金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

第Ⅱ章 漱石小伝

―― 『漱石とその時代』を未完のまま自死した江藤淳に

 

■ 朝日文芸欄主宰 ―― 流行大衆作家へ ■

 

 『坑夫』の連載が終わると、漱石は大阪の鳥居素川(そせん)の依頼でエセー『文鳥』を大阪朝日新聞だけに連載した(明治四十一年([一九〇八年]六月十三~二十一日)。鈴木三重吉に勧められた飼った文鳥を題材にした小品である。『文鳥』が終了すると、素川は矢継ぎ早に次の注文を出した。掌編連作小説『夢十夜』(七月二十五日~八月五日)である。お盆の時期に掲載されたこともあって、多少怪談じみた内容の連作である。入社早々、漱石はそうとうに働かされたわけである。『夢十夜』は東西両朝日に掲載された。なお『夢十夜』が漱石が写生文で書いた最後の小説になった。

 

 漱石は東京朝日に掲載されなかった『文鳥』を、「ホトトギス」に掲載してくれるよう虚子に依頼した。明治四十一年(一九〇八年)二月に東京青年会館で行った講演『創作者の態度』にも手を入れて、「ホトトギス」に掲載した。漱石は原則として全創作を朝日に渡す契約を結んでいたが、朝日が掲載の意志のない作品を承諾を得た上で、「ホトトギス」に掲載したのだった。

 

 これは作家としての道筋を作ってくれた「ホトトギス」と虚子への精一杯の配慮だった。「ホトトギス」は『猫』以降、漱石の作品が掲載された時は売上が伸び、掲載されないと低迷する雑誌になっていた。特に『坊っちやん』が掲載された「ホトトギス」は、当時としては驚異的な売上部数を誇った。

 

 漱石は当初、俳書堂を経営していた虚子が総合文芸誌を創刊するなら、それに協力してもよいという姿勢を示していた。しかし経済的にも時間的にも虚子にそんな余裕はなかった。また虚子は漱石より先に小説を書き始め、この頃は俳句より小説に専念していた。虚子が専門俳人として俳壇復帰するのは大正二年(一九一三年)のことである。創作者同士の関係はいつの時代でも一筋縄ではいかない。虚子には当然、漱石に頼らずやってゆこうという意地があった。

 

 漱石は明治四十一年(一九〇八年)八月五日に『三四郎』を起稿して、十月五日に脱稿した。『三四郎』は『虞美人草(ぐびじんそう)』の反省の上に立って書かれた作品である。漱石は『三四郎』、『それから』、『門』と長篇小説を書き継ぐが、これらは三部作と呼ばれる。小説の主題と文体が一貫しているからである。

 

 三部作はいずれも若い男女が主人公である。若い男女が恋に落ち、社会的軋轢の中で苦悩し、生長してゆく様子を描いた青年成長小説(ビルドウングスロマン)である。ただ三部作の主人公は同一人物ではない。また主題も微妙に変えられている。『三四郎』は恋愛の予感、『それから』は恋愛そのもの、『門』は恋愛のその後の夫婦生活を描いた小説である。

 

 漱石は三部作を、島崎藤村の『破戒』(明治三十九年[一九〇六年])などで既に確立済みの、基本的には一人の主人公の視点によるヨーロッパ式三人称一視点形式で書いた。写生文小説はワンシーン・ワンカットが基本だが、三人称一視点形式では新聞連載小説に必須の、動的な物語軸を設定することができたからである。

 

 三人称一視点形式による完全過去形の文体と起承転結のある物語軸の採用、それに刺激的な若い男女の恋愛という主題を設定したことで、三部作は非常に安定した連作小説になっている。漱石が書いた作品の中で、この三部作が最も小説らしい小説だろう。三部作の小説構造は、主に物語の筋を読ませ、読者に娯楽を与えることを意図して書かれる現代大衆小説のそれを意識している。この意味で三部作は、新聞作家漱石による意識的な大衆小説の試みだった。

 

 『三四郎』の執筆中に、出世作『吾輩は猫である』のモデルとなった猫が死んだ。漱石は門下生たちに猫の死亡通知葉書を出し、猫の墓に立てた角材の裏に「(この)の下に稲妻起る宵あらん」という悼句を書いた。翌明治四十二年(一九〇九年)、漱石は正月早々風邪と胃痛で寝込んでいた。病床の漱石にまたしても大阪朝日の鳥居素川から原稿の催促があった。漱石は床を払うとすぐに原稿を書き始めた。『永日小品』である。

 

 明治四十二年(一九〇九年)三月には漱石門最古参の俊英、寺田寅彦がヨーロッパ留学に旅立った。漱石は胃痛で見送りに行けず、代わりに鏡子が新橋で寅彦を送った。四十二年以降、漱石の胃病は作品を書き上げるごとに目立って悪化してゆくことになる。

 

 五月には雑誌「太陽」が「新進名家投票」という読者投票を行い、文芸家部門で漱石が一位になったので記念の金杯を贈りたいと申し出た。漱石は朝日新聞と「太陽」に「太陽雑誌募集名家投票に()いて」という小文(同趣旨だがそれぞれ書き下ろし)を書き、金杯を辞退した。漱石の立場は「同じ文芸でも多趣多様(たしゆたよう)である。(中略)団子を串で貫いた様に容易(たやす)く上下順序が付けられる訳のものではない」(朝日版)という、単純だがきっぱりとしたものだった。

 

 漱石が三部作の第二作目『それから』を起稿したのは明治四十二年(一九〇九年)五月三十一日のことである。脱稿したのは八月十四日。漱石は全百十七回の『三四郎』を六十二日間で、全百十回の『それから』を七十六日間で書き上げたことになる。書き飛ばしといっても過言でない初期写生文小説ほどの驚異的執筆速度はないが、漱石はこれら緻密な小説を比較的短期間で仕上げた。子規や鷗外と同様に、漱石は基本的に筆力旺盛で筆の速い作家だった。

 

 『それから』執筆中の七月三十一日に、漱石は旧友中村是公(ぜこう)の訪問を受けた。是公とは明治十九年(一八八六年)に江東義塾で講師をしながら自活した仲だが、この時は明治三十五年(一九〇二年)にロンドンで会って以来八年ぶりの再会だった。南満州鉄道総裁になっていた是公は、「満州日日新聞」を発刊するので満州に遊びに来ないかと漱石を誘った。

 

 漱石は満州行きを承諾するが、『それから』を脱稿した直後、激しい胃カタールを起こして寝込んでしまった。漱石はこの病苦を「嘔気(はきけ)。汗、膨満(ほうまん)醱酵(はつこう)酸敗(さんぱい)、オクビ、/面倒デ死ニタクナル」(『明治四十二年[一九〇九年]日記』八月二十日)と書いた。医者から予定日に出発するのは無理だと告げられた漱石は是公を先に立たせ、九月二日に新橋から旅立った。大連から満州を北上して哈爾賓(ハルピン)まで行き、帰りは朝鮮半島を縦断して十月十七日に東京に戻った。胃痛をおしての一ヶ月半にも及ぶ長期旅行だった。

 

 満鉄総裁の賓客で流行作家の満韓旅行は、大名旅行と呼んで良い豪華なものだった。漱石は各地で講演を依頼され、色紙・短冊への揮毫責めにあった。また帝大を中心とした漱石の教え子たちが満州各地で要職に就いていて、師との再会を喜び漱石を歓待した。当時の日本は日露戦争(明治三十八年[一九〇五年])の勝利で南満州鉄道の経営権と付属地の利権を得て、南満州鉄道株式会社の設立(三十九年[〇六年])を契機に満州全域の植民地化に乗り出そうとしていた。日本の植民地政策が中国・韓国人の反感を煽っていたことは、漱石帰国直後の十月二十六日に初代韓国総監伊藤博文が哈爾賓駅で安重根(アンジユングン)に暗殺されたことからもわかる。ただ現実の満韓を見ても、漱石はこのような状況にほとんど何の歴史認識も抱かなかった。

 

 「南満(なんまん)鉄道会社つて一体何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄の総裁(是公のこと)も少し呆れた顔をして、御前(おまえ)()つぽど馬鹿だなあと()つた」(『満韓ところどころ』)と漱石は書いている。漱石は満鉄についてすら精しくは知らなかった。漱石の満韓旅行で得た感想は、「()(たび)旅行して感心したのは、日本人は進取の気象に富んで()て、貧乏所帯ながら分相応に何処迄(どこまで)も発展して行くと()ふ事実と(これ)に伴ふ経営者の気概であります。(中略)之に反して支那人や朝鮮人を()ると(はなは)だ気の毒になります」(『談話(満韓の文明)』明治四十二年[一九〇九年]十月)という言葉に尽きている。

 

 

 漱石が英文学研究を通して、文学を中心とした一つの文明の盛衰に関わる大局的な見通し(パースペクテイブ)を抱いていたのは確かである。ただ漱石は同時代の政治状況にまで透徹した歴史認識を有していたわけではない。子規が日本新聞記者としての義務感から日清戦争に従軍したように、漱石は是公に誘われたから満韓旅行に行ったに過ぎない。子規の日清戦争従軍も漱石の満韓旅行も、その後の作品にほとんど何の影響も与えていないのである。漠然とした愛国者だったとは言えるが、子規も漱石も現実政治に対しては非政治的(ノンポリ)だった。明治四十年代の政治状況を正確に認識把握していたのは、むしろ時代小説や史伝を書いたことで明治「現代」から退行したと思われがちな森鷗外だった。

 

 『満韓ところどころ』は東西朝日新聞に連載されたが、第五回目以降、掲載が不規則になった。漱石は不満だったが、年末になり自分から連載を打ち切った。そのため漱石の見聞はすべて書かれないまま終わった。その理由を小宮豊隆は「『満韓ところどころ』は(中略)『漱石ところどころ』であるといふやうな批評が、當時(とうじ)(朝日新聞社内に)あつた」(『夏目漱石』)と書いている。

 

 国粋意欲を煽るものであれ、植民地経営に疑問を投げかけるものであれ、ジャーナリスティックで政治的な主張がほとんどなく、友人との再会や写生文的な各地の風物の描写で満ちている『満韓ところどころ』の掲載に、朝日新聞が積極的でなかったのは当然である。この点では漱石はジャーナリスト失格だった。

 

 漱石帰国直後の明治四十二年(一九〇九年)十二月には、漱石ばかりでなく漱石門の若い文学者たちにとっても大きな出来事があった。東京朝日新聞が漱石主宰の朝日文芸欄を開設したのである。東京朝日の文芸欄創設は漱石入社後もしばしば社内で議論されていたが、前年の四十一年(〇八年)に徳富蘇峰の「国民新聞」が虚子を主宰者とする文芸欄を創設したことが刺激になって実現した。漱石は主な執筆者には自分で手紙を書いて原稿を依頼した。編集実務は、漱石が社から受け取る編集料月五十円を森田草平に与えて漱石宅で行わせた。

 

 ただ朝日文芸欄をどのように運営してゆくのかという漱石の方針は曖昧だった。草平は文芸欄について漱石と話し合った時に、執筆陣を漱石門を中心とする文学者で固めるか、各界から広く募るかのは草平たちに任せると漱石は言ったと書いている(『漱石先生と私』)。明治四十年代は自然主義文学の全盛期だった。正宗白鳥は『自然主義盛衰史』でこの時代を「平家にあらざれば人に非ずと()つたやうに、自然主義にあらざれば文學(ぶんがく)に非ずと云つたやうな時代が文壇に出現した。雑多紛々(ざつたふんぷん)の文壇人が自然主義派に加入せんとしたのであつた」と回想している。

 

 さらに正宗が「この派(自然主義文学派)の機関誌のやうに見做(みな)されていた」(『自然主義盛衰史』)という「早稲田文学」や「文章世界」に拠る文学者たちは、エリートである帝大出身者たちで占められる漱石一派を、現実遊離した空虚な理知派だとしばしば攻撃していた。このような批判に小宮豊隆や森田草平を始めとする血気盛んな漱石門下の若い文学者たちが反発しないはずがなかった。彼らは朝日文芸欄で反自然主義文学の論陣を張り、朝日文芸欄は次第に反自然主義文学の牙城と見なされるようになっていった。

 

 漱石は朝日文芸欄を、「自然主義が滑つても転んでも小生も毛頭異存無之候(これなくそうら)へども、自然主義を振り廻す人と同商売(ゆえ)()うでもよくなくなり(そろ)。それから自分は()うでもよいとしても()ういうものに支配される若い人が沢山有之候故(これありそろゆえ)矢張(やは)(なん)とか()と[か]誤託(ごたく)をならべて文芸欄を(にぎわ)はし、()(その)人々にあまり片寄らぬ(よう)な所見を抱かし度考(たきかんがえ)になり(そろ)」(畔柳芥舟(くろやなぎかいしゆう)宛書簡 明治四十三年[一九一〇年]四月十二日)という醒めた姿勢で見つめていた。漱石は自然主義文学全盛の風潮を疑問視していたが、党派争いには興味がなかった。しかし自然主義文学を相対化してバランスを取るべきだろうという考えから、門下生たちの反自然主義的論陣を容認した。

 

 漱石が考えたように、自然主義対反自然主義といった党派争いは文学における些事だった。自他ともに自然主義文学者と認めた正宗白鳥が「漱石門下の青年作家の作品でも、自然主義の作品として取入(とりい)れていいのもあつたのだ。森田草平の「煤煙」の(ごと)きも、作家が漱石門下でなかつたら、自然主義のものとされて、當人(とうにん)もそれで満足したかも知れなかつた。それを思ふと、文學(ぶんがく)黨派(とうは)別なんか、い()加減なものである」(『自然主義盛衰史』)と書いているのは皮肉なことである。

 

 ただ明治三十九年(一九〇六年)に滝田樗陰(ちよいん)から読売新聞文壇担当を打診されたときに、漱石が「今度の御依頼に(つい)(もつと)も僕の心を動かすのは僕が文壇を担任して、僕のうちへ出入する文士の糊口に窮して()る人に幾分か余裕を与へてやりたいと()ふ事である」(三十九年十一月十六日)と書き送ったように、朝日文芸欄創設は漱石門の若い文学者に、いくばくかの収入と文学者としてデビューするきっかけを与えることになった。

 

 明治四十三年(一九一〇年)は漱石最後の子供で、明治四十四年(一一年)十一月に二歳で急死することになるひな子が生まれた年である(三月二日)。年始早々、漱石は新たな小説の連載を求められていた。小説の表題が思い浮かばなかった漱石は、森田草平に題名を決めて朝日に予告を出すよう命じた。三部作最後の作品となった『門』である。

 

 草平や小宮豊隆の証言から、『門』は豊隆がニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を開いて、適当に選んだ言葉であることが知られている。この時期の漱石は特に小説の表題にこだわりがなく、小説の物語展開も表題に合わせて柔軟に作り上げることができた。漱石は一月下旬に『門』を起稿して六月五日に脱稿した。ただ年初から胃痛に悩まされていた漱石は、従来のように数回分を一日で仕上げるのではなく、一日に連載一回分だけを書いた。

 

 『門』を書き上げた翌日の六月六日に、漱石は麹町区内幸町(現千代田区内幸町)にあった長与胃腸病院で胃の診察を受けた。十六日に入院が決まり、漱石は十八日に入院した。漱石の胃は限界に近いところまで悪化していた。入院に引き続いて起こった「修善寺の大患」が、職業作家になってからの漱石文学を前半と後半に分けるほど大きな出来事になったのは衆知の通りである。

鶴山裕司

 

 

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* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

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