%e3%81%8a%e8%8f%93%e5%ad%90%e3%81%aa%e6%ae%ba%e6%84%8f_05_cover_01パティシエを目指していた彩子は、ある罪を犯した怖れから逃げ隠れして暮らしている。行き着いた先は、人気が陰りをみせた歌手・カオルの付き人の仕事。だが不運はつきまとい、ついに運命の大事件へと…。詩人・小原眞紀子の原案が甘やかな哀愁とともに語られる、待望の金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第3弾!

原作・小原眞紀子 作・露津まりい

 

 

 

 

 

3 溶かしバターの中で砂糖とショコラは背反する(後半)

 

 

 「あの、カナリアの籠は」

 カオルは顔を上げたが、振り向くことなく、置きっぱなしの姿見へ目をやった。鏡の中の彩子にきゅっと眉を寄せると、黙って身体を起こし、文庫本をテーブルに放った。

 「なによ、ケーシャのこと」

 「ケーシャって?」と、問う彩子に、カオルはベランダを指差した。

 グランドピアノの影が被さったガラスの外に、何かぶら下がっている。彩子は窓に走り寄り、サッシを開けた。

 軒下にラメ入りのショールが垂れ、端を引っぱると鳥籠が激しく揺れ、カナリアがばたばた羽ばたきしている。

 彩子はショールを握ったまま、リビングに戻った。

 「あそこに下げることにしたのよ」

 ソファに腰掛けたカオルが言う。「あんたがいないときも、家政婦が世話してくれるわ」

 「でも、外じゃ、」と彩子は言った。「野良猫だっているし」

 「猫?」カオルは笑い、「大丈夫よ」と、ごく優しい口調で応えた。

 「トカゲのケーシャも外じゃないのさ」

 大火傷を負ったケーシャは、獣医のところからいまだ帰れない。変質者か近所の悪ガキの仕業だと、カオルはずっと言い張っていた。

 「カナリアも、ケーシャなんですか」

 「そうよ。うちにいる子は皆、ケーシャ」

 カオルはまた笑い、ガラス越しに外を眺める。向う側は一方通行の裏通りだった。芸能人はファンやカメラを警戒し、一階には住まないものだが、カオル本人がどうしても専用庭を欲しがったらしい。

 が、そこには普通の犬小屋の三倍ほどのトカゲの小屋が、空のままあるだけだった。

 彩子は諦めてベランダへ出た。バーベキュー・コンロをどかし、芝生から運んだチェアを足場に、気休めのショールを鳥籠に掛ける。

 部屋へ入ると、カオルはソファに寝そべり、ぱらぱらと文庫本をめくっていた。

 「ねえ、」とカオルが声をかけた。「この小説ね、面白いよ」

 彩子はカーテンを閉めた。カオルが本を読むのを見るのは初めてだった。

 ページから顔を上げず、カオルは言った。「女性検事が家へ帰ってくるとね、飼ってたカナリアがレンジでチンされてたの」

 

 トントン、トントン、と執拗に繰り返される音が眠りを妨げている。

 変わった鳥だ。巨大なキツツキだろうか。彩子は寝返りを打った。

 「起きてください」と、声がする。「大変ですったら、いなくなってしまわれたんですう」

 彩子はマットから転がり出て、Tシャツ姿で戸を開けた。

 「カナリアが?」

 も、何をそんな、と家政婦は握りしめたメモを突き出した。

 「カオルさまがです。どしたもんか、警察呼びましょか」

 

 深夜の録音スタジオは、冷たく埃っぽい機械の匂いがする。

 久能木は編集機のキーを素早く叩いていた。その厳しい顔つきを、彩子は腰掛けて見守るしかない。この手の仕事はコンピューターより編集機の方がいいと言うが、昔のDJから取り出した細切れの音声で一五分のテープ一本を捏造するのに四時間近くかかる。

 「ちょっと休憩」と、久能木は息を吐いた。

 廊下に出た彩子が紙コップを持って戻ると、彼はテープの仕上がった部分を聞き返していた。

 隅のスピーカーからカオルの声が流れてくる。

 「で、お姫さんはどこ行っちまったんだ」

 コーヒーを啜り、久能木は訊いた。

 彩子は無言で肩をすくめる。

 「ふーん」と、久能木は唸る。「金は持ってるのか」

 一昨日の午前中、再び払い戻し用紙を渡されて、彩子が三〇万円を下ろした。今朝、食堂に残されていたメモには「二、三日の留守」とだけ書かれていた。

 「そうか。まだいいよな、メモ置いていったなら」

 この録音も仙台の局に渡すのに、ぎりぎりで間に合うタイミングだった。カオルは支離滅裂なようでいて、支障をきたさないように考えているらしい。

 久能木は続きを始めた。一瞬の判断で、パシッ、パシッと話し声を分割してゆく。それでも長さにして数秒分ずつ進んでゆくしかない面倒な作業だ。

 もし、この番組が一五分より長かったらお手上げだった、と彩子は思った。二年も続いたコーナーで、リソースは比較的豊富だし、時事ネタを取り上げないことも助かった。リクエストの氏名は姓と名を分けて組み合わせれば別人になる。ペンネームは「サクランボちゃん」でも「ちょい悪オヤジ」でも、適当な言葉を拾ってくる。手紙の内容やカオルのコメントを一文ずつ繋ぎ直せば、理屈からいうと同じ番組の別の回になる。

 「ま、いきなり話題が変わったりしても、意外と気づかないもんさ」

 久能木の言う通り、読み上げる曲名がぎくしゃくしていても、ただ強調しているだけにしか聞こえない。そう言いつつ凝り性の彼はトーク部分から単語を捜し、レアな懐メロ曲を挿入したりする。「キャンディーズ(キャンディ、と早口で言ったところから録る)の春うらら」をかけるカオルなんてあり得ない。が、そんな冗談を楽しむのも最初だけで、やがて疲労困憊し、「ラストはわたくしの手前味噌、最新アルバムから○○○を」という常套句で締めると、一番長い曲を選んでフェードアウトする。

 「これでいい。一本でいいんだろ」

 久能木は音量を絞ると、ほっとしたように煙草に火をつけ、彩子は灰皿を取りにいった。スタジオは禁煙のはずだが、機材の棚の奥にはちゃんと灰皿が用意されている。

 静かに流れるラストの曲はバラードで、みごとなピッチで深い声が響いていた。

 「俺、ときどき思うんだけどさ」

 青白い煙を吐きながら、久能木は呟いた。「カオル嬢はやっぱり、演歌の方がよかったんじゃないか」

 大学を三ヵ月で中退したカオルは、演歌の作曲家、長谷順次宅に住み込んでいた。甘く秘密めいたビタースイートチョコレートの声質と呼ばれながらも、こぶしが回る。日本人の琴線に触れるビブラート、七色の声音とパンチのある声量。すべてが演歌修行の賜物だという。

 「上下関係の厳しい世界でさ、頭ごなしに押さえつけられた方が保つよ。あのタイプは」と、久能木は言う。「アーティストとして才能がどうのとか、ちやほやされるから収拾つかなくなるんだ。個性なんてのは型に填められて抑圧されて、それでも滲み出てくるもんしか、ほんとじゃないんだぜ」

 「なるほどねえ」

 彩子は大袈裟に感心してみせた。

 そう言われてみれば、カオルの演歌はよかった。今はカラオケでがなるだけだが、ド演歌になればなるほど妙に繊細に色っぽく、初恋の鮮烈な香気のようなものが立ちのぼる。

 「でも、カオルのアルバムなんか、ろくに聞いたことないでしょう」

 「そりゃそうだよ。俺、ミニスカのアイドルでないと」

 「だのに、よくわかってるんだ」

 「わかってやったところで、どうにもならんさ」と、久能木は言った。

 確かにそうだ。同情しようと腹を立てようと、カオルが相手では何も変わりはしない。

 「ま、たとえ器用貧乏だろうが、俺に心配されるほど困っちゃないよな。だけど気のせいか、最近、輪をかけて危うい感じがする」

 

 「三時間半前に仙台を出てるはずなんですが」

 ホテルのレストランの個室で、三輪田は顔を強ばらせて頭を下げていた。その爪先が床を叩いているのが、隣席の彩子にまで伝わった。

 「収録終了が遅れたんでしょう。いやあ、地方局のすることは万事、手際が悪くて」

 タカノヤの社長は無表情に紹興酒の杯を傾けていた。恰幅のいい七○代後半だったが、創業者社長で相当なワンマンと聞いている。食べられるものと見えるものしか信じず、とりわけ理解できないのが広告代理店という存在。CM枠の確保に広告代理店の排除はできないものの、広報課は体力の限界まで自給自足が社長命令だという。

 グラスにビールが注がれたが、丸テーブル中央の前菜の大皿には誰も箸をつけない。

 真壁はときおり社長の顔に視線を走らせるものの、無言で腕組みをしたままだった。三輪田の言葉を信じているはずもなく、カオルについてはもう観念した、という様子だ。

 無論、仙台での収録は嘘だった。しかし昨晩、やっと本人から連絡が入り、「夕方六時、帝国ホテルね」と確かに言っていたのだ。

 三輪田が彩子の肩を小突いた。

 彩子は台を回し、長い象牙の箸で前菜を取り分け始めた。緊張でチャーシューが一枚、こぼれ落ちそうになる。

 この真っ白なテーブルクロスに醤油の染みをつけたらカオルは来ない、と一瞬考え、馬鹿げた願掛けに自己嫌悪した。

 彩子が小皿を差し出したとたん、老社長は立ち上がった。

 「あと少し、お待ちを」

 三輪田は携帯を掴んで個室を飛び出した。カオルが携帯を持たない以上、かけるところもないはずだった。

 と、そのとき入れ違いに、大輪の牡丹が飛び込んできた。

 着物の裾を蹴散らし、まっすぐ社長に駆け寄ると、その膝にすがりついた。

 「詞が、やっと詞ができました」

 カオルが喘ぎながら、一枚の紙を差し出していた。

 「どうしたの、あんた」

 社長は仰天し、紙切れをろくに見ずに真壁に渡した。

 「いいじゃないですか、いいですね、社長」と、真壁は間髪を入れず言った。

 三輪田が受け取ったそれを、彩子も手元から覗き込んだ。

 出前じゃあるまいし、饂飩会社の注文なんか知るか、とカオルに怒鳴られ、彩子がこしらえた詞が修正され、そこに書かれていた。

 「あんた、着物似合うねえ」

 山本富士子も、樋口可奈子も真っ青だと笑う老社長は、いまや上機嫌だった。

 短い髪からうなじを覗かせ、カオルは真壁の耳に唇を寄せて何か囁いていた。と、振り返りざま、空になった社長の杯に酌をする。

 後ろにも目があるのだろうか、と彩子はぼんやり考えた。

 北京ダックのコースは進み、デザートが済むと社長は立ち上がった。

 「年寄りは夜が早くてね」

 「お送りします」

 三輪田が後を追い、テーブルには三人が残った。カオルは胸元から扇子を出し、うんざりした表情で顔を扇いでいた。

 「真壁さん、ねえ、これから圭以子ママの店に行きましょう」と、カオルは言い出した。

 「申し訳ない。実は社に戻る用事がありまして」

 「ダメよ、連れて行くってママと約束してるんだから。だったら用事が済んでからでもいいわ」

 「また次の機会に」と、真壁は苦笑した。「どうぞよろしくお伝えください」

 彩子がホテルの正面玄関に車を横付けしたとき、二人の姿はファサードには見あたらなかった。シャンデリアで明るいロビーにまだいるのか、と運転席から目を凝らしたが、見つからない。

 しばらく待つと、前の木立と茂みの影に着物姿が現れた。上背のある男の腕にすがり、まだ駄々をこねている様子だった。

 彼はホテルの外でタクシーを拾おうとしているのだろうか。

 二人はなかなか近づいて来ようとせず、やがて何かに躓いたようにカオルが傾いた。その肩に手を回した二つの輪郭が一瞬、重なってみえた。

 

 左右の車線に二色のテールランプが速く、あるいはゆっくりと流れ去る。赤、そして黄色。銀座通りを走りながら「お店はどちらです」と、彩子は訊いた。

 「行かない。今日はもういい」

 圭以子ママというのが白水の知り合いで、各社の広報や代理店に顔が利く。真壁に直接カオルを紹介したのは白水でなく、その女性だと三輪田から聞かされていた。

 もし、その店に行ったなら、白水が待っていたのかもしれない。

 真壁が同行を断ってくれたのは幸いだった。

 赤信号で停まると、カオルは窓の外に視線を逸らし、何か考え込んでいた。

 「昨日まで、どこに行ってらしたんですか」

 彩子は思い切って尋ねた。

 カオルはぎょっとしたように前を見た。

 「ちゃんと戻ったじゃないの」

 信号が変わった。彩子はアクセルを踏みつけた。

 「今朝起きたら、芦ノ湖にいたのよ」とカオルは呟いた。

 「なぜ、そんなところに。おひとりで、ですか」

 「さあね。酔っぱらってて覚えてない」

 カオルは目を天井に向け、はぐらかした。

 「たぶん、占いにあったからよ。思い切って、英気を養えってことよ」

 「行動は万事慎重に、でしたでしょう」

 カオルは鼻で笑った。「あんたのインチキ占いなんかじゃないわよ。『千住の伯母』っての。一.すべてを思い切れ。一.復活への閾を抜けよ。一.内なる真の希みを。一.あらゆる成り行きに救いの光、神も地獄も信じずとも」

 「わたし宛ての方角占い、開封したんですか」

 「そうよ。なにさ、自分ばっかり本物の占い師に頼んじゃって。あそこはあたしの家なのよ。方角で占ったなら、あたしの運勢じゃないさ」

 「昔、頼んだのがいまだに届くだけです」と、彩子は言う。「もう信じてないし、ろくに見てもいません」

 「ちょっとは参考にした方がいいよ」と、カオルは言った。

 「あんたのブック占いときたら、騙されたふりするのも苦痛なぐらい説教じみてる。だいたい、あの歌詞も、ほんとにセンスがないったら」

 「ねえ、」カオルは身を乗り出した。「真壁課長って独身だし、家はお金持ちよ」

 彩子に向かって、バックミラーのカオルは薄く笑う。

 「あんたさ、あの課長さんと寝たいんでしょ」

 思わず振り返りそうになり、アクセルを緩めた。

 「あー、やだやだ。付き人がインランじゃ、あたしも困っちゃうわ」

 カオルはぷいと横を向くと眉間に皺を寄せ、また暗い窓の外を見つめた。

(第06回 第3章後半)

 

 

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* 『お菓子な殺意』は毎月02日に更新されます。

 

 

 

 

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