金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

第Ⅱ章 漱石小伝

―― 『漱石とその時代』を未完のまま自死した江藤淳に

 

■ 修善寺の大患 ―― 自我意識との格闘 ■ (後半)

 

 帰京後、漱石は自宅で療養していたが、九月三十日に漱石を朝日に引き抜いた人であり、社内での最大の庇護者だった池辺三山(さんざん)が朝日に辞表を提出するという大事件が起こった。

 

 東京朝日新聞は『煤煙』の後日談である森田草平の『自敍伝』を三月から七月まで掲載したが、この小説の掲載を巡って主筆・三山と政治部長・弓削田(ゆげた)精一が対立し、社長村山龍平が上京しての会議の結果、三山の退職が決まったのだった。責任を感じた漱石は辞表を提出するが、三山を始めとする関係者に止められて辞表を撤回した。

 

 草平の『自敍伝』を巡って三山と弓削田が対立したのは事実だが、連載小説くらいで社長を巻き込む対立になるはずもなく、それは二人の社内権力闘争の名目に過ぎなかった。ただこの社内抗争の結果、漱石は朝日文芸欄を自分の手で廃止した。開設からわずか二年弱のことだった。朝日文芸欄廃止が決まると、小宮豊隆は吉原で文芸欄廃止祝賀会を開き、それを聞いた漱石は自分への面当てだと怒ったと伝えられる。

 

 漱石は保身のために文芸欄を廃止したと弟子たちが受け取るだろうことを意識していた。小宮豊隆に、「僕は少し思ふ(ところ)があつて文芸欄を廃止する相談を[(へん)輯部(しゅうぶ)の人として仕舞(しま)つた。(中略)決して自分の地位を安固(あんこ)にするため他人の()ふ通りになつたのではない。(中略)文芸欄は君等(きみら)の気焔の吐き場所になつて()たが、君等もあんなものを断片的に書いて大いに得意になつて、朝日新聞は自分の御蔭(おかげ)で出来てゐる(など)と思ひ上る(よう)な事が出来たら(それ)こそ若い人を毒する悪い欄である。(中略)文芸欄なんて少しでも君等に文芸上の得意場らしい所をぶつつぶしてしまつた方が(あるい)は一時的君や森田の薬になるかも知れない」(明治四十四年[一九一一年]十月二十五日)と書き送った。しかし漱石の真意は弟子たちには通じなかった。

 

 小宮豊隆はこの時期の漱石と弟子たちの関係を、「大病以後の漱石の話は、何か平凡なものになつてしまつた。(中略)(これ)は漱石が大病の為にその若若(わかわか)しさを失つて、すつかり老ひ込んでしまつた為に違ひない。――彼等はさう判断して、漱石を老人扱ひにし、(あるい)は「老」と呼び或は「爺」と言い出した」、「道楽息子が(はら)の中で、うちの親爺は旧弊で頑固で手がつけられないなどと考へながら、その小言を聴いて()るやうに、彼等は漱石の言ふことは、頭から受けつけなかつた。従つて漱石の言ふことは、少しも彼等の心に沁み込むことはなかつた」(『夏目漱石』昭和十三年[一九三八年])と回想している。

 

 たとえ師と仰ぐような文学者がいても、若い作家たちがそれに追いつこう、追い越そうという気概を持つのは当然である。また先行する作家は、若手作家たちの新たな才能が明らかになった時には、さらにその先をゆく表現を生み出さなければ最後まで尊敬されることはない。小宮たちが漱石を絶対的な師と認めるようになるのは、漱石死後のことである。

 

 一時的に弟子たちは漱石の元を去っていった。若く活力に溢れた門下生たちのいない漱石の周囲は寂しくなった。『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』『行人』『心』に孤独の影が濃く、また若者一人一人に直接心の内を話しかけるような真摯な口調がしばしば現れるのはこのような状況も影響している。

 

 明治四十四年(一九一一年)十一月二十九日に、漱石の五女ひな子が二歳で食事中に急死した。今で言う突然死である。漱石は日記に「自分の胃にはひ()が入つた。自分の精神にもひゞが入つた様な気がする。如何(いかん)となれば回復しがたき哀愁が(ひな子を)思ひ出す(たび)に起るからである」(『明治四十四年[一九一一年]日記』十二月三日)と書いた。

 

 年末の十二月二十八日に漱石は『彼岸過迄』を起稿した。翌明治四十五年(一九一二年)一月には池辺三山の母が死去し、母の後を追うように二月に三山が急死した。漱石は三月七日のひな子の百ヶ日に、ひな子の死を題材にした『雨の降る日』の章を脱稿した。漱石は中村古狭(こきょう)に「小生は亡女の(ため)()い供養をしたと喜び居候(おりそろ)」(四十五年三月二十一日)と書き送った。漱石が『彼岸過迄』を書き終えたのは四月二十五日のことである。

 

 

 『彼岸過迄』『行人』『心』には恋愛といった統一主題がないため、『三四郎』、『それから』、『門』のように三部作と呼ばれることがない。しかし小説形態から言えば明らかな三部作である。漱石は、『三四郎』『それから』『門』三部作で確立した三人称一視点小説形式を、自らの手で破壊している。

 

 『彼岸過迄』について漱石は、「かねてから自分は個々の短篇を重ねた末に、()の個々の短篇が相合(あいがっ)して一長篇を構成するやうに仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだらうかといふ意見を()して()た」(『彼岸過迄に就て』明治四十五年[一九一二年]一月)と書いている。

 

 『彼岸過迄』はもちろん、『行人』も短篇の積み重ねである四篇から構成されている。『心』は最終的に大きく二部に割れることになったが、漱石の当初の意図は短篇を書き連ねることにあった。

 

 漱石は『彼岸過迄』『行人』『心』で、かつての写生文小説のように存在格が縮退した観察者的主人公を設定した。その一方で小説には、主人公や登場人物たちの、自我意識の苦悩表現(内面描写)が増える。

 

 簡単に言えば『彼岸過迄』『行人』『心』三部作で、漱石は写生文小説とヨーロッパ小説の特徴を弁証法的に統合しようとしている。こんな無謀とも言える文体構造を使って小説を書いた作家はいない。『彼岸過迄』『行人』『心』三部作は一種の前衛小説である。

 

 漱石の代表作を『心』だと言う人は多い。しかしその内容だけが読者を惹きつけるわけではない。『心』の文体構造が特殊なのである。『心』は通常の小説に比べ、小説の時空間が極端に圧縮されている。それを漱石は意図的に行った。漱石の偉大さは決して一つの小説文体に安住することなく、次々に新たな方法を創出していったことにもある。

 

 『彼岸過迄』を終えると、漱石は書画を描いたり漢詩を作ったりして過ごした。漱石が頻繁に交際するのは画家・橋口五葉(ごよう)とその兄(みつぐ)、同じく画家の津田青楓(せいふう)、青楓の兄で華道家の西川一草亭(いっそうてい)などいわゆる「風流の友」が多くなっていった。七月三十日に明治天皇が六十一歳で崩御された。九月十三日の大喪の日に陸軍大将乃木希典夫妻が天皇の後を追って自殺した。この事件は『心』の重要な主題の一つになった。

 

 漱石の皇室観は現在の日本人のそれに近いものだった。漱石は「皇室は神の集合にあらず。近づき(やす)く親しみ易くして我等の同情に訴へて敬愛の念を得らるべし。(中略)政府及び宮内官吏の遣口(やりくち)もし(まと)を失すれば皇室は(いよいよ)重かるべし(しこう)して同時に愈臣民のハートより離れ去るべし」(『明治四十五年[一九一二年]日記』三月十二日)と書いた。大正時代には天皇の神格化はまだそれほど進んでいなかった。日本が狂信的な国粋主義に大きく傾くのは昭和に入ってからである。

 

 元号が大正に変わった九月二十六日、漱石は神田錦町の佐藤診療所に一週間入院して痔の手術を受けた。この経験は後に『明暗』の冒頭に活かされた。漱石は十一月三十日に『行人』を起稿した。しかし原稿の進みは遅かった。翌大正二年(一九一三年)三月下旬に漱石は再び胃潰瘍で寝込んだ。また年末頃から三度目の神経衰弱にも陥っていた。『行人』は「友達」、「兄」の章が終わり、「帰つてから」が連載中だったが、胃潰瘍と神経衰弱のため、「帰つてから」は四月七日に第三十八回で中断された。漱石は五月頃まで二ヶ月間病床にいた。

 

 漱石は七月下旬から『行人』最後の章「塵労」を書き始め、九月中に脱稿した。漱石は作品を一作仕上げるたびに胃潰瘍で倒れ、回復し始めると絵と漢詩を書いて英気を養って新たな小説創作に向かうようになっていた。漱石が南画の大幅を描き始めたのは大正二年(一九一三年)の暮れ頃からである。

 

 漱石の絵画熱は、津田青楓に「私は生涯に一枚でもい()から人が見て有難い気持のする奴をかいて()たい山水でも動物でも花鳥でも構はない(ただ)崇高で有難い気持のする奴をかいて死にたいと思ひます」(大正二年十二月八日)と書き送るほど真剣なものだった。絵画的な価値は別として、漱石は単なる趣味として南画を描いていたわけではない。

 

 漱石は大正三年(一九一四年)四月頃から『心』を書き始め、八月一日に脱稿した。連載が終わると『心』を岩波書店から自費出版した。社主岩波茂雄は帝大出身だが漱石門ではなく、安倍能成(よししげ)が漱石に引き合わせた。岩波は神田高等女学校教頭を辞職して古本屋を始めた変わり者で、大正二年(一三年)頃から出版業にも乗り出していた。教職嫌いの漱石とは馬が合ったのだろう。ただこの頃の岩波は手元不如意で、『心』を出版したいから金を貸してくれと漱石に頼み、漱石が気軽に「いいよ」と言ったことから、鏡子夫人があわてて借用書を書かせたという話が残っている。

 

 漱石が『心』を自費出版したのは、箱、表紙、見返し、扉など、本の細部に至るまで全て自分で装丁できる楽しみがあったからである。『心』の装丁の手配が全て終了した九月八日に漱石はまた胃潰瘍で倒れた。十月には床上げできるようになったが、衰弱は甚だしかった。

 

 十月三十一日に飼い犬のヘクトーが、近所の家の池で死んでいるのをその家の女中が報せてきた。漱石は車夫に死骸を引き取らせ、庭に埋めると墓標に「秋風の聞えぬ土に埋めてやりぬ」という悼句を書いた。

 

 十一月二十五日には学習院で、漱石の生涯最後の講演『私の個人主義』が行われた。漱石はこの講演で松山から熊本時代、英国留学時代を回想しながら自分が文学においてどのように個人主義を打ち立ててきたのかを学生たちに説明した。

 

 この学習院での講演ではないが、鷗外は『青年』(明治四十三年[一九一〇年]~四十四年[一一年])で、主人公純一に「拊石(ふせき)」(漱石がモデル)の講演を聴かせている。漱石は同趣旨の講演を明治四十年代にも行っていたようだ。純一は医大生大村(鷗外がモデル)と拊石の講演について議論するが、それは利他的個人主義だと結論づけている。

 

 また大正二年末頃から、漱石は木曜会などでしばしば死を口にするようになったことが出席者らの証言で知られている。実際、漱石に残された時間はあと二年しかないのである。

鶴山裕司

 

 

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* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

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