第八回 澄みわたる恐怖

『キューブ2』(2002 カナダ映画)ポスター

監督アンジェイ・セクラ

 

 

 神でも天使でも、色をひとつに絞るなら白になるだろう。清廉潔白、純粋無垢、一点の曇りなき白は心地よい。とはいえその心地よさは、どこか死後の世界の静謐と結びついているようにも思われる。日本でも白はむしろ死の色であった。経帷子が白いのは言うに及ばず、かつては喪主も白い着物を身にまとう地域が少なくなかった。婚姻儀礼の白無垢も、婚家での新たな生を迎えるために、実家でいちど死ぬことを意味しているともいう。白は清潔だが、なんとなく落ち着かない。ポスター一枚ない友人の部屋に入ると、「なんだ、病院みたいだな」と言いたくなる。真白な病院は清浄な場所、命を救う場所であるはずだが、どうしようもなく死の予感に満たされてもいる。

 

 映画の白もまた、安心よりは恐怖と結びついている例が多いような気がする。ヴィンチェンゾ・ナタリ監督の出世作「キューブ」(1997年、カナダ)では立方体の組み合わさった迷宮に閉じ込められた七人が、気を抜けば一瞬にして肉体を賽の目に切り刻まれてしまう、というような凄烈な罠をかいくぐって脱出を試みる。この映画の白は明らかに病院、あるいは異常心理を持つ科学者によって運営される実験施設とでもいう印象を与える。おまけに白い背景には犠牲者の流すことになる夥しい血の紅が、なんともよく映えるのである。登場人物のひとりは奇跡的に生き残るが、皮肉にも映画はその人物が真白な光に包まれるところで幕を降ろす。もたらされた救いは新たな悲劇の予感を伴うものとなっているのだ。

 

続編『キューブ2』(2002 カナダ映画)スチール

監督アンジェイ・セクラ

 

 その「キューブ」の続編と同じ年に第一作が封切られ、六本もの長大なシリーズへと発展することになる「バイオハザード」においても、活劇の舞台は荒廃した都市、あるいは砂漠と様々ながら、その出発点/終着点として必ず登場するのはやはり白で統一された実験施設である。超巨大企業の暴走によって人類がゾンビ化した後の世界を描くこのディストピア映画の場合、その実験施設は神を気取る人間の住処ということになるから、白が神聖なものに結びつきやすい色であることにも、逆説的な説得力がある。

 

第四作『バイオハザードIV アフターライフ』(2010 イギリス・ドイツ・アメリカ合作)スチール

監督ポール・W・S・アンダーソン

 

 もっともこのような構図は、何も世界を巻き込むほどの大陰謀でなくとも見受けられるものであろう。自らを全能と思い込む、いわゆる神コンプレックスに最も陥りやすいのは医師であると言われるが、そのような医師の典型である財前五郎の恐ろしいまでの野心を描いたのが山本薩夫監督「白い巨塔」(1966年、日)である。言うまでもなく原作は山崎豊子の同名小説だ。

 

 命を救う場所であるはずの病院に渦巻く権力闘争と、患者を人とも思わないエリートたちの傍若無人ぶりをあくどいほどに描き出すこの映画は、白い巨塔(=弱者に寄り添う科学者たちの象牙の塔)がその内部に真黒な病巣を宿していることを痛快に糾弾し、山本監督にとっても主演の田宮二郎にとっても重要な作品となった。現在でも実際に医師の研修会などで、医師が病気や手術のリスクを患者に開示することの必要性を説くために、この作品が教材として使われることがあるという。しかし本作をはじめ、『華麗なる一族』『不毛地帯』『大地の子』など、社会に巣食う悪意や権力の恐ろしさを描き続けた山崎豊子が、キャリアを通じて常に盗作疑惑と背中合わせの作家であったことはなんとも皮肉ではある。

 

 さて同じ医師を主人公とした映画でも、「ドクトル・ジバゴ」(1965年、英・伊)はだいぶ趣が異なっている。砂とラクダの色についてとりあげた回で紹介した「アラビアのロレンス」と同じ、デヴィッド・リーン監督とオマー・シャリフのコンビによるこの映画は、ロシアの革命から内戦に至る激動の時代を生きた詩人の魂を持つ医師が、ひたすら運命に翻弄されながらも、恋と真実のために苦悩する物語である。大西洋の両岸で名作の誉れたかく、興行成績も歴代十位に入るほどの大当たりを取った。原作のボリス・パステルナクは二十世紀のロシアを代表する詩人・作家・翻訳家であるが、それゆえソ連政権には冷遇され、1958年に与えられたノーベル文学賞も辞退を強制された。遺族がついに賞を受け取ったのはその三十年後である。

 

 

『ドクトル・ジバゴ』(1965 イギリス・イタリア合作)スチール

監督デヴィッド・リーン

 

 いかにもリーン監督らしい地平線を切り裂くような大パノラマはこの映画にもたっぷり登場するが、こちらでは砂ではなく雪が画面を覆いつくす。戦争下の雪原といえば、例えばサボー・イシュトヴァーン監督「太陽の雫」(1999年、独ほか)で描かれるような死の行進ばかりが連想されてしまうが、「ドクトル・ジバゴ」においては、雪はむしろ幸福の象徴なのである。銃弾の音も、陰謀のざわめきも響かない森閑とした雪のなか、ジバゴは詩を書き、愛する女性と雪のように白いシーツに包まれて眠る。豪雪は目を離せば邸の内部さえ凍りつかせてしまうが、それはあたかも美しい思い出が永遠に凝固しているようでもあるのだ。

 

 しかし雪に封じ込められた世界の静謐は、やはりしばしば惨劇のための逃げ場のない舞台となる。けれん味の利いた作風で定評あるコーエン兄弟の「ファーゴ」(1996年、米)では、ノースダコタ州の雪深い田舎町で、狂言誘拐に手を染める器の小さな悪党を、妊娠中の刑事マージが追いかける。欲に駆られて妻を誘拐させることを思いついた自動車販売業のジェリーの思惑はすぐに外れ、事態は収拾のつかない修羅場へと化してゆく。死体を木材粉砕機で処理するなど残酷な描写も多い映画だが、そこはさすがのコーエン兄弟、全体としては乾いた笑いを誘うコメディに仕立てられている。自らの悪事に追い立てられ雪一色の世界ですっかり道に迷ってしまう犯行グループとは対照的に、マージと画家である夫がぬくぬくと冬を越す姿には、雪もよいならではの暖かみがある。なお「ファーゴ」は2014年よりドラマ版も放映中だ。

 

 

『ファーゴ』(1996 アメリカ映画)スチール

監督ジョエル・コーエン

 

 一方、「バイオハザード」シリーズと同様に日本のゲームを原作とするクリストフ・ガンズ監督「サイレントヒル」(2006年、カナダ)では、雪と等価の舞台装置として霧と灰が利用されている。三十年前、炭層火災のために廃墟と化したサイレントヒルは霧に閉ざされ、常に降りそそぐ灰によって、視界もないに等しい状態である。夜ごとこの街を夢にみてうなされる少女シャロンを心配した母のローズは、娘の治療のために思い切って街を訪れてみることにする。そこでローズは、幾重にも入れ子式になった街の幻影と、街路を徘徊する謎深い人々の精神の迷宮をさまようことになるのである。

 

 原作となったゲーム版「サイレントヒル」は、「バイオハザード」の成功によって雨後の筍のように量産されたホラーゲームの一つだが、派手な活劇ではなく精神面に焦点を絞った筋書きと、物語が複雑に折り重なることを無理なく許容する「灰と霧の街」という舞台設定によって、亜流と言い捨てるには惜しい作品世界を構築してみせた。そもそもこのような、日常の隙間に落ち込むようにして幻想の境に迷うという物語の類型は、上田秋成の『雨月物語』をはじめ大昔から日本が自家薬籠中の物としてきたところでもあり、「サイレントヒル」にもそのような風土の片鱗を見ることは難しくない。

 

『サイレントヒル』(2006 カナダ映画)スチール

監督クリストフ・ガンズ

 

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とは言わずと知れた川端康成『雪国』の言であるが、この場合、雪国がもはやこの世と言い切れない場所であることは疑いを容れないだろう。雪という、世界の余白を視覚化したような物体には、何かしら現実の輪郭を見誤らせるような力があるようだ。思えば「ファーゴ」の冒頭にも、This is a true story(これは本当に起きた出来事である)という言葉が挿入されている。これは何よりもまず、映画という作品が実際の出来事に基づいていると謳うことで観客の野次馬根性を惹起する目的で、ほとんど馬鹿の一つ覚えのように使われる Based on true events(実際の出来事に基づく)やそれに類する文句に対する痛烈な皮肉なのだが、同時にその白い世界で展開される出来事が、もはや事実か創作かの区別を超越してしまっていることを示唆してもいるだろう。先の二つの英文を日本語にした文章のぎこちなさからも明らかなように、幸い日本語には本来、事実と虚構とを峻別する言葉がない。対して西洋では、歴史 history と物語 story とは明らかに同じ言葉から派生しているにもかかわらず、理性による両者の区別を奨励してきたのである。「ファーゴ」の世界を生んだのもそのような文明のひずみに他ならない。

大野ロベルト

 

 

 

 

 

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