「作っちゃったんだ」「そうか、作っちゃったんだ」

元彼の奥沢くんはあたしのレプリカを連れていた。あたしと別れてから、あたし髪の毛なんかで作ったレプリカ。あたしのこと、そんなに好きなの? でもなぜ奥沢くんと別れちゃったんだっけ? あたしのレプリカは、奥沢くんのことが好きなの?

第三回辻原登奨励小説賞受賞作家・原里実による鮮烈な恋愛小説!。

by 原里実

 

 

 

 「奥沢くんのどこが好きなの」

 あたしはまたたずねた。

 「うーん」

 あたしはまたうなる。への字に結ばれたくちびる。ずっと好きになれないでいる、わずかにでっぱったおでこ。短くてちいさい鼻。

 きれいだな、とあたしはそのときなぜだか素直に思った。と同時にいま、それらのものを、奥沢くんがどんな気持ちでみつめるのだろう、そして、かつて見つめていたのだろう、と考える。それはあたしのものであって、決してあたしのものでない。

 「わからない」

 「わからないの」

 「うん、ただ、好きなの」

 ただ好きなのか。そういえば、あたしにも奥沢くんをただ好きなころがあった。あたしは思い出す。思い出して、そうだったということが記憶としてよみがえるだけのところから、あともう一歩、あのころのあたしの気持ちや、いま目の前にいるあたしの気持ちがじわじわと胸の中に染み入ってきそうになるところまで、あたしは踏み出しかけた。

 そのときだ。玄関から、鍵穴にがちゃりと鍵の差し込まれる金属音が聞こえてきた。

 あたしは、どうぶつのような瞬発力で立ち上がった。

 あたしも、立ち上がった。

 そして我先にと玄関へ向かった。

 「おかえり」

 並んで出迎えたあたしたちの顔を交互に見て、ただいま、と奥沢くんはいった。

 「遅かったね」

 「近所のとこが、閉まってたんだよ」

 さては、たばこを買いにいっていたな、とあたしは気がつく。

 「あそこのおばあちゃん、なんだかあんまり具合よくないみたい」

 いいながらあたしは思う。そう、考えるまでもないはないか。奥沢くんはたばこを買いにいっていたのだ。

 「そうなんだ」

 といいながら、奥沢くんはスニーカーを脱ぐ。

 「まあ、もうおばあちゃんだからなあ」

 何年も前からお気に入りの、履きふるしたスニーカー。その靴紐を結びながら、しゃがみこんでいる奥沢くんの後ろ姿がぼんやりと浮かんでくる。ちょっと、たばこ買ってくるよ、千夜。ほしいものある、一緒に買ってきてあげようか。あたしはコンビニのアイスクリームがほしいけど、なんの種類があるか見て自分で選びたい。だから奥沢くんには頼めない。

 「千夜」

 と奥沢くんが、なんでもないように、あたしの名前を呼んだ。

 「え?」

 と答える声は、しかし、重なった。

 あたしたちはお互いを見た。

 いま、奥沢くんが千夜と呼ぶまで、あたしたちはとなりにもうひとりあたしが立っていることをすっかり忘れていた。あたしたちはひとりきりに、重なってここに立っていた。

 しかし違った。あたしたちはまぎれもなくふたりなのだった。奥沢くんにとっていま、千夜、とはいったいどちらのことを指しているのだろう。どちらか一方かもしれないし、どちらもかもしれない。あたしもおなじことを思ったのか、じっ、とあたしの目を見つめてきた。あたしも、じっ、と見つめかえす。

 「きょうはなんだかもう疲れたから、外に食べにいかない?」

 と奥沢くんはいった。

 「さっきタバコ屋に向かって歩いてたらさ、ほら、その一つ手前の角、流行ってなかったタイ料理屋がこないだつぶれたじゃない。そこに新しい定食屋ができてたんだ」

 あたしの記憶の中で、その場所は流行っていない自然派のカフェだった。そうか、あのカフェやっぱりつぶれたのか。そしてその場所にタイ料理ができて、そのタイも流行らずにつぶれたのか。

 「そうなの」

 とあたしはいった。

 「タイ料理屋の前は、カフェだったよね。あの場所呪われてるのかな」

 奥沢くんは、そうか、カフェだったっけか、と首をかしげている。

 「そうよ」

 とあたしはいった。

 「そうそう」

 「そうよね」

 「カフェだった」

 「カフェだったわ」

 ふうん、といった奥沢くんは特に気にしていないようで、オープンしたばっかりだからかけっこうはやっていて、良い雰囲気だったよ、と新しい店にあたしたちを誘った。

 

 定食屋に向かって歩きながら、奥沢くんがいった。

 「なんだか急に寒くなったよなあ」

 なんということもなく、まるできのうまでそうしていたみたいに。当たりまえかもしれない、実際奥沢くんにとって、それはきのうまでそうしていたことなのだから。千夜、寒いね。何食べようか。千夜。

 「先週はマフラーなしでも大丈夫だったのになあ」

 奥沢くんはコートのポケットに手をいれ、寒そうに肩をすくめて、マフラーに顔をうずめている。

 奥沢くんはあたしに話しかけている。今までもずっと。ゆっくりと、呼吸をするように。慈しむように。

 「そうだね」

 あたしはいった。あたしは黙っていた。あたしは何かいいたいと思ったけれど何をいいたいのかわからなかった。あたしは鼻のあたまをかいた。考えている。奥沢くんのうしろ頭を愛しいと思っている。世界はときどきおどろくほどに美しく目に映ると思っている。また鼻のあたまをかいた。

 「ねえ奥沢くん」

 とあたしは呼んだ。

 「どうしてこんなひどいことしたの?」

 それはひとすじのまっすぐな問いだった。決して奥沢くんを攻撃したいのではない。あたしの胸に透明にわきあがってきたその問いに、あたしは答えを欲しかった。

 奥沢くんはあたしをふり返った。

 「ひどいこと」

 奥沢くんはつぶやいた。

 「ひどいかな」

 やっぱり、ひどいと思っていなかったのだ。

 「ひどいよ」

 「ひどいのか」

 「うん、とっても」

 奥沢くんは、ふうっとため息をついた。きれいなくちびるから吐きだされた息が、夜の闇の中で白く揺れていた。

 「千夜のことが好きだからだよ」

 しばらくしてそういった奥沢くんは、とても悲しそうな顔をしていた。

 「ぼくにとってきみは星なんだよ」

 奥沢くんはまた前に向き直った。

 「ひとりでも、ふたりになっても三人になっても、百人になったって、千夜はずっと、ずっとずっとぼくの特別なんだよ」

 あたしはしっとりと、泣きたくなった。美しい、奥沢くんの愛のかたちに。

 「いなくならないで、千夜」

 しかしそれは裏を返せば、あたしは奥沢くんからあたしに向けられる愛情の、いつも二分の一、三分の一、百分の一しか、あたしひとりの、たったひとりだけのものにはできないということだ。それは、だれか他の女性のことを好きといわれるよりも、ある意味で辛いことだった。だれのせいでもない、しかしどうにもならない。過去が変えられないのと同じように。

 あたしは奥沢くんを見た。奥沢くんの中にいるたくさんのあたしのことを思った。奥沢くんはあたしと出会ってからいままでずっと、そんなふうにあたしを愛していたのだろうか、と思った。そしてあたしを見た。あたしも、ちょうどあたしを見るところだった。あたしたちはしばし見つめ合い、それからまた各々奥沢くんの後ろ頭を見つめた。

 

 変な夜だった。

 あたしたちは布団を敷いて、川の字で眠った。といってもほんとうに満足に眠っていたのは、三人のうちで奥沢くんだけだったと思う。

 あたしはもともと、となりに人がいると眠れないたちだ。ということは必然的に、あたしもそう、ということになる。あたしたちはそれぞれ奥沢くんの向こう側にお互いの気配を感じながら、うつらうつら夢と現実のあいだをいったりきたりして、ぼんやりと一晩をすごした。奥沢くんはそのあいだでただひとり、ぐうすか眠っていた。

 

 それから約一ヶ月が経つまで、奥沢くんがあたしに連絡してくることはなかった。そりゃそうだ。奥沢くんにはあたしがいるのだ。

 一度だけ、公衆電話から電話をかけてきたのはあたしだった。

 「もしもし」

 と出ると、開口一番は、

 「あ」

 だけだった。けれどあたしにはそれだけで、相手があたしだとわかった。

 「あ」

 と図らずもあたしはいった。すると、急にごめん、としおらしくあたしはいった。

 「いいけど。どうしたの?」

 うん……とじぶんからかけてきたくせに、あたしは歯切れ悪い。

 「あたしってくだらないことで悩んでいるのかな」

 あたしはいった。

 「そんなことないんじゃない」

 とあたしは答えた。「あたしを悩ませてることならなんだって、くだらなくなんかないわよ」

 それを聞くとあたしはすこし笑った。

 「そりゃ、あたしはそういうよね」

 「うん、ごめんね」

 「いいの」

 いいの、ともう一度あたしはいって、電話がきれた。

 

 電話での奥沢くんは、ひどく取り乱した様子だった。

 「千夜」

 といままでに聞いたこともないような、切迫した声色であたしの名前を呼んだ。そしていまにも泣き出しそうな声でこうつづけた。

 「千夜がいなくなったんだ」

 あたしが大急ぎで奥沢くんのアパートにたどりついたとき、奥沢くんはもはやほんとうに涙を流していた。それもかなり激しく。目はうさぎのように赤くなり、あふれる涙が頬を、鼻水が鼻の下を光らせていた。つまった鼻をすすりすすり、しゃくりあげる奥沢くんの背中を撫でてやっていたら、気がつくとあたしまで深呼吸していた。

 要領をえない奥沢くんの話を総合すると、千夜は奥沢くんがいつものようにたばこを買いに出ているあいだに、探さないでください、という安いドラマみたいな置き手紙だけを残していなくなってしまったのだという。

 しようのないやつだな、と思いながらも、あたしは泣きつづける奥沢くんをそっと抱きしめた。セーターが汚れるかもしれない、と思ったけれど、暗い色だったし、あとで洗えばいいや、と思えるくらいの、聖母のような心の広さを、なぜだかあたしはそのとき奥沢くんに対して持ち合わせていた。それくらい、みっともなく泣きつづける奥沢くんはかわいそうだった。

 奥沢くんはあたしの胸の中でしばらく泣いていたけれど、徐々に落ち着きを取り戻した。

 「もうどこにもいかないで、千夜」

 といって、そっとあたしの手をとった。そのときあたしは、ああ、このひと、ほんとうにあたしのことが好きなんだな、と思った。それは安堵でもあり、落胆でもあった。

 あたしには、奥沢くんの中にいるあたしの代わりをすることはできない。

 あたしは反対の手でそっと奥沢くんの手をはがすと、

 「あたし、いくところがあるから」

 といった。

 「え?」

 と奥沢くんは目をまるくした。あたしはそれを見て、間違えただろうか、と瞬間思う。けれど結局待たせているひとがどんどん心配になってきて、あたしはバッグを手に立ち上がった。

 

 アパートに帰ると、やはり千夜がいた。

 あたしの部屋の扉の前で、ちいさめのボストンバッグといっしょにうずくまっていた。

 あたしの姿を認めると、

 「あ」

 とうれしそうな声を出して、寄ってきた。

 「何してるの」

 と声をかけると、

 「じつはね」

 とばつの悪そうな顔をするので、

 「奥沢くんから聞いたよ」

 と教えてあげる。

 「なら話が早い」

 と表情を明るくした。われながら現金なやつである。

 「好きじゃなくなったの」

 とあたしはたずねた。「奥沢くんのこと」

 「えっ」

 とあたしはすっとんきょうな声をあげた。

 「うーん」

 好きじゃないってことだな、とあたしは思う。

 「まあ」

 やっぱり。

 「そっちは?」

 とあたしがたずねた。

 「好きじゃなくなったから、別れたんじゃん」

 あたしは答えた。

 「ふうん」

 あたしは納得していないふうで、それでもにやりと笑った。

 「ほかにいくところなくてさ」

 といって、ボストンバッグを持ち上げてみせた。

 部屋の鍵を開けてあげると、

 「ありがとう」

 といいながら、すごい速さで靴を脱ぎ、あっというまに居間にあがりこんでいる。

 「わあすてきなお部屋」

 「気に入ってるの」

 「おなかすいたなあ」

 「なんにもないよ」

 「じゃあスーパーにいこうよ」

 キーマカレーが食べたいなあ、と千夜がいう。お買い物、お買い物、といいながら楽しそうに、スカートを広げながらリビングでくるくるとまわっている。

(後篇 了)

 

 

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* 『レプリカ』後篇は2月11日にアップされます。

 

 

 

 

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