%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%bc%e3%83%88%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%bc%e3%83%88_no-025_cover_01「詩人と呼ばれる人たちに憧れている。こんなに憧れているにもかかわらず、僕は生まれてこのかた「詩人」にお会いできた試しがない。・・・いつか誰かが、詩人たちの胸ビレ的何かを見つけてくれるその日まで、僕は書き続けることにする」
辻原登奨励小説賞受賞の若き新鋭作家による、鮮烈なショートショート小説連作!。

by 小松剛生

 

 

 

ベランダに住む正義

 

 

 

 洗濯が好きだった。

 青を基調としたお気に入りのバスタオルや、伯父さんからもらった赤のポロシャツなどをカゴいっぱいに抱えて物干し竿のあるベランダへ出るときなどは、他に例えようのない高揚感が彼を包んだ。

 なんという言葉が適しているかはわからないが、洗濯物を干す行為は彼にとって自分が正義を為しているような気さえした。

 

 

 土曜日の昼過ぎ。

 他の時間帯よりもゆっくりと時間が流れているように感じられる。

 そういえばどこかの哲学者が時間を意識することこそ人間特有のアイデンティティーなのだと言っていた。時間とは人が生み出したものであり、厳密にいえばそれまでは時の流れなどなかったらしい。

 ただただ事象の連続が、それはビックバンに始まり、大陸の分裂や生物の進化なども含まれている。

 「ひとが生まれたのは、類人猿からだんだんとではありません。ある日とつぜん、それはひとになったのです。時間をそれが意識したとき、それはひととして過ごすことになったのです」

 昔、彼がまだ大学生だった頃にある教授が言った言葉を、彼は未だに覚えていた。他はろくに覚えていないくせに、なぜかそれだけは記憶にあった。

 ――時間を忘れて何かに夢中になっているとき、ひとはどうなるんだ?

 そうなるとすると今の彼は、洗濯物を干す獣か何かだろうか。

 ――そんな獣、いたかな?

 首を傾げた。アパートから見下ろす階下の通りは閑散としていた。脇にはツツジが生えていた。

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 洗濯機の作用でついた洗い(じわ)を丁寧に伸ばす。

 正義。

 額の皺も消えてくれればいいのに、と思ったがそんなわけにもいかないらしい。

 彼は自分の皺を伸ばすようにしてナイロン製パーカーの皺を伸ばす。

 うーん、正義。

 ――なんて間抜けな正義感なのだろう?

 というより、なぜ洗濯くらいにしか自分を見出せないのか、その事実に今さらながら彼は呆れ返った。妻は日曜日の料理教室に使う材料の買出しにでかけている。まだ2人の間に子どもはできていない。

 他人から見れば彼の姿は幸福に映るのかもしれない。

 休日にひとり、妻の留守中に洗濯物を干している夫の姿というものはそんなものかもしれないな、と思うことも確かにある。

 現に彼自身がそんな男をベランダで見かけたら「幸せな家庭」を想像してしまうかもしれない。

 残念ながら彼にとって今が幸福だとは思えない。

 

 

 それ以外の時間、彼には安らぎがなかった。

 仕事の時間は憂鬱がため息を吐き出させて背中を丸くさせた。

 愛想笑いは数をこなしすぎたせいでもはや喉から空気しか出なくなっていた。

 家に帰れば人生の伴侶ともいうべき存在が、妻のことであるが、彼女との会話はもう学生の頃に出し尽くされてしまったようでどの話題も新鮮味に欠けていた。

 ネクタイを緩める彼を眺めながら彼女が浮かべる曖昧な笑みは、2人の間に流れすぎた時間を物語っていた。

 ――何がいけなかったのだろう。

 もしくは、今何がいけなくてこんなになってしまっているのだろう、と彼は考える。常に何かが欠けているような気がして仕方がなかった。

 カゴの中から最後の洗濯物を取り出した。

 それはどこで手に入れたのか忘れてしまった1枚のタオルだった。

 隅にバラの刺繍がほどこされており、使いすぎて白地の布は若干ではあるが黄味を帯びていた。もういくら洗ってもとれないのだが、なぜか2人とも捨てる気にはなれなかったのだ。

 「ああ」

 手元が滑った。

 ハンガーに掛けて吊るそうとした瞬間、それはひらりと階下に舞い落ちていった。慌ててそれをつかもうと腕を伸ばすが、右手は虚しくも宙を掴むばかりだった。

 「ああ」

 もう一度、今度はわざと呟いた。

 さっきのは思わず出た声だったが、なんとなく恥ずかしくなったので言い直したのだ。彼は柵に身を乗り出して、落下する1枚の布切れを見た。

 

 

 「奥さん、あなたの家のベランダにね」

 「どうしたの?」

 彼の妻は買い物袋を下げながら、隣人のナカタさんに近寄った。

 「熊みたいな、何か毛むくじゃらの不気味な生き物がいるんだけど」

 怯えた声を出す隣人に向けて彼女はめんどくさそうに告げた。

 「ああ、気にしないで。うちの夫だから」

 ――洗濯物を干しているときだけは、自分から逃げたいんでしょうね。

 何かが落ちる音がした。

 ひとよりも、もっと重い何かが落ちる音がした。

おわり

 

 

 

ミントの話

 

 

 

 世界に果てなど、あるものか。

 そのセリフが僕は好きだった。

 昔読んだ小説か何かに出てきたのかもしれない、どこからそのセリフが出てきたのかなんてもう覚えてないけど、投げやりなようでいてどこか地に足のついた感覚のある、その言葉が僕は好きだった。

 

 

 「世界で一番「世界の果て」が多いのはアムステルダムなんだ」

 あそこはよく雨が降る。

 雨が多いことも、世界の果てには必要な条件なんだ。

 「そうなんですか」

 とりあえず、僕は男の話に相槌を打った。

 そもそも世界の果て、なんてそんなにたくさんあるものなのだろうか。

 「果て」というからには、ひとつしかないといけないのではないだろうか。

 そんな僕の疑問をよそに、男は自分の住む町に「世界の果て」を増やしたいという話を続け、僕はそれに耳を傾けた。酔っぱらうこともできないサラリーマンが聞くにはちょっとばかしロマンのある話のように思えたからだ。

 「なぜ」

 今度は僕が口を開いてみた。

 「そんなに「世界の果て」が必要なんでしょうか」

 「ドクター、と呼ばれている奴がいる」

 男はちっとも僕の質問に答えてくれない。

 酔っているせいだろうか。

 でも男が飲んでいるのはホットミルクだ。

 酔っているのだろうか。

 ホットミルクで。

 「ドクターの肩書きは概念海洋学者といってね。概念ザメに関する研究の第一人者なんだ」

 「それと「世界の果て」と何の関係が」

 まぁ聞け、とばかりに男はクジラの模様が刻まれたカップに一口つけた。僕らのいるお店は紡績工場一部の跡地らしく、糸を紡ぐための前時代的な回し車までがディスプレイ代わりに戸棚に置かれていた。

 「概念ザメの中でも特に気性の荒いルドヴィシアンというサメは肉食魚で、人の記憶や内在的自己意識を食って生きている。群れを作らず、一個の獲物に狙いを定めたら執念深く追い詰める」

 「まさか、そんなことが実際に起きるはずが」

 男は1枚の新聞記事の、おそらくコピーだろう、それをカウンターの上に置いた。そこには2010年、重い精神病を患った男が、なぜかカンザスシティの地中深くで遺体となって見つかったという事件について書かれていた。

 「調べによると、男は最愛の奥さんを亡くしたことがきっかけで、精神がひどく弱っていたらしい。遁走(とんそう)、という症状に陥っていたそうだ」

 「とんそう」

 「そう、遁走だ。もうこのどうしようもない世の中の悲しみから逃げ出したくて、何の準備もせずにふらふらといなくなることを言う」

 「でも、なぜそれで地中深い場所なんかで」

 そこだ、と男は指を弾いてみせた。音は鳴らなかった。

 「精神が弱っていたところを、男はルドヴィシアンに狙われていたらしい。その記事の続きを読んでみろ。ドクターが遁走について答えている、ついでにルドヴィシアンにもな」

 「ほんとだ」

 ドクターはどうやらそれまで死んだ男の容態を観察していた、つまり直近で彼と関わっていた人物だったらしく、一時は容疑者として尋問も受けていた様子がそこには書かれていた。

 「悲しかったろうな、どうやら死んだ男は妻との新婚旅行でギリシャに行っていたらしい。日記も見つかったそうだ。そこには観光客にはガムシロップとミルク入りのフラッペを出すくせに、地元の客にはそのままでフラッペを提供していることに文句を書いていたりする。なんてことのない、だからこそ幸せそうな日記だよ」

 僕は考えた。

 概念サメについて。

 地中深くで発見された男について。

 ギリシャのフラッペの冷たさについて。

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 そしてふと漏れた。

 「男は、どこに行きたかったんでしょうね」

 「たぶん、「世界の果て」なんじゃないかな」

 初めて隣にいる男と意見が合ったような気がした。

 「世界の果てに行ってさえしまえば、もう悲しむ必要なんてない、そんな想いでもあったんじゃないかな。男の自宅からカンザスシティの方角を調べてみると、その先にはアムステルダムがあったよ」

 悲しみ。

 世界の果て。

 それこそ悲しみに溢れた話のような気がした。

 「マスター、お勘定」

 男は財布から一枚の紙幣を取り出してカウンターバーの上に置いた。ミルクを数杯飲んだだけだから大した値段じゃないはすだ。

 ドクターに聞いたんだが、と男は言った。

 「世界の果てをつくるには、ミントが必要不可欠らしいんだ」

 「ミント?」

 「俺の周りにいる奴が悲しみに暮れてどうしようもなくなったとき、アムステルダムにまで歩かせるのは可哀想だろ?」

 だから、ミントが必要なんだ。

 男は帰った。

 

 

 「世界に果てなど、あるものか」

 僕はつぶやいてみた。

 誰も聞いてはいなかった。

おわり

 

 

引用及び参考文献

『ロールシャッハの鮫』(スティーヴン・ホール、訳・池田真紀子 角川書店 2010年)

 

 

 

ロンドンは今日も満室です

 

 

 

 いつかロンドンまで足場をかけてみせる。

 足場(あしば)屋の(みね)さんは酒に酔うたびにそう豪語してみせた。

 「ロンドンって、あのロンドンですか」

 「他にどんなロンドンがあるんだ」

 ウーロンハイ片手に大振りのシュウマイを平らげる姿はロンドンの憂鬱そうな空とは似ても似つかない、まさにかけ離れた(・ ・ ・ ・ ・)イメージしかないが、でもだからこそ足場をかけたいのかもしれない。

 そして峯さんは決まって天平(てんぺい)に訊いてくるのだ。

 「お前の夢はなんだ、てんぺーちゃん」

 「僕ですか」

 えーと。

 夢。

 ゆめ。

 

 

 峯さんと初めて出会ったのは、天平が水戸市にあるJ銀行の工事に(たずさ)わっている時期だった。

 工事、と一口に言っても中野(なかの)天平の仕事はガラスに飛散防止や耐熱効果の備わったフィルムを貼ることなので、通常の建設現場のような場所に(おもむ)くことはほとんどない。

 その時も銀行(けん)資料館という、主体性をどこかに置き忘れたような建物の、南側に取り付けられているガラス全てにフィルムを貼ってほしいというのが依頼内容だった。

 ――暑さも一緒に置き忘れてくれればいいのに。

 8月の中旬に茨城まで出向くことになった天平は現場の熱気、というか気温そのものに思わず(うな)った。

 「よろすくお願いすます」

 銀行の警備員は、見た目は天平と同じくらい若かった。

 青い制服に身を包んだ彼はよっぽど暇なのか、しょっちゅうこちらの様子を覗きに来た。

 去り際に必ず。

 「何かありますたら言ってください」と、付け加えてくる。

 彼の素朴な訛りと玩具のような制帽が高い陽ざしを受けて、アスファルトにくっきりとした影をつくっていた。

 「またブルーのカッペ(いなかっぺ)が来たよ」

 彼が近づいてくるたびに親方が天平の耳元で(ささや)く。

 「聞こえますよ」

 ブルーのカッペが「調子はどうですが」と声をかけてくる。

 「元気ですなぁ、ブルーのカッペ」

 「聞こえますって」

 夏である。

 天平の(きも)だけは冷えた。

 

 

 工事もいよいよ終わりに近づいて、最後に屋上の天窓を残すのみとなった段階で問題が起きた。

 「あれじゃ怖くて登れないな」

 「そうですね」

 天窓は山型になっていて、フィルムを貼ろうと足をかけると後ろは建物の側面につながることになる。

 もしもずり落ちたらそのまま一階まで転げ落ちることになる。

 引っかかってくれるものは何もない。

 「落ちたらちょっと痛いかな」

 「痛いでは済まされません」

 「てんぺーちゃん、ちょっと登ってみようか」

 「嫌です」

 仕方なくその日は作業中止になり、天窓までの足場が設けられるのを待つことになった。

 現場監督は現場におらず、ビル管理責任者まではブルーの彼が連絡することになった。

 自分の役目ができたことが嬉しいのか、半ばはしゃぐように事の顛末(てんまつ)を電話口の相手に向けて話している。

 「まったくもう」

 親方は仕事が遅れることをボヤくついでにこっそりと天平に耳打ちする。

 「ぜんぶ、ブルーのカッペのせいだ」

 親方、聞こえますって。

 

 

 2011年の夏は例年にも増して暑かった。

 25歳になったばかりの天平は滝のような汗を流しながら、ガラスにフィルムを貼っていた。

 「足場屋?」

 「足場をつくること専門に請け負ってくれる業者のこと」

 親方が説明をしてくれている間に峯と名乗った足場屋がさっさと天窓の足元に踏み板を敷き、針金で固定してくれた。

 下から仰ぎ見るとそれらは宙に浮いているようでもあり、ちょっとした魔法を見せつけられた気分になった。

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 「じゃ、俺は次の現場がありますんで」

 標準語で監督に告げると、さっさとトラックに乗って来た道を走り去っていった。

 それが峯さん。

 なるほど。

 魔法使いであればロンドンまで足場をかけることもできるのかもしれない。

 「これでいけもすか」

 ブルーの彼も一緒になって魔法を見上げながら訊いてきた。

 やがてその足場の具合に親方は満足したらしく、工事で困ったことがあれば天平の現場には峯さんが登場することになった。

 ちなみにその水戸の現場は無事終わり、今でもあの警備員が純朴そうな瞳と退屈を持て余しながら、建物内をぶらついているはずである。

 帰りの車内で親方がバックミラーを覗いた。

 「さらばカッペ」

 何かの映画のタイトルみたいだった。

 さらば、カッペ。

 

 

              *

 

 

 「良い足場の条件ってのはな、一種の(はかな)さをもっているんだ」

 峯さんは言う。

 「どういうことですか」

 「それを使う作業員がそれを渡り終えたときには、もうその足場はなくなっている」

 それが良い足場の条件だな。

 「へぇ」

 「振り返ったときにはもうそれはないんだよ」

 「じゃもし峯さんがロンドンまで足場を張るとすれば」

 そりゃもちろん誰かが渡り終えれば消えてなくなるよ。

 「いったい誰が渡るんですか、そんな足場」

 「さぁね」

 

 

              *

 

 

 ある夜、天平はタカハシ君と一緒に満室ランプの点いたシティホテルから誰か出てこないかと見張っていた。特に意味なんてなかった。ただ無粋な自分たちの行為に酔っていただけなのかもしれない。

 建物のすぐそばに川が流れていて、そこを渡す橋の上からは玄関と裏口の両方を見渡せるのだ。

 二人は酔っていた。

 「誰も出てこないな」

 「そうだね」

 「表口はあそこだよな」

 タカハシ君は街道沿いの入り口を指差してみせた。

 「うん」

 「裏口はあっち」

 今度は別の場所を指差す。

 「ってことはどうしたってここから見えるはずだ」

 「うん」

 天平は夢について考えていた。夢とロンドンについて考えていた。

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 「でも」

 「なんだよ」とはタカハシ君。

 「なんだよ」

 天平は答えなかった。

 代わりに足元のカナブンを蹴飛ばした。

 それは蹴飛ばされてからはじめてその事実に気がついたとでもいうように慌てて羽を動かして、夜に消えていった。

 「あ」

 二人同時に声を上げた。

 ホテルの満室を示すランプが消えたのだ。

 夢について天平はやっぱりよくわからなかった。

 しかしロンドンならばわかる。

 「来るんじゃないか」

 タカハシ君が言った。

 窓の明かりが消えた。

 誰かを渡すためのロンドンへの足場のことを想った。

 なぜか、あの訛りの強い警備員の彼の姿が思い浮かんだ。

 さらば、カッペ。

おわり

(第25回 了)

 

 

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* 『僕が詩人になれない108の理由あるいは僕が東京ヤクルトスワローズファンになったわけ』は毎月24日に更新されます。

 

 

 

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■