第九回 溶ける石と本
『薔薇の名前』(1986年 映画)
監督 ジャン・ジャック・アノー
「諸君もプルーストを読んでみるといい。あれはどこから読んでもいいものです。コーヒーにミルクを入れる、するとカップのなかにマーブル模様が広がってゆく。プルーストを読むとね、それが以前とは違ったように見えるから」
細部は違っているかもしれないが、これはT先生のお言葉である。私は二十歳、先生の近代美術の教室にいた。ちょうどこのフランスの作家に強烈に興味を惹かれていた私は、さっそくいちばん状態がよさそうだった鈴木道彦訳の『失われた時を求めて』を、大阪の老舗古書店から取り寄せたのだった。そして一年かけて、夜毎に貪った。その結果、カップのなかのマーブル模様の見えかたがどう変わったか、残念ながらうまく説明することはできない。もはやプルーストを読むまえの景色を思い出せないからである。
だが映画のなかのマーブル模様を思い出してみることはできる。例えばジェームズ・アイヴォリー監督「金色の嘘」(2000年、米・伊・仏)だ。原作はヘンリー・ジェイムズが自身の最高傑作と豪語したとも伝えられる、小説「金色の盃」(1904年)である。
没落貴族のアメリーゴ公爵は、アメリカ人の富豪の娘マギーと結婚するが、以前から親密であったシャーロットへの思いも断ち切れずにいた。ところがシャーロットはマギーの父親であるアダムと親密になり、やがて結婚してしまう。しかもシャーロットと公爵は再会をきっかけに、今度は不倫関係に陥るのである。つまり恋人が義母になり、義母が愛人になり、結果としてかつての恋人と近親相姦の禁を犯すことになる、というなんとも退廃的な内容なのだが、筋書きは措こう。残念ながらこの映画は退屈であり、原作を不用意に希釈しただけの、記憶に残らない凡作に過ぎないからだ。
しかし救いは美術、とくに舞台装置である。これだけのセットを組むのは不可能に近いから当然ではあるが、撮影には英国レスターシャーのベルヴォワール城、リンカンシャーのバーグリー・ハウス、ロンドンのランカスター・ハウスなど、実際の貴族の館が撮影に使われている。アメリーゴ公爵の故郷であるイタリアを描いた場面でも、ローマのボルゲーゼ宮やマッシモ宮が登場し、なかでも魁偉な大理石=マーブルの列柱がひときわ目を惹く。そしてこの列柱は、映画の全体がどんなに忘却の淵に沈んでも、私の記憶の迷宮で、勇壮な古樹のように天空を支え続けるのだ。
『金色の嘘』(2000年 アメリカ・イタリア・フランス合作)スチール
監督 ジェームズ・アイヴォリー
大理石は熱や圧力で変成を来した石灰岩であり、現在の雲南省にかつて存在した大理国がこれを多く産したことから、その名で呼び習わされている。天然の諸条件がもたらす千変万化の石の表情は古来より多くの人々を魅了し、アーダルベルト・シュティフターやロジェ・カイヨワのように、これにすっかり夢中になった芸術家や思想家も少なくない。とくに大理石は複数の色が溶け合い、波紋や木目のような表情を持つところから、邸宅の柱や装飾に多用されたのである。マーブル模様という言葉が日常的に使用されていることからもその普遍性は明らかだが、そもそもマーブルの語源は「輝く石」だから、大理石は美と富そのものの象徴であったといっても過言ではない。
ところで原作の発表された二十世紀初頭は、少なからぬ欧州の貴族が危うく破産の憂き目をみた時期でもあった。産業革命に端を発する中産階級の擡頭により、昔ながらの年貢制度に頼っていた貴族は時代に置いてけぼりにされ、栄光の時代に膨らみすぎた財産を維持することはもはや無理であった。家宝が売りに出され、城館の構えは朽ち、このままでは生れて初めて空腹を覚える日も近かろうと思われた。そこで貴族たちはついに誇りという最大の財産を叩き売ることにしたのである。新興国アメリカを中心に、途方もない財産を蓄えた成金の庶民から、爵位と引き換えに妻を募ったのだ。有名なところではウィンストン・チャーチルの母であるジェニー・ジェロームや、元皇太子妃ダイアナの曽祖母、フランセス・エレン・ワークなども、アメリカの大富豪の娘である。つまりアメリカの資本がなければ、現在のイギリスは私たちの知っているそれとはずいぶん違うものになっていたのである。
このような事情だから、「金色の嘘」のアメリーゴ公爵とシャーロットのようなカップルは、当時の一典型だったわけである。ひと昔まえなら身分違いと陰口をきかれたような結婚を敢行することで、旧世界の貴族は贅沢な生活を続け、新世界の富豪は金では買えない伝統と洗練を、つまり大理石を獲得したわけである。
大理石の美はまた、知性とも結びついているだろう。古代の美を現代に再現しようとする人々とは、多く古代の知を愛する人々でもあるからだ。したがって大理石に彩られる数寄を凝らした邸宅には、観る者を圧倒するような図書室もつきものである。オードリー・ヘップバーンの代表作とも言える「マイ・フェア・レディ」(1964年、米)に登場するヒギンズ教授の図書室は、パリ郊外のモンフォール=ラモーリーにある城館、シャトー・ド・グルセイの図書室をモデルに、セシル・ビートンによってデザインされた。下町生まれの蓮葉娘を淑女に仕立て上げる魔法を可能ならしめているのは、人類の叡智を凝縮したような図書室に他ならないのである。
『マイ・フェア・レディ』(1964年 アメリカ映画)スチール
監督 ジョージ・キューカー
上図の図書室のモデルとなったシャトー・ド・グルセイの図書室
ところで学者の書斎とか、紳士クラブの図書室を目の当たりにするたびに、私たちはある馬鹿げた疑問を抱くものだ。つまりその書物に囲まれた空間の住人は、果たして本当に万巻の書物を読んでいるのだろうか、という疑問である。少なくとも、それが読書についての物語でもない限り、観客は登場人物が書物に首っぴきになっている構図に出くわすことはない。要するに図書室や書斎に置かれた書物というものは、日本庭園でいうところの借景のようなものである。それは一山の書物による、巨大な知の提喩なのだ。大理石の柱に守られた本棚の向こうに私たちが見ているのは、アレハンドロ・アメナーバル監督「アレクサンドリア」(2009年、西)に登場するようなアレクサンドリアの大図書館や、ジャン=ジャック・アノー監督「薔薇の名前」(1986年、仏・伊・西独)に登場する中世の修道院の図書室のような、書物の宇宙の淵源ともいうべき時空を超えた空間なのである。
『アレクサンドリア』(2009年 スペイン映画)スチール
監督 アレハンドロ・アメナーバル
『薔薇の名前』(1986年 フランス・イタリア・西ドイツ合作)スチール
監督 ジャン=ジャック・アノー
この二本の映画で、書物がいずれも略奪されたり燃やされたりするのは示唆的であろう。「アレクサンドリア」では主人公たちが逃げ込んだセラペウム(神殿)内の図書館がキリスト教徒の強襲に遭い、「薔薇の名前」では追い詰められた犯人によって「真実」の在り処である図書館に火が放たれる。知の堆積は盤石に見えてもいつ崩壊が訪れるかわからないし、あまりに貴重な知はときとして脅威となり、排除される宿命を負う。
要するに伝統があれば逸脱があるのだ。もし図書室が知的営みの粋であるならば、その住人が善人に限られないことは理の当然である。知性がきわめて理性的に悪を選び、計算された狂気に至る、ということもあるはずだ。そのような登場人物の好例としては、トマス・ハリス原作の「レクター博士」シリーズの主人公が挙げられよう。アンソニー・ホプキンス主演で映画化された三部作の二作目「ハンニバル」(2001、米)で、脱獄したレクター博士はフィレンツェに潜伏するが、そこでこの食人鬼が最初にしたことといえば、書斎を確保することだったのである。
『ハンニバル』(2001年 アメリカ映画)スチール
監督 リドリー・スコット
ドラマ版『ハンニバル』スチール
製作 ブライアン・フラー
書斎を根城とするレクター博士の性質は、ドラマ版にもよく表れている
このように、様々な濃淡の革をまとった書物に囲まれた空間は、私たちの想像力に翼を与え、マーブル模様の夢をみせる。だが四角四面の知識ばかりに囚われていては、それがかえって束縛になることもあろう。その証拠に、詩人の精神世界を描いたセルゲイ・パラジャーノフ監督「ざくろの色」(1969年、ソ連)にも図書館が登場するが、ここでは書物は檻のような書棚ではなく、図書館の屋根の上で、いまにも大空に向かって羽ばたこうとしているのだ。
『ざくろの色』(1969年 ソ連映画)スチール
監督 セルゲイ・パラジャーノフ
大野ロベルト
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■