには責任持てません」

 「そりゃ無責任ね」と、カオルはあっさり言う。

 「無責任で結構です」

 「はいはい、大丈夫よ」と、カオルは手をひらひらさせた。

 「御機嫌はとってあるからさ。お歳暮差し上げたの。ダッチワイフよ」

 「ダッチワイフ、ですって」

 カオルはきゅっと眉根を寄せ、「いちいち叫ばないでよ」と舌打ちした。

 「まさか、社長に」

 「とんでもない。あのジジイにそんなことしたら、毒盛るようなもんだ」

 カオルは機嫌よく、「課長さんよ。カオルだと思って毎晩可愛がってねって」と言った。

 出て行こうとする彩子を、「ちょっと」と、カオルは呼び留めた。

 「あんたさ、この企画終わっても、付き人を続ける気はないの」

 「まず、無事終わるかどうか」と、彩子は低く呻った。

 「それはそれとして」

 カオルは馬鹿に物わかりよく頷いた。

 「わかったんだ。あんたは理想の付き人だよ。お菓子も作れて、占いもできる」

 「インチキ占いはお嫌いでしょ」彩子はやっと言い返した。

 「大っ嫌い」カオルは満面に笑みを浮かべた。

 「でも、ないよりましよ。だいいち好きとか嫌いとか、あんまし自分でわかんないんだ、あたし」

 

 翌日の夕方、彩子はタカノヤ一階の喫茶室にいた。

 コーヒーに片手でミルクを入れながら、真壁は黙って絵コンテのページをめくっていた。

 「これではCMには使えない」と、彼は呟いた。

 「レコーディングの休憩中、カオルさんはプロモ制作の指示を出していたそうです」

 技術的な理由をつけ、クライアントにCMフィルムの別撮りを提案しようとした三輪田に、包み隠さず伝えるべきだ、と彩子は主張した。

 「申し訳ありません。カオルさんにやられました」

 広報課長は眉を顰めて考えていたが、責める気配はなかった。

 「いや。自分も悪かった」

 思わぬ言葉に、彩子は課長の顔を眺めた。

 「気晴らしにスタジオを抜けてきたと、会社や自宅に何度か訪ねてみえたんです。プロモのストーリーとか柩とか、そういえば話していました。単なるアイディアの段階だろうと、聞き流してしまって」

 カオルが真壁を頻繁に訪ねていたとは、彩子には思いも寄らなかった。

 「彼女は感情の起伏が激しいし、そっちに気を取られてしまって。何しろガラス細工のようにもろい人だ」

 真壁は深く息を吐いた。「それはさておき、CFを別撮りしても予算が抑えられる方法があるだろうか」

 「三輪田が言うには、」

 彩子は必死で頭を切り換えた。

 「撮影日時と場所を相乗りするしかないそうです。プロモ撮影は五日後。ジャケット撮影に使った代官山の洋館ですが」

 「五日後」

 真壁もさすがに絶句した。

 それでも怒り出さないのは目の前にいる自分のためではなく、カオルのもろさを庇うからだろうか、と思いがよぎった。

 「洋館か。何かアイディアがあればな」

 「台所が」

 彩子は思い出した。

 確か、洋館の北端、撮影装備を置く準備室になっている洗濯部屋の脇に、撮影向けの対面式キッチンがあった。

(第07回 第4章前半)

 

 

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* 『お菓子な殺意』は毎月02日に更新されます。

 

 

 

 

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