なんで、小説すばるはこんなに分厚いんだろう。久しぶりに手にとって、それが最初に思い浮かんだことだった。それ自体を批判していんとか、そういうのではなくて、その厚さが今、意味しているものはなんだろう、と考える。そういったところからしか読み解けない現在でもある。それがしばらく文芸誌時評から遠ざかりがちだった理由かもしれない。ブランク、余白にも意味がある。

 

 この間、文芸誌の業界ではすさまじい勢いで廃刊が相次いだ。廃刊ではなく、ウェブ雑誌に移行した、と言い張る編集部もあるが、同じことだ。紙雑誌のウェブへの移行は、すなわち廃刊。なぜならその二つはまったく違うものだからだ。やってみればわかる。そんなこともいまだにピンときてない編集部が始めるウェブ雑誌なんだから、元の雑誌と同じコンセプトも保てまい。

 

 たとえば刊行ペース。ウェブへの移行を余儀なくされる紙媒体はもともと勢いがないから、季刊とか不定期刊が多い。ウェブ上で、それと同じペースで更新したら、それは雑誌でもメディアでもない。単なる静的な〝ホームページ〟だ。ウェブ雑誌にはウェブ雑誌の大変さもノウハウもある。

 

 すなわち紙雑誌の呑気な構え、文学的アトモスフィアはウェブでは通用しない。その雰囲気がまだ許されるのは、単行本の編集においてだけだ。ここへきて、では雑誌とはなんなのか、とりわけ紙でそれを出すことの意味は何なのか、という疑問が湧かなくてはおかしい。廃刊じゃない、とか言ってるうちは無理だろうが。

 

 息が続かなかったサブカルチャー文芸誌と比べれば、老舗の文芸誌は根性入ってる。小説すばるが老舗かどうかは別として、この分厚さというのはそれなりのパワーを示していると感じる。パワーというより財力だろう、という声も聞こえそうだが、漫画も売れないという昨今、やはりそれなりの考えも努力も要するに違いあるまい。

 

 確かにこの状況下で薄っぺらくなったりしたら、それこそそのまま消えそうではある。すばるは純文学の方も大衆誌の方も、いずれもサブカルチャー寄りであって、後発のオサレだったサブカルチャー文芸誌がバンバン消えていくなか、まず物理的に存在をアピールする必要があるかもしれない。

 

 とはいえ〝読む〟という行為には、そんな物理的要因を超えたものを見い出そうとする意志が不可欠だ。一冊の本の厚さに意味があること、その厚さ自体がメッセージであり得ることは誰にも納得されようが、雑誌もまたそうであろう。時代の要請、状況的な不可避、編集部の狙いがあるのなら、それは編集されたテキスト上の意味としてもどこかに痕跡を残しているはずだ。

 

 それを見い出した、というほどのものではないが、分厚い雑誌を分厚くさせる構造の一端に、空間の拡がりを意識する、というのはあるか、と感じる。雑誌カルチャーは首都圏のものだが、あえて地方性を等し並に入れてゆく。世界各地ももちろんだが、世界文学といった大上段はむしろ視野を狭め、抽象的に収斂させる。日本の各地を扱うのと同じ、偶然的な手つきが健全な分厚さを支えている、ようでもある。

長岡しおり

 

 

 

 

 

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