第七回 新しい黒

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『マルタの鷹』(1941 アメリカ映画)ポスター

監督ジョン・ヒューストン

 

 

 黒い衣装というのは不思議なもので、似合わないひともあまりいないだろうに、シックな(個人的には、この形容詞は常に黒い色を伴って想起される)色として捉えられ、黒い衣装など誰でも着るだろうに、いざ全身を黒で統一すると着道楽のような印象を与えることも多い。伝統芸能の黒子を見ればわかるように、黒は不在の色でもあるが、それゆえだろうか、汎用性の高い色ともなる。

 

 火のつきはじめた流行を指してthe new black (新しい黒)と言うのはジャーナリズムの常套句である。例えばその年の流行色がピンクなら、pink is the new black となる。ことほどさように「黒」には破壊力があるわけだが、それなら映画ではどうかと言えば、まさしく「黒い映画」、すなわちフィルム・ノワールというジャンルが大きな存在感を放っている。

 

 フィルム・ノワールというフランス語の用語が定着したのは、その名付け親ニーノ・フランクがフランスの映画批評家であったからで、代表的な作品としてはジョン・ヒューストン監督「マルタの鷹」(1941、米)、フリッツ・ラング監督「飾窓の女」(1944、米)などもっぱらアメリカ映画が挙げられる。明確な定義があるわけではないが、犯罪が主題となっていること、勧善懲悪よりも人間の心の闇に注目する内容であること、そしていわゆるファム・ファタール型の女が登場すること、などが一般的な特徴であり、残酷な暴力描写をも厭わないハードボイルドな作風や、いたずらに希望を求めない虚無的なまなざしなども、共通項と言ってよい。そのような性質からしてスタジオが目玉として売り出す娯楽大作とはなり得ないことから、予算の限界もありモノクロ映画となることが多いが、それが結果として内容にふさわしい、黒の濃淡を強調した画面を生み、文字どおりの「黒い映画」を観客に届けることとなった。

 

 代表的な作品が撮られたのは第二次大戦の時期であり、そこに実社会の陰翳をみることも難しくはない。だがいざフィルム・ノワールの文法が確立されると、自由と豊かさを享受したはずの戦後においても、ノワール的な映画は作られ続けている。

 

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『殺人者たち』(1946 アメリカ映画)スチール

監督ロバート・シオドマク

 

 例えばロバート・シオドマク監督「殺人者」(1946、米)は、主演のバート・ランカスター、エヴァ・ガードナー双方にとっての出世作となった。 「おれは過去に一度だけ過ちを犯した」と言い残し、迫りくる殺し屋に抗うこともなく殺される主人公スウィード(ランカスター)。事件に興味を持った保険会社の社員ジムは、単独でスウィードの死の謎を解こうと奔走する。やがて捜査上にはかつて世間を騒がせた強盗事件が浮かび上がる……というのが筋書きだが、実は原作はアーネスト・ヘミングウェイが1927年に発表した短編小説「殺し屋」であり、映画版はこれを素材に、暗い画面、回想、犯罪、悪女といった要素をこれ見よがしに強調し、とにかくフィルム・ノワールらしさを徹底して再構成している。しつこいほどフラッシュバックを多用する本作は、はっきり言えば物語も必要以上に複雑で推敲の余地があるし、「すごい美人」というだけの理由で映画界入りしたエヴァの悪女っぷりも、演技経験の浅さもあっていまひとつである。とはいえヘミングウェイ本人は、自作の映画化のなかでこれを最も気に入っていたという。

 

 また翌年にはオーソン・ウェルズ監督の「上海から来た女」(米、1947)が封切られている。放浪の水夫マイケル(ウェルズ)は、上海から来たという美貌の婦人エルザ(当時ウェルズ夫人だったリタ・ヘイワース)に一目惚れする。彼女に誘われるまま、彼女の夫である有名弁護士バニスターのヨットで働くことになるマイケル。そこにバニスターの同僚ジョージが合流したとき、底なしの謎を秘めた殺人劇が幕を開ける……とこれまた「殺人者」に負けない、フィルム・ノワールのお手本のようなあらすじである。しかしそこは稀代の偏執狂的映画人ウェルズの作品だけあって、なかなか一筋縄では行かない。登場人物たちはいずれも冗談抜きで悪魔のような顔をしているのだが、そんな彼らがお互いに策略をめぐらし、欲望むきだしで殺しあうクライマックスなどは、フィルム・ノワールのひとつの到達点と言えるかもしれない。事実、その遊園地での狂乱のシーンはアメリカ映画史における古典であり、例えばリチャード・ケリー監督の「ドニー・ダーコ」(米、2001)や、ブラッド・アンダーソン監督の「マシニスト」(西・米、2004)などの作品でも、明らかに踏襲されているのである。またコメディ映画であるウディ・アレン監督の「マンハッタン殺人ミステリー」(米、1993)の幕切れでも、いかにもこの監督らしい器用さで同シーンへのオマージュが捧げられている(サンプリングとパロディを同時に行う、という力技である)。

 

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『上海から来た女』(1947 アメリカ映画)のスチール

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『マンハッタン殺人ミステリー』(1993 アメリカ映画)スチール

 

 一方、1960年代に入ると、日本でもフィルム・ノワールの文法を充分に消化した作品が、しかもシリーズものとして制作されている。それが「黒の試走車(テストカー)」「黒の報告書」「黒の切り札」「黒の超特急」など、いずれも「黒」の字を冠した十一本からなる大映の「黒シリーズ」である。増村保造や井上梅次を監督に迎え、映画館黄金期のこととて、1962年からわずか二年余りのあいだにすべての作品が封切られている。総題である「黒」が物語るとおり、このシリーズの通奏低音は社会の暗黒面であり、産業スパイ、検事、金のために家族を殺された男、金を手にして大実業家になることを志す青年などが、それぞれの信じる正義のために奔走する。しかしその正義は社会という枠組みの中でやがて歪められ、ついに存在意義を失うのである。つまり爽快な大団円などとは無縁な作品ばかりであり、そのような内容に加えて、黒を強調した画面、各作品に登場する悪女たちといった具合に、「殺人者」や「上海から来た女」にも引けを取らないフィルム・ノワールの香がぷんぷんする。キャストはしばしば重複しているが、底知れない意思を秘めた高松英郎、正義の裏に狂気を感じさせる田宮二郎、人間性のいやらしさを煮詰めたような上田吉二郎など、いずれも和製ノワールにぴったりの面々である。要するにこのシリーズは、「遅れて来たフィルム・ノワール」であることを紛れもなく意識したものであると言えよう。

 

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『黒の試走車(テストカー)』(1962 日本映画)スチール

監督 増村保造

 

 ところでこのシリーズが作られた1960年代前半は、おりしも高度経済成長期に当たっている。つまり日本が戦後の貧苦を乗り越え、急速に富を膨張させた時期であるが、それは同時に、巨大な利権に絡む複雑な利害関係と、その均衡を保つための非合法の手段とが半ば公然とまかりとおっていた時期でもある。そのような社会の歪みと、そこに迷い込んで喘ぐ人々を描くことは、そもそも本国のフィルム・ノワールにおいても眼目のひとつであった。つまりノワール映画には社会派という側面もたしかにあるということになるだろう。ただしそれは、社会に参画し、働きかけるという形ではなしに、いわば文学におけるマジック・リアリズムのように、個人の幻想的な領域に、暴力的に侵入してくる社会の歪みという形で描かれるのである。

 

 その意味で先にも挙げた「ドニー・ダーコ」は、表面的には怪奇幻想の物語ではあるが、本質のところでフィルム・ノワールの精神を色濃く受けついでいると言えるかもしれない。物語の世界はアメリカの原風景とも言えるフォルクロア的な世界と密接に結びついている。そこにはスティーヴン・キングの小説にも見られるような様々な化物じみた住人たち、例えばインディアンや魔女、殺人者などの影がちらつく。彼らはヨーロッパでは田舎の古城や森のなかに暮しているが、アメリカではごくふつうの住宅の寝室や、裏庭に息をひそめているのである。またヨーロッパの怪奇が土着の信仰や生活習慣によって裏づけられるのに対して、アメリカのそれは現実社会や科学の領域にまで図々しく足を踏み入れる。それがブーギーマンとでも呼ぶべきアメリカ的魔物の恐ろしいところであろう。さて主人公のドニー・ダーコも、ふとしたはずみにそのような世界に巻き込まれ、現実世界との連絡を失ってゆく。それは一見、彼が社会に取り残され、他者と関わりを持つことができずにいる、典型的な現代のアメリカ人であることを示しているようにも思われる。しかし実際のところ、彼はそのように豊かでありながらも寂しいアメリカを、よろこび勇んで脱出したのかもしれない。

 

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『ドニー・ダーコ』(2001 アメリカ映画)スチール

監督リチャード・ケリー

 

 映画のタイトルに直接に現れる色として、「黒」はもっとも普遍的であろう。邦画だけをみても「黒い十人の女」、「黒い家」、「日本の黒い夏 冤罪」と、いずれも犯罪や社会との軋轢といった主題を扱う作品が並ぶ。それはまた同時に、私たちが悪に、あるいはもっと広範な言い方をすれば逸脱というものに、少なからず惹かれる生きものであることを証拠立ててもいるだろう。悪に魅了されることは、およそ人類に共通の文化的遺伝子、すなわちミームに書き込まれた私たちの宿命なのであり、だからこそ「新しい黒」というような言い回しも、いつまでも新鮮さを失わないのである。

大野ロベルト

 

 

 

 

 

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