金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

第Ⅱ章 漱石小伝

―― 『漱石とその時代』を未完のまま自死した江藤淳に

 

■ 修善寺の大患 ―― 自我意識との格闘 ■ (前半)

 

 明治四十三年(一九一〇年)六月十八日に長与胃腸病院に入院してから、漱石は食事療法や蒟蒻療法と呼ばれる治療を受けた。熱く煮た蒟蒻を胃の上に乗せて温める治療法である。病状は安定していたので、朝日新聞関係者や漱石門の弟子たちが数多く見舞いに訪れた。朝日新聞校正係だった石川啄木も社用を兼ねて漱石を見舞っている。漱石と啄木の接点はほとんどないが、森田草平は啄木と懇意だった。啄木は四十三年に代表作『一握の砂』や『時代閉塞の現状』を書き、四十五年(一二年)四月に二十七歳の短い生涯を終えた。困窮した啄木のために、草平が漱石の妻鏡子から金を借りて啄木に用立てたことが知られている。

 

 漱石が主宰する朝日文芸欄は、病室に草平や小宮豊隆を呼んで掲載原稿などの指示を出した。草平が持ち込んだ生田長江(ちょうこう)の原稿を漱石が不可としたにも関わらず、草平が勝手に文芸欄に掲載してしまうという小事件もこの頃起きた。草平は「煤煙事件」以来、長江に借りがあったのである。

 

 漱石は激怒して「文芸とヒロイツク」、「艇長の遺書と中佐の詩」、「鑑賞の統一と独立」、「イズムの功過」、「好悪と優劣」などの評論を立て続けに書いて文芸欄に掲載した。文芸欄の原稿に困っていないことや、掲載すべき原稿のレベルを身を以て示した。漱石は七月三十一日に長与胃腸病院を退院した。

 

 漱石は転地療養のために、八月六日に伊豆修善寺に旅立った。松山時代からの門下生、松根東洋城(とうようじょう)が勧めたのである。宮内省式部官を勤めていた東洋城も北白川宮殿下に従って修善寺に逗留するため、気心の知れた東洋城が漱石の話し相手になるはずだった。漱石は六日は菊屋別館に泊まったが、部屋がないので七日に菊屋本館三階に移った。

 

 異変は八日頃から始まった。「入浴。浴後胃痙攣を起す。不快()へがたし」(『明治四十三年[一九一〇年]日記』八月八日)、「苦痛一字を書く(あた)はず」(同八月十六日)と漱石は日記に書いている。十七日、少量だが漱石は遂に吐血した。東洋城は長与胃腸病院と鏡子に漱石の病状を報せ、それはすぐに東京朝日新聞にも伝わった。

 

 翌十八日に、漱石門下生で朝日新聞社社員・坂本雪鳥(せっちょう)と、長与胃腸病院医師・森成麟造が菊屋本館に着いた。十九日には妻鏡子が駆けつけた。二十四日には長与胃腸病院副医院長・杉本東造も診察に訪れた。杉本医師の診断は「左程(さほど)悪くない」というものだったが、二十四日午後八時頃、漱石は鏡子の肩につかまって大吐血した。その後三十分間人事不省に陥った。漱石は森成、杉本両医師が立て続けに注射した十六筒以上のカンフル剤でようやく意識を取り戻した。

 

 雪鳥は朝日新聞に漱石危篤の電報を打った。漱石は病床で「駄目(だめ)だらう」、「子供に()はしたら()うだらう」という医師たちのドイツ語の会話を聞いた。杉本医師はもう一度吐血したら回復の見込みはないと鏡子に告げたが、幸いなことに再吐血は訪れなかった。ただ漱石は意識を失ったことは憶えていなかった。

 

 翌二十五日には兄直矩(なおかた)、姉高田(ふさ)・庄吉夫妻、筆、恒子、エイの三人の子供や、高濱虚子、森田草平らが菊屋旅館に駆けつけた。その後も朝日関係者や門下生が続々見舞いに訪れた。漱石病状悪化の報が届くと東京朝日新聞社主筆池辺三山(さんざん)は、修善寺での漱石の滞在費や医師への支払い、看護婦への謝礼などを全て朝日新聞社で負担することを決めた。社費で派遣された雪鳥は詳細な「修善寺日記」をつけ、その一部は東京朝日新聞に掲載された。

 

 漱石が三山を深く信頼し、三山もまた漱石の文才を高く評価していたのは確かである。ただ漱石引き抜きの際に見せた手腕に明らかなように、三山は嗅覚優れたジャーナリストでもあった。三山は修善寺の大患の全経費を社で持つ代わりに、漱石にもしものことがあれば、それを東京朝日で独占報道しようと図った。文豪漱石神話はこのようなジャーナリズムの動きからも生み出されている。

 

 小康を得た漱石は、九月八日になって初めて文字を書いた。仰向けの姿勢でまず日記に書き付けたのは、「別る()や夢一筋の天の川」を始めとする三句の俳句だった。二十二日には五言の漢詩が生まれた。漱石は体力的問題で小説やエセーが書けない状態になったとしても、短い俳句や漢詩で自己を表現できる作家だった。

 

 漱石は十月十一日に、舟形の寝台に寝かされたまま修善寺菊屋旅館を立ち、二ヶ月ぶりに東京に戻った。棺桶に入ったようだったと回想している。新橋では朝日関係者や門下生など、四十人以上の人々が漱石を出迎えた。漱石は新橋駅から長与胃腸病院に直行して入院した。病室には面会謝絶の札が下げられた。

 

 漱石は十月二十日から『思ひ出す事など』を書き始めた。このエセーには修善寺から続けていた日記が活用された。生死の境をさまよった漱石の心境は、この頃から変わっていった。漱石は東洋的理想郷(イデア)と呼んでも良いような境地を希求するようになった。日記に「○風流の友の[に]()ひたし。(中略)○今の余は人の声よりも(とり)の声を好む。女の顔よりも空の色を好む。客よりも花を好む。談笑よりも黙想を好む。遊戯よりも読書を好む。願ふ(ところ)閑適(かんてき)にあり。(いと)ふものは塵事(じんじ)なり」(『明治四十三年[一九一〇年]日記』十月三十一日)という言葉が見える。

 

 

 この東洋的理想郷(イデア)を求める漱石の心性が、病気によって心身ともに衰弱した一時の気の迷いでなかったことは、その後漱石が、基本的には儒者しか手がけない南画を積極的に描き、大量の漢詩を創作したことからもわかる。修善寺の大患以降の漱石の小説は、以前にも増して自我の苦悩や他者との軋轢を執拗に描き出すようになるが、一方ではっきりと東洋的理想郷(イデア)を希求している。

 

 東京に帰った漱石は、鏡子から自分の病気を心配して、森成麟造と杉本東造医師を修善寺に派遣してくれた長与胃腸病院院長、長与称吉が亡くなっていたことを初めて聞かされた。十一月十五日には友人大塚保治の妻で、閨秀作家として知られた大塚楠緒子(くすおこ)が三十六歳の若さで亡くなった。漱石はそれぞれに「()く人に留まる人に来たる雁」、「(ひつぎ)には菊()げ入れよ()らん(ほど)」という悼句を詠んだ。

 

 森円月から見舞いに、吉田蔵沢(ぞうたく)の墨竹画を贈られるという嬉しい出来事もあった。蔵沢は江戸中期の松山藩士で画家である。現在の古美術市場でも蔵沢の評価はそれほど高いものではないが、漱石は蔵沢の軸に愛着があった。子規が蔵沢を愛し、貧乏という理由もあり根岸子規庵の床には一年中蔵沢の墨竹画が掛けてあった。

 

 漱石は円月に「披見(ひけん)大驚喜(だいきょうき)(てい)、仮眠も急に醒め拍手踊躍(ようやく)致居候(いたしおりそろ)」という礼状を書いた。漱石は『思ひ出す事など』を書き上げて、翌明治四十四年(一九一一年)二月二十六日に退院した。初めて長与胃腸病院に入院してから八ヶ月以上が経っていた。

 

 退院直前の二月二十一日、また小事件が起こった。文部省管轄の文学博士会が漱石を博士と認定し、学位記を留守宅に届けて来たのである。漱石は森田草平に命じて即座に学位記を文部省に返還した。

 

 漱石と折衝に当たったのは、帝大時代の同級生で文部省専門学局長を勤めていた福原鐐次郎(りょうじろう)だった。福原は文学博士授与は学位令に法規定されている命令行為であり、認定と同時に漱石は文学博士であり辞退できないという文部省公式見解を伝えた上で、学位記を再送して来た。漱石は学位記を再度福原に返送して自己の考えを朝日新聞紙上に発表した。

 

 漱石は「余は博士制度を破壊しなければならんと(まで)は考へない。(しか)し博士でなければ学者でない(よう)に、世間を思はせる(ほど)博士に価値を賦与(ふよ)したならば、(中略)(いと)ふべき弊害の続出せん事を余は切に(うれ)ふるものである」(『博士問題の成行』明治四十四年[一九一一年]四月)と書いた。

 

 漱石は英国留学中既に、「博士なんかは馬鹿々々敷(ばかばかしく)博士なんかを難有(ありがた)[が]る(よう)ではだめだ」(夏目鏡子宛書簡 三十四年[〇一年]九月二十二日)と書いていた。漱石は「余の博士を辞退したのは徹頭徹尾主義の問題である」とも述べている。漱石は自分が死にそうだから、文部省は博士に認定したのだと激怒したと伝えられるが、公式には博士を有り難がる学者も世間も気にくわないというのが辞退の理由だった。

 

 小説家だけあって人情の機微にも通じていたが、漱石は何か決定的に気に入らない出来事が起こると、原則論に立ち戻って徹底して相手をやりこめる癖があった。例えば帝大講師時代の明治三十九年(一九〇六年)に、教授会から何度依頼されても多忙を理由に英語学試験委員の仕事を断った。大学人漱石がこの仕事が大学内での出世の地ならしになることを知らなかったはずはない。

 

 しかし漱石は大学にとって講師はお客であり、講義以外の仕事を受け持つ必要はないという原則論を主張し続けた。「博士問題」の時も、博士号を受けるも断るも個人の自由であるという原則論にこだわったのである。ただ朝日新聞がこの問題を大々的に報道したことで、漱石はその後、博士号を断った庶民的で偉い作家というイメージをまとうことになった。

 

 漱石はまた「文藝委員は何をするか」(明治四十四年[一九一一年]五月)を書いて、政府による文芸委員会の設立にも反対した。作家と読者の自由意志で評価が定まる文学を、国家権力の力で保護育成するのは適当でないと批判したのである。文芸委員会は実質的に森鷗外の発案で設立された。博士号と同様に、このような組織の設立運営には功罪がある。

 

 鷗外と漱石の接点はほとんどないが、鷗外の方は漱石に好ましい印象を抱いていた。政府高官の仕事を続けながら文学活動をした鷗外は、公的立場から文学界全般の興隆を図り、漱石は民間の文学者の立場で自由にそれを批判したのである。鷗外は死ぬ時くらいは勝手に死なせろという意味の遺言を残したが、誰にも気兼ねなく思ったことを書ける漱石は、羨ましい存在だったのかもしれない。

 

 漱石は明治四十四年(一九一一年)中は小説を書かず、評論執筆と講演を行って過ごした。長野教育会に招かれて、六月十七日から二十一日まで長野、高田、直江津、諏訪を講演旅行した。漱石の身体を案じた鏡子が同伴した。長与胃腸病院の医師だった森成麟造が高田で開業していたので、漱石夫妻は高田で森成の新居に泊まった。

 

 この旅行で健康に自信を得た漱石は、八月十一日に、今度は一人で関西地方で行われる朝日新聞記者招聘講演会に旅立った。漱石は明石、和歌山、堺、大阪で講演したが、大阪講演を終えた十八日の夜に吐血して、湯川胃腸病院(湯川秀樹博士の養父が院長)に緊急入院した。この経験は『行人』で活かされた。漱石は東京から駆けつけた鏡子に伴われて九月十三日に帰京した。(後半に続く)

鶴山裕司

 

 

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* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

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