NS_08_cover_01金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

第Ⅱ章 漱石小伝

―― 『漱石とその時代』を未完のまま自死した江藤淳に

 

■ 朝日新聞入社 ―― 職業作家へ ■

 

 『吾輩は猫である』を発表してから爆発的に創作活動を続ける漱石の周囲は、明治三十九年(一九〇六年)頃から徐々にざわめき始めた。三十九年十月には読売新聞社社主・竹越与三郎が漱石招聘に動いた。ジャーナリズムが軌道に乗り始めていた当時、新聞各社は販売部数拡大のために、読者を惹き付けられる文学者を専属作家とする戦略を採っていた。竹越の命を受けて漱石と最初の入社交渉を行ったのは、当時読売の記者で、後に自然主義文学の代表作家の一人になる正宗白鳥だった。条件面などで漱石の読売入社は実現しなかったが、国民新聞や報知新聞、日本新聞などからも同様の申し出があった。

 

 漱石の方でも創作に全精力を注ぎ込みたいという気持ちが強まっていた。虚子宛に「とにかくやめたきは教師、やりたきは創作。創作さへ出来れば夫丈(それだけ)で天に対しても人に対しても義理は立つと存候(ぞんじそろ)」(明治三十八年[一九〇五年]九月十七日付)と書き送っている。漱石は明治大学講師の職を三十九年(〇六年)十月に辞職した。少しでも創作の時間を作るためだった。現実問題として『吾輩は猫である』(上篇)(三十八年十月)と『漾虚集(ようきよしゆう)』(三十九年五月)の二冊の単行本を出版した漱石は、印税などでそれなりに稼ぐようになっていた。

 

 ただ漱石を欲しがったのはジャーナリズム側だけではなかった。明治三十九年(一九〇六年)七月には京都帝国大学文科大学学長に就任していた旧友狩野亨吉が、京大で英文学の講座を担当するよう依頼してきた。四十年(〇七年)三月には大塚保治を通して帝大教授就任の要請があった。英文学者としての漱石の評価も高まっていたのである。漱石は狩野の申し出は断ったが、帝大教授就任についてはしばらく返答を待ってもらうことにした。東京朝日新聞社から漱石招聘の具体的な話が持ち上がっていたのである。

 

 漱石招聘に動いたのは、当初、大阪朝日新聞社社主・村山龍平と同社主筆・鳥居素川(そせん)だった。素川は漱石の『草枕』(明治三十九年[〇六年]九月)を読んでその文才に感嘆し、村山に漱石入社を勧めた。『草枕』は漱石が「この俳句的小説(中略)が成立つとすれば、文学界に新らしい境域を(ひら)く訳である。この種の小説は未だ西洋にもないやうだ。日本には無論()い。それが日本に出来るとすれば、先づ、小説界に()ける新らしい運動が、日本から起つたといへるのだ」(『談話(余が『草枕』)』明治三十九年十一月)と自信に満ちた言葉を洩らした小説である。そのような日本文学独自の表現が、ヨーロッパ文学の模倣を繰り返す同時代文学に飽き足りない素川らを動かした。

 

 ただ大阪側の動きを察知した東京朝日新聞社主筆・池辺三山(さんざん)が、先に漱石獲得に動いた。三山は同社記者で、漱石教え子の白仁(しらに)三郎(坂本雪鳥(せつちよう))を使者に立てて漱石と入社交渉を始めた。当時の東京朝日新聞社は大阪朝日新聞社の系列会社で、将来の東京市場の拡大を見越して設立された赤字会社に過ぎなかった。三山は帝大講師の漱石を専属作家に引き抜くことで、東京朝日新聞の売り上げ拡大を狙ったのである。交渉は四十年(一九〇七年)二月二十四日に始まり、三月十五日に早くも入社が内定した。

 

 漱石は東京朝日新聞社入社に際して三山と綿密な交渉を行った。小説社員として自分が行うべき義務、給与、賞与、退職金の金額、新聞小説を単行本にした場合の版権の帰属先などを確認した上で、朝日の担当者が変わってもその地位が守られることを三山を通して社主に保証させた。漱石は白仁三郎宛に「一度(ひとたび)び大学を出で()野の人となる以上は再び教師(など)にはならぬ考故(かんがえゆえ)に色々な面倒な事を申し(そろ)(なお)熟考せば此他(このほか)にも条件が出るやも知れず。出たらば出た時に申上(そろ)」(明治四十年[一九〇七年]三月十一日付)と書き送っている。

 

 神との契約が社会契約概念の基礎であるヨーロッパ社会に比べ、日本の契約は現在でも甘く曖昧な面がある。実業と呼びにくい文学界ではなおさらのことだ。漱石が行った交渉は、明治四十年代では異例なほど実務的で緻密なものだった。人間関係で最も口にしにくい金の問題を含め、義務、権利に関わる契約の要点をズバリと相手側に申し出ることができる社会性を漱石が先生稼業から身に付けたはずはなく、それはやはり幼時の家庭環境から得たものだろう。

 

 入社が内定すると漱石はすぐに第一高等学校に依願退職届けを提出し(明治四十年[一九〇七年]三月二十日)、帝大にも退職願いを出して(三月二十五日)、三月二十八日に京都・大阪へと旅立った。大阪本社で社主・村山龍平と主筆・鳥居素川に会うのが目的だった。

 

 この旅行で漱石は素川から、当初は大阪朝日新聞が漱石を招聘して、京都か大阪に住まわせて執筆させるつもりだったと聞かされた。しかし大阪と東京側の交渉の結果、漱石は東京在住のまま東京朝日新聞社に入社することが正式に決まった。これにより、漱石は素川に一種の恩義を負うことになった。漱石の作品は東京と大阪朝日新聞に同時掲載する契約だったが、漱石は素川の依頼でしばしば大阪側にのみ掲載する原稿を書いている。実際、漱石の朝日での初仕事『京に着ける夕』は大阪朝日新聞にのみ掲載された。素川の無念に配慮したのである。

 

 漱石は京都で子規を思い出していた。「制服の(ぼたん)真鍮(しんちゆう)と知りつ()も、黄金と()ひたる時代である。真鍮は真鍮と悟つた時、われ()は制服を捨て()赤裸の(まま)世の中へ飛び出した。子規は血を()いて新聞屋となり、余は尻を端折(はししよ)つて西国へ出奔する。(中略)子規の骨が腐れつ()ある今日に至つて、よもや、漱石が教師をやめて新聞屋にならうとは思わなかつたらう」(『京に着ける夕』)と書いた。

 

 鷗外が小説『灰燼』で「新聞を書く人の多数は失敗者である。政治家になろうとして、なり(そこ)ねた人である」と書いたように、当時の新聞記者の社会的地位はそれほど高くなかった。安定した収入と高い社会的地位が保証された帝大教授の地位を抛って新聞社に入社した漱石の心中に、子規の姿が去来したのは当然のことだった。しかしだからこそ世間は漱石の朝日新聞入社に沸き立った。入社後、漱石はすぐに精力的に仕事を始めた。特に『入社の辞』の激烈な内容は、今日ではジャーナリズムのゴシップ種になりかねないものだった。

 

 漱石は『入社の辞』で「大学の(よう)な栄誉ある位置を(なげう)つて、新聞屋になつたから驚くと()ふならば、やめて(もら)ひたい」、「大学で講義するときは、いつでも犬が吠えて不愉快であつた。余の講義のまづかつたのも半分は(この)犬の為である」といった、言わなくてもよいような大学への不満をぶちまけている。大学関係者から「文部省より任命されし海外留学は二年なりし(ゆえ)(その)二倍(すなわ)ち四年間御奉公すれば何等(なんら)拘束さる()義務なきかの(ごと)く言へるは、余りに功利的にて無責任なり」(「東京二六新聞」明治四十年[一九〇七年]六月十四日)という批判が起こったのは当然だった。しかし漱石は「近来の漱石は何か書かないと生きて()る気がしないのである」と、切迫した創作への衝動も書き付けている。あえて大学関係者に敵を作るかのような『入社の辞』で、漱石は自らの退路を断ったとも言える。

 

 漱石は明治四十年(一九〇七年)六月から、朝日入社後初の長篇小説『虞美人草(ぐびじんそう)』の連載を開始した(同年十月まで)。予告が出ると三越呉服店(現三越百貨店)は虞美人草浴衣を売り出し、玉宝堂は虞美人草指輪を販売した。池辺三山が期待した通り、帝大教授の座を抛って小説家となった漱石の小説は世間の大きな注目を集めた。

 

 私生活では『虞美人草』連載中に長男純一が生まれ、翌明治四十一年(一九〇八年)十二月には次男伸六が生まれた。漱石は四女二男の父になった。長男が生まれた時は「男の子だ男の子だと喜んで()た」(『漱石の思ひ出』)のだという。子供たちの証言から漱石は女の子の教育にはほとんど注意を払わず、男の子に対してのみ英才教育を施そうとしたことが知られている。漱石は家庭では長男・男子偏重の典型的な明治の男だった。

 

 鳴り物入りで始まった『虞美人草』だったが、世間の評判は決して芳しくなかった。『猫』は長篇だが一章ごとに完結した短篇の寄せ集めであり、漱石は長篇を書いたことがなかった。また長篇を書くためには写生文はふさわしくなかった。写生文では話者(主人公)の視点が固定カメラのように一箇所に据え付けられてしまい、動的な展開が望めなかったのである。転機になったのは入社二作目の短篇小説『坑夫』(明治四十一年[一九〇八年]一月掲載)である。

 

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 『坑夫』は明治四十年(一九〇七年)十二月に、紹介状も持たずに漱石宅を訪ねて来た荒井某という青年が、故郷信州へ帰る旅費が欲しいので、小説の素材に使って欲しいと売り込んだ話の内容の一部を小説化したものである。他者の体験談をテンポ良く小説にまとめてゆく必要があったためか、この小説が漱石の写生文小説から近代小説への転換点になった。また木曜会に集まる若い文学青年たちの、時には突飛な言動も漱石の小説に影響を与えた。

 

 明治四十一年(一九〇八年)三月、門下生森田草平(そうへい)が平塚雷鳥(らいてう)明子(はるこ))と心中未遂事件を起こした。草平は既婚で雷鳥は教え子の学生だった。二人は塩原温泉奥の尾花峠をさまよっていたところを宇都宮警察署員に発見され、東京へ連れ戻された。生田長江(ちようこう)が草平を引き取ったが、新聞記者から身を隠すため、草平はしばらく漱石宅に滞留することになった。後に漱石は心中未遂事件を小説にまとめるよう勧め、『煤煙』と題された小説を朝日新聞に掲載して、春陽堂から刊行する約束を取り付けた。また雷鳥の両親から『煤煙』執筆許可を得るための粘り強い交渉を続けた。

 

 草平の『煤煙』執筆は漱石にとって苦肉の策だった。世間のスキャンダラスな注目を浴びた事件を、新聞社社員である漱石がもみ消すことはできなかった。事件の詳細が朝日新聞に載れば、それは一種の独占報道であり漱石は職責を果たすことができた。また心中事件で社会的信用を失った草平が生きてゆくためには、組織に属さない文学者になるほか道はなかった。後に朝日文芸欄を創設した際に、漱石は草平の入社を社主村山に打診したが、村山は首を縦に振らなかった。

 

 漱石宅滞在中に草平は漱石と心中未遂事件について話し合った。漱石は「遊びだ」と言い切った。草平が「恋愛以上のものを求めて()た、人格と人格との接触によつて、霊と霊との結合を期待したのである」と言うと、漱石は「馬鹿なことを()ふものではない。男と女が人格の接触によつて、霊と霊との結合を求めるのに、恋愛を措いて外に道があるものか」と草平の言葉を一笑に付した。漱石は「遊びであつたにせよ、なかつたにせよ、結局、君等が死んで帰りさへすれば、何も問題はなかつたのだ。事実がそれを証明してくれるから」と言い放って草平に引導を渡した(『漱石先生と私』森田草平)。

 

 これらの言葉は漱石が、恋愛沙汰に関しても高い社会性を備えていたことを示している。また草平はそのような漱石に父の面影を見た。草平は出生や父の死に関する秘密を抱えており、「煤煙事件」に限らずいくつも女性問題を引き起こしていた。低回派、余裕派、理知派と呼ばれた漱石門下に属したことは草平の不幸であり幸いでもあった。不幸は草平の露悪的告白が漱石によってブレーキをかけられてしまったことにある。幸いは漱石門下だったことが、結局は草平を物質的に助けたことにある。体験の裏付けがない作品を書けない私小説作家の例に漏れず、草平も寡作だった。

 

 なお草平と雷鳥はその後疎遠になったが、生田長江は「煤煙事件」をきっかけに雷鳥と親交を結び、雷鳥は長江の勧めで明治四十四年(一九一一年)に女性だけの文芸雑誌『青鞜(せいとう)』を創刊した。雷鳥が明治大正時代を代表する女性解放運動家になったのは衆知の通りである。「原始女性は太陽であった」(『青鞜発刊に際して』)という言葉に代表されるように、雷鳥は強い女性だった。草平が雷鳥に求めたものは愛ではなく、漱石に感じた父性と同質のものだったのかもしれない。

 

 「煤煙事件」は単なるスキャンダルというだけではなく、漱石に大きな文学的刺激を与えた。鷗外が四十一歳の時に二十三歳の荒木しげと再婚することで、観念としてではなく、しっかりとした肉体感覚を持って明治四十年代の「現代」を言語化し得る糸口を見出したのと同様に、明治四十一年(一九〇八年)に四十二歳になっていた漱石は、若い門下生たちの言動から「現代」の若者たちの風俗や心理を描くきっかけを掴んだ。漱石は『それから』で主人公に草平の『煤煙』批判をさせているが、『三四郎』でも若い門下生たちの言動を作品に取り入れた。

 

 小宮豊隆は明治四十一年(一九〇八年)の日記に「汽車の中で『三四郎』を読む。なんだか自分の事が書いてある様な気がする」(九月二日)、「(鈴木)三重吉と平野屋で飲む。なんだか与次郎(『三四郎』の親友)と三四郎みたやうな気がしてならない」(九月二七日)と書いた。漱石は門下生をモデルにして小説を書いたわけではないが、『三四郎』、『それから』、『門』と続く漱石のいわゆる三部作は、若い門下生たちの言動の観察から生まれている。このようなところから、小宮を始めとする門下生と漱石との間に、徐々に微妙な心理的齟齬が生じていくことになった。

鶴山裕司

 

 

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* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

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