NS_07_cover_01金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

第Ⅱ章 漱石小伝

―― 『漱石とその時代』を未完のまま自死した江藤淳に

 

■ 小説家デビュー ―― 「ホトトギス」の作家 ■

 

 明治三十六年(一九〇三年)一月に帰国すると、漱石はすぐに第一高等学校英語嘱託講師、東京帝国大学文科大学講師の仕事に就き、翌三十七年(〇四年)九月からは明治大学予科の講師も兼任した。第一高等学校と明治大学では英語を教えたが、帝大では『文学論』関連の講義のほかに、ジョージ・エリオットの『サイラス・マナー』やシェークスピア作品の講読も行った。

 

 帰国早々猛烈に働くことになったのは、妻鏡子の実家が困窮していたからである。留学中、比較的裕福な実家に妻子を預けたはずが、帰国してみて漱石は妻子の質素な暮らしぶりに驚いた。妻子を引き取って一家を構えたものの、漱石の方でも神経衰弱の症状が治まらず、夫婦関係が悪化して明治三十六年(一九〇三年)七月から九月まで、鏡子、長女筆、それに留学中に生まれた次女恒子を実家に帰して別居した。それでも三十六年十一月に三女エイが、三十八年(〇五年)十二月に四女アイが生まれ、漱石は四人の女の子の父親になった。

 

 明治三十六年(一九〇三年)十月には困窮した義父中根重一が訪ねて来て、借金の連帯保証人になってくれないかと懇願した。重一は貴族院書記官長の要職まで務めた人だが、相場で失敗して財産を失っていた。漱石は保証人になることは断ったが、友人から金を借りて四百円を融通した。重一は三十九年(〇六年)九月に死去したが、漱石は重一が重態になっても見舞いに行かず、葬儀にも参列しなかった。鏡子の『漱石の思ひ出』によれば「婚礼葬式その他一切の親戚間の交際は私(鏡子)一人が引きうけて、夏目は一切出ないことにして()た」のだという。

 

 漱石が近親者に対して、時に憎悪に近い感情を抱いていたのは確かである。それには漱石なりの理由がある。父直克(なおかつ)と養父母の塩原昌之助・やすは養子制度の枠組みを守れず、漱石を長い間不安定な状態に放置したことで憎まれた。家督を継いだ兄直矩(なおかた)は、自分一人の借財のために夏目家の財産を蕩尽してしまった。義父中根重一は英国留学中に託した妻子の面倒を見きれなかった。また社会的責任を果たさなかった彼らが、漱石が帝大講師になると、近親者の甘えで援助を申し出たことがさらに漱石を苛立たせた。

 

 これに対して母ち()、長兄大助、異母姉(ふさ)はそれぞれの立場で漱石を愛した。ちゑは漱石を甘やかさなかったが、それでも漱石は母の愛を感受することができた。長男大助は次兄直則(なおのり)や三男直矩と同様に吉原通いをするなど遊蕩に耽ったが、漱石に英語を教え将来に対して的確な助言を与えた。お喋りで経済的にルーズだった房には、里子に出された漱石を家に連れ帰ってしまうような優しさがあった。晩年の漱石は房や直矩に経済的援助をしていた。近親憎悪といっても漱石のそれに特殊な側面があったわけではない。多かれ少なかれ誰にでもあるようなものだった。

 

 此頃(このころ)われ()仲間の文章熱は非常に盛んであつた。(中略)それは子規居士生前からあつた会で、「文章には山がなくては駄目だ」といふ子規居士の主張に基いて、われ等はその文章会を山会と呼んでいた。(中略)私は或時文章も作つてみてはどうかといふことを勧めてみた。(中略)当日、出来て居るかどうかをあやぶみながら私は出掛けて見た。漱石氏は愉快さうな顔をして私を迎へて、一つ出来たからすぐここで読んで見て()れとのことであつた。(中略)私はそれを朗読した。氏はそれを(かた)らで聞き(なが)ら自分の作物に深い興味を見出すものの如くしばしば噴き出して笑つたりなどした。

(高濱虚子『漱石氏と私』大正七年[一九一八年])

 

 イギリス留学前から漱石の文学関係の交遊は、ほぼ子規周辺に限られていた。というか小説を書く前の漱石は、文学的には子規派の群小俳人の一人に過ぎなかった。子規は留学中の明治三十五年(一九〇二年)九月十九日に死去していたが、帰国後は高弟の高濱虚子が漱石と密に交流することになった。漱石の神経衰弱に困り果てた鏡子夫人に頼まれて、漱石を芝居見物に連れ出したりした。漱石を誘って連句を試みたり、自由詩の一種である俳體詩(はいたいし)をいっしょに試みたりもしている。

 

 当時虚子らは句作のかたわら、子規生前から始まった写生文の試みを行っていた。子規は俳句で見出した写生理論を使って新しい散文を創出しようとしたが、その手始めの試みとして短い写生文を書いて持ち寄って朗読し、皆で合評する会を開いていた。「山会」である。虚子は漱石に、山会用に何か文章を書いてみてはどうかと提案したのだった。

 

 ただそれは漱石の文才を見込んでのことではなかった。虚子は漱石は、「明治三十七年の九月頃までは(その)教師としての職責を真面目に尽すといふ以外余り文筆には親しまなかった」と書いている。また漱石は帰国後「ホトトギス」にエッセイ「自転車日記」を発表したが、「面白いものではなかった」と評している。文豪神話に惑わされなければ当然の評価だろう。虚子は単純に文章を書くことが、多少でも漱石の神経症の気晴らしになればいいと考えたのである。

 

 虚子は漱石は書けていないのではないかと危ぶみながら、約束の日に家を訪ねた。ところが漱石は「数十枚の原稿用紙に書かれた相当に長い物」を用意して、上機嫌で待っていた。『吾輩は猫である』の第一回目の原稿である。それは子規派から最大かつ最上の小説家が誕生した瞬間だった。

 

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 子規の写生理論は極限まで自我意識を縮退させて、複雑なら複雑なまま、単純なら単純なまま世界を切り取るように表現する方法だった。漱石はこの方法を援用して『猫』を書いた。猫は人間世界の埒外にまでその存在格が縮退した観察者である。また漱石が虚子の朗読を聞きながら「しばしば噴き出して笑つた」のは、漱石の自我意識と作品の間に隔たりがあったことを示している。

 

 『猫』は逆転的な発想から偶然に生み出された作品である。漱石は英文学研究や近親者との関係で神経衰弱に陥るほどの悩みを抱えていた。が、このような苦悩は視点を変えてみれば実に滑稽なのである。漱石は苦悩の極みでフッと自我意識を相対化して捉え、『猫』でそれを戯画化して描いた。その意味で『猫』はたまさか生まれた作品である。しかし漱石は『猫』を書いた後で写生文小説の可能性に気付いた。

 

 『猫』は明治三十八年(一九〇五年)一月に「ホトトギス」に発表された。商業文芸誌がなかった当時、帝大講師が書いたユーモア小説は大変な評判を呼んだ。漱石は当初は一回きりの読み切り小説のつもりだったが、翌三十九(〇六年)八月まで全十一回を書き継いだ。また『猫』連載の傍ら、怒濤のように小説を量産し始めた。

 

 東京朝日新聞に入社して職業作家になるまでの約二年間に、『倫敦(ロンドン)塔』(三十八[一九〇五年]年一月)、『カーライル博物館』(同年一月)、『幻影(まぼろし)(たて)』(四月)、『琴のそら音』(五月)、『一夜』(九月)、『薤露行(かいろこう)』(十一月)、『趣味の遺伝』(三十九[〇六年]年一月)、『坊っちやん』(同年四月)、『草枕』(九月)、『二百十日』(十月)、『野分』(四十[〇七年]年一月)の十二作の小説を書いている。その多くが「ホトトギス」に発表された。また手法はほぼすべて写生文だと言ってよい。

 

 明治三十九年(一九〇六年)春頃には、学者としてはもちろん、小説家としても頭角を現し始めた漱石の噂を聞きつけて、かつての養父塩原昌之助が養子に戻らないかと申し入れてきた。現実味のない話で、目的は金銭援助を得ることだった。漱石は「権利問題なれば一厘も出す気にならぬ」(『明治四十二年[一九〇九年]日記』)と書いた。漱石は権利関係にうるさい人だった。

 

 近親者との関係が冷え込んでいたのとは対照的に、『猫』を発表して以降の漱石宅は、主に帝大の教え子たちで賑わった。滝田)樗陰(ちよい)、鈴木三重吉、森田草平(そうへい)、小宮豊隆、野上豊一郎・八重子夫妻、安倍能成(よししげ)、阿部次郎らが主な顔ぶれである。後に漱石門下生と呼ばれることになる人々である。松山や熊本時代からの門下生、松根東洋城(とうようじよう)や寺田寅彦、子規門の高濱虚子、坂本四方太(しほうた)らも漱石宅を訪れた。漱石は余りの来客の多さに辟易し、明治三十九年(一九〇六年)十月からは面会日を木曜日のみと定めた。漱石門の木曜会の始まりである。

 

 彼らが漱石の自宅にまで押しかけたのは、漱石の学識と小説家としての力量を慕ったからである。しかし結果的にはそれだけだったとは言えない。若い彼らにとって、漱石は既に成功を手中に収めた小説家であり、帝大で教鞭を取る社会的名士に見えた。彼らは次々に作品を漱石の元に持ち込み、助言はもちろん、漱石が作品発表の場を紹介してくれることを暗に期待した。また彼らの行動は、一つ間違えば近親者の甘えた金銭援助の申し込みのように漱石を激怒させかねないものだったが、漱石はむしろ嬉々として応えた。その理由は彼らがあまりにも純な文学青年だったからだろう。

 

 公私に渡って最も漱石の庇護と援助を受けた森田草平(そうへい)は、「先生が始めて創作に筆を執られてから修善寺の大患までというもの、最も露骨に()うことを許されるならば、先生は奥さんの先生でもなければ、天下の漱石でもなかった。単に弟子どもの漱石であった。弟子どもの所有であった」(『夏目漱石』)と書いている。鈴木三重吉も「夏目先生よりは相変らず父のようにして(もら)ふ」と書いた。漱石門下の学生たちは漱石に全幅の信頼を寄せ、父親に甘えるように漱石の前で虚勢を張り、議論を吹っかけ、金を借り、漱石に叱られることをも一つの文学的修養と考えていた節がある。

 

 漱石の中には人と人との無償かつ無媒介的な結びつきを求める心性があった。漱石は弟子たちとの関係にこの心性が現実化される可能性を感じ取ったのだろう。この意味で漱石研究者の荒正人が、漱石門には同性愛の雰囲気があると言ったのは正しい。ギリシャ的友愛の雰囲気と言ってもよい。

鶴山裕司

 

 

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* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

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