%e3%81%8a%e8%8f%93%e5%ad%90%e3%81%aa%e6%ae%ba%e6%84%8f_05_cover_01パティシエを目指していた彩子は、ある罪を犯した怖れから逃げ隠れして暮らしている。行き着いた先は、人気が陰りをみせた歌手・カオルの付き人の仕事。だが不運はつきまとい、ついに運命の大事件へと…。詩人・小原眞紀子の原案が甘やかな哀愁とともに語られる、待望の金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第3弾!

原作・小原眞紀子 作・露津まりい

 

 

 

 

 

3 溶かしバターの中で砂糖とショコラは背反する(前半)

 

 

 自宅マンションの玄関に荷物を運び込んでいる間、カオルはストリップティーズのようにショール、チュールの上着、金のパンツと廊下に衣装を脱ぎ、踊りながらリビングに入っていった。細い手足に比べて太い胴回りが露わになり、最後はブラとパンティだけで「アイスコーヒーちょうだーい」と、家政婦に声をかけた。

 インド綿の部屋着に着替えたカオルは、彩子を手招きした。

 「今夜さ、中野のアパートに泊まってくれない。八時に人が来るんだ」

 彩子は壁の時計を見上げた。家政婦は、夕方には帰ってしまう。

 「いいのよ、お茶なんか出さなくて」

 「あのう、お客様って」

 そう訊いた彩子をカオルは鬱陶しそうに睨みつけ、ガム抜きアイスコーヒーを飲み干した。

 その後、二階から下のリビングに大きな姿見を持ってくるように言われ、運び終えると、彩子は追い払われるようにマンションを出た。

 帰宅ラッシュの名残りで、中央線はまだ混み合っていた。

 カオル宅に移る前、彩子がほんの数週間住んでいた中野のアパートは現在、カオルに転貸した形になっている。カオル宅二階にあった荷物を運び込み、残っている彩子の私物で埋まった物置代わりだった。

 部屋は板張りの廊下の一番奥で、板一枚の扉に防犯ベルも付けられない畳六畳だ。ここで夜を過ごすのは気が進まないが、ゆっくり眠れるのだけはよかった。商店街で買ってきた弁当で夕飯を済ませると、早々に灯りを消し、毛布にくるまった。

 

 突然、携帯が鳴った。

 「ねえ、お金下ろしてほしいんだけど」

 聞こえたのはカオルの声だった。電気スタンドだけの闇に目を凝らすと、蛍光塗料の針が十一時前を指している。

 「ちょっと、聞いてるのっ」

 「お金って、何のですか」

 「急に必要になったのよ。今すぐ来て」

 「この時間なら、コンビニの支払機で」

 彩子はようやく立ち、蛍光灯の紐を引っ張った。

 「馬鹿ね、コンビニなんか。二四時間下ろせる銀行だってば。あたし行ったら目立つでしょ」

 溜め息をつきそうになり、慌てて、「すぐ行きます」と答えた。

 自宅の玄関に出てきたカオルは、預金通帳と払い戻し用紙を突き出した。

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 「前の通りを行ったとこよ。これで頼むわね」

 「あの、キャッシュカードは」

 カオルは首を傾げ、「そんなもの、捨てたわよ」

 「窓口は開いてないと思うんですけど」と、彩子は呟く。

 「だって書いてあるじゃない。二四時間って」

 通帳の表紙を指差し、カオルは激昂しはじめた。「なんだっていいわよ、あたしはお金がいるの」と叫ぶ。

 「どうして、そんなに急に」と、玄関を覗こうとした彩子の前を塞ぎ、「あんた、勝手にどうにかしなさいよ。そのために来たんでしょ」

 それだけ言うと、鼻先でドアは閉まった。

 銀行と同じ通りにあるコンビニで、彩子は自分のカードから九万六千円を下ろした。普通口座は空っぽで、明日あたり携帯料金の引き落としがあるはずだが、財布にも小銭しかない。

 「ありがと」と、カオルはにこにこして玄関先で金を受け取った。

 「十万ほしかったんだけど。まあいいわ、じゃあね」

 彩子は急いでドアに手をかけた。

 「あの、アパートに、また戻るんですか」

 「そうよ。今夜はだめって言ったでしょ」

 「でも、もう終電がないんですけど」

 「だったら車、乗って帰っていいわよ。明朝、返してくれれば」

 住宅街の夜道から駐車場に入り、マークⅡのエンジンをかけた。と、ほとんどガソリンがないことに気づいた。しばらく考えた後、諦めて後部座席に移った。横になると狭苦しいものの、眠りに落ちるのに時間はかからなかった。

 

 翌朝、シートの焼けるような熱さに目を覚ました。

 まだ七時だった。駐車場にはスレート葺きの庇がついていたが、十月の陽射しはリアガラス越しに直接射し込んでくる。車を降りると、雲ひとつない秋晴れだった。

 古錆びたベンチでひたすら時間を潰し、カオルが目覚める昼近くなって、やっと携帯を取り出した。

 「おはようございます。車、お戻ししました」

 家政婦に起こされたカオルの、ああ、とも、ふわあ、ともつかない声がする。

 「午後から赤坂のRCAレコードで印税関係の契約書をもらってきます。あのう、実は手持ちがなくなってしまって」

 「なに、あんた、」突っ慳貪な声が響いた。

 「朝っぱらから、あたしに借金しようっての」

 どこか酔っぱらいのように呂律が回っていない。

 「いえ、ただ印紙を買うお金もないし、昨日お渡しした分から一、二万円を」

 「馬ッ鹿じゃないの」と、カオルは怒鳴った。「そんなもん、あるわけないでしょ。使うから下ろしたんだよ」

 電話はぷつりと切れた。

 並木橋を経て渋谷まで歩けば、千駄ヶ谷までの電車賃は間に合う。情けなかったが、仕方がなかった。

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 あと二ヶ月半だ、と彩子はベンチから立ち上がった。

 神戸か、あるいは首都圏のどこかで仕事と住まいが見つかれば。

 事務所には幸い、もう三輪田が来ていた。

 「なに、生活費をカオルに巻き上げられたって」

 三輪田は爆笑し、「うまく催促しないと返ってこないよ」と、脅かした。「カオルさんはね、へそ曲げると健忘症になるんだから」

 「キャッシュカードは捨てた、って言うんですけど」

 「一回なくして騒ぎになったからね。それ以来、急な入り用のときは払い戻し用紙を持って、誰かが銀行に走るってわけさ。まあ、数年来なかったことだが」

 と、三輪田は電卓を叩いて首を傾げた。

 「外出したんじゃないんだろ」

 「はい。車に乗って帰れ、って言われたぐらいですから」

 「じゃ、なんで十万なんて要る。財布もろくに持ち歩かないぐらいなのに」

 「どなたか、みえたみたいです」

 「どなたかって、誰だよ。男じゃないだろうな」

 「さあ。姿見を運ばされたから衣装屋さんかも」

 「しっかりしてくれよお、彩子ちゃん」

 三輪田は渋い顔で、前借り分を含めた札を数枚、突き出した。

 事務所の扉を開け、出ようとしたとき、「ちょっと」と、三輪田が手招きし、受話器を差し出した。

 「クライアント様だ。君がいるなら話したいそうだ」

 

 レコード会社をまわり、タカノヤに着いたのは六時近かった。

 広報課長の真壁は腕時計を見て、「ビールでもいかがです」と言う。

 会社の向いにある欧風インテリアの店は静かでこじんまりしていた。席は半分ほど埋まっている。

 腰掛けた真壁は早速、「お尋ねしたいことがあるのですが」と、切り出した。

 切れ長の目は相変わらず鋭い。彩子はその視線を避け、ネクタイの結び目辺りを眺めていた。

 「カオルさんの日記は、ご本人が」と、真壁は訊いた。

 「実は、カオルさんから何度かお電話をいただいたんです。お話してみて、どうもネットや資料での雰囲気と違うな、と」

 「電話。そちらのご自宅へ、ですか」

 携帯を持たないカオルのプライベートな電話は、おそらく深夜以外に考えられない。「もしかして、ご迷惑をかけたのでは」

 真壁は曖昧に首を振り、紙の束をめくった。

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 どうやら、ネットの日記を打ち出したもののようだった。

 「最初の方は読点がバラバラに打ってあるが、最近のものは規則正しい。それと、レコーディングが四回、花束三個、四番目の化粧台、アンコールが三度と、四と三が交互に出てくる」

 広報課長は顔を上げ、彩子を見た。

 「書いた人の癖です。数字ってのは意外とでたらめが利かない。会計調査では目をつけられる」

 「わたしが書いてます」と、白状するしかなかった。

 「やはり、そうでしたか」

 が、真壁の厳しい目は和らいでいた。してやったり、とむしろ子供のように喜ぶ気配すらあった。

 が、我に返ったように「そう、しかし新ブランドの冷凍食品のターゲットは自由で独立独歩、存在感のある三○代から四○代の仕事を持つ既婚または独身の女性です」と、真顔になる。

 「オフィシャルに、そんなイメージが保たれれば問題ないのですが」

 実際のカオルにどんな印象を持ったか、と彩子は尋ねる気にもなれなかった。

 「ちゃんと責任持って管理しますから。ご心配おかけして」

 そう応えた彩子への課長の眼差しは、すでに同情に近いものに変わっていた。

 突然、彩子は汗じみて皺だらけのブラウスが恥ずかしくなった。これも車の後部座席で寝るはめになったせいだった。

 「ご苦労が多いでしょうね」真壁は頷いていた。

 「ああいう人を、スケジュール通りに動かすのは」

 「占いを」と、思わず彩子は口に出していた。「お告げとして納得させています」

 「占い」意表を突かれたように、課長は訊き返した。

 「インチキですけど」

 なぜ、何もかも話してしまいたくなるのだろう。

 このクライアントとの契約のことなど、もう彩子にはどうでもよかった。

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 「それももう、難しくなっています。この企画を最後に辞職させてもらうつもりです」

 「すると、今後は」

 「お菓子作りを。以前、専門の学校に通っていたんです」

 「女の子は砂糖とスパイス。それに素敵なものでできている、か」

 広報課長は「マザーグースですよ」と、微笑んだ。

 「パティシエか。似合いそうだな」

 彩子はまた急に、身の置き所がない感じに襲われた。

 以前、製菓学校で思い知らされたのは技術の未熟に加え、人を惹きつけるオリジナリティも自分には縁遠いのでは、ということだった。

 「応援しますよ。諦めずに頑張って」

 腕時計を眺めて、真壁は立ち上がった。

 聞きようによってはおざなりな慰めの言葉の、その響きは死んだ父親の口調にどこか似ていた。

 ネクタイは最初に会ったときと同じ、錆色の蹄鉄模様だった。こんなに品のいい代物ではなかったものの、蹄鉄模様のネクタイは確か父も持っていた、と思い出した。

 

 玄関を開けると、廊下には灯りがつけっぱなしになっていた。

 あまりに静かで誰もいないのかと、訝りながらリビングに入った。

 カオルはインド綿の部屋着姿でソファに寝転び、背の高いスタンドを寄せて本を読んでいた。

 「遅くなりました。RCAで用を済ませた後、クライアントと打ち合わせを」

 カオルは音を立てて文庫本を閉じると、ソファに起き上がった。

 「夕飯、食べちゃったよ。電子レンジにポタージュが入ってる」

 腹を満たすからと、家政婦が毎晩作るスープをカオルは好きではない。スープだけ二人分、残してあるに違いなかった。

 「いえ、食事は結構です」

 彩子はバッグから書類を出して渡した。

 カオルは顔を埋めるように継続契約書を眺め、「ご苦労さん」と頷いた。

 「失礼します」

 彩子は廊下を戻り、階段を昇っていった。

 居室に入った瞬間、床に落ちた風呂敷が目に入った。嫌な予感が襲うより早く、上を見た。

 鳥籠がない。

 彩子は階段を駆け下り、リビングへ向かった。カオルはさっきと同じ姿勢で文庫本を読んでいる。

(第05回 第3章前半 了)

 

 

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* 『お菓子な殺意』は毎月02日に更新されます。

 

 

 

 

■ 小原眞紀子さんの本 ■

メアリアンとマックイン 水の領分

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■