ns_06_cover_01金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

第Ⅱ章 漱石小伝

―― 『漱石とその時代』を未完のまま自死した江藤淳に

 

■ 英国留学 ―― 孤独な英文学研究 ■

 

 帝国大学卒業後、漱石は愛媛県尋常中学校から熊本第五高等学校に英語教師として赴任した。松山から熊本時代の漱石の生活はそれなりに多忙であり多事だった。父直克(なおかつ)の死去(明治三十年[一八九七年]六月、享年八十一歳)、妻鏡子の流産(三十年七月頃)と強度のヒステリー悪化による投身自殺未遂事件(三十一年[九八年]六月頃)、長女(ふで)の誕生(三十二年[九九年]五月)、後に小説『草枕』の題材となった小天(おあま)温泉や『二百十日』の素材になった阿蘇温泉への小旅行や、初めての門下生・寺田寅彦との出会いなど、後から振り返れば漱石文学に活かされることになる出来事も多い。しかしこの間に発表した文学作品はわずかな俳句にほぼ限られる。漱石は社会的には英語教師であり、英文学を専門とする学者の一人だった。

 

 漱石は明治三十三年(一九〇〇年)六月に、「英語研究ノ為メ満二年間英国ヘ留学ヲ命ズ」という文部省の辞令を受けた。文部省第一回給費留学生に選ばれたのである。しかし一度は留学の令を断った。『文学論』(四十年[〇七年])「序」に「余は特に洋行の希望を抱かず、()つ他に余よりも適当なる人あるべきを信じたれば、一応其旨(そのむね)を時の校長及び教頭に申し出でたり」とある。だが当時の文部省の辞令は絶対だった。漱石は結局は三十三年九月八日に、ドイツ船プロイセン号に乗船してヨーロッパへと旅立った。

 

 ヨーロッパへの留学は珍しくなくなっていたが、政府給費による留学がエリートの証であることには変わりなかった。明治十、二十年代には政治、経済、法律、医学など、すぐに国家の役に立つ分野に留学生を送り込んでいた明治政府は、ようやく三十年代になって、いわゆる「閑文字の徒」である文学研究者をも公費でヨーロッパへ留学させることができる余裕を持ったのである。森鷗外は明治十五年(一八八二年)に衛生学研究のためにドイツに留学したが、その際、明治天皇に拝謁して訓辞を受けている。しかし漱石は文部省の辞令一枚を持っての留学だった。

 

 漱石ら留学生はインド洋からスエズ運河経由でイタリアのジェノバに上陸し、陸路汽車でパリへ向かった。パリではエッフェル塔や、折しも開催中だった万国博覧会を見学し、漱石は他の留学生と別れて一人イギリスに渡った。ロンドンに着いたのは明治三十三年(一九〇〇年)十月二十八日のことである。

 

 漱石が一度は留学を断ったのは、もう長い間英文学を研究しているので、留学しても得るものはないだろうと考えたからである。しかし現実のヨーロッパは彼の予想を遙かに超えていた。到着早々「巴里(ぱり)天使(ルビ)ノ繁華(はんか)天使(ルビ)ト堕落ハ驚クベキモノナリ」(『明治三十三年[一九〇〇年]日記』十月二十三日)と書いた。ロンドンに着いてからは妻鏡子に「倫敦(ろんどん)繁昌(はんじょう)は目撃せねば(わか)兼候(かねそろ)」(三十三年十二月二十六日付)と手紙を送っている。現実に目にするヨーロッパはその圧倒的な物質的繁栄によって漱石を圧倒した。

 

 最初の給費留学生という事情もあったのだろうが、漱石の留学には文部省が用意した進路がまったくなかった。信じられないことだが、漱石はロンドンに一人ぼっちで放り出され、自力で勉強の方針を定めるよう求められた。

 

 漱石はまずプロイセン号に偶然乗り合わせた、熊本時代の旧知の宣教師夫人ノット氏に書いてもらった紹介状を携えてケンブリッジにアンドルース氏を訪ねた。当初ケンブリッジかエジンバラ大学(カレツジ)への留学を考えていたのである。しかし話を聞いてみると政府支給額では到底ケンブリッジに留学できないことがわかった。エジンバラも英語の発音が違うという理由などで諦め、漱石はロンドンで勉強することにした。二ヶ月ほどユニバーシティ・カレッジで英国中世文学の碩学ケア教授の授業を聴講したが、これにも飽き足らず、漱石はケア教授の紹介でクレイグ氏の個人授業を週一回受けながら独学で英文学を研究することにした。結果として漱石は、文部省が暗に期待したであろう、イギリス文学界での人脈を作る役割をほとんど果たさない最初の給費留学生となった。

 

 クレイグはシェークスピア学者で、漱石留学当時は現在でも優れた研究として知られるアーデン版シェークスピア全集の『リア王』の監修を行っていた。漱石は明治三十三年(一九〇〇年)十一月頃から翌三十四年(〇一年)八月頃までクレイグの元に通ったが、これも止めてしまい、以後三十五年(〇二年)十二月に帰国の途につくまで、ほとんど下宿に閉じ籠もって英文学研究を続けた。

 

 クレイグの個人教授を止めたのは、後に『文学論』などにまとめられることになる十年計画の英文学研究の著作を思い立ったからである。また大学で学ばなかったのは、既に三十代になっていた漱石が、学生向けの大学の授業の内容に不満を感じたことや、イギリス人と積極的に交流することを好まなかったことなど様々な理由があげられる。ただ独学で英文学を研究することを決めたことで、漱石はロンドンで激しく孤立することになった。

 

 もちろん漱石はずっと下宿に閉じ籠もっていたわけではない。ロンドン塔やカーライル博物館を見学した印象は、帰国後『倫敦(ロンドン)塔』や『カーライル博物館』にまとめられた。ナショナル・ギャラリーでロセッティやミレー、バーン=ジョーンズらのラファエル前派の絵を見たことは、『薤露行(かいろこう)』を始めとする初期小説に大きな影響を与えた。劇場でシェリダンの『悪口学校』やペローの『眠れる美女』などの芝居も見ている。明治三十四年(一九〇一年)二月二日には、下宿の主人の肩車でヴィクトリア女王の国葬を見物するという歴史的体験もした。しかしイギリス人の友達は一人もできなかった。日本人留学生との交流もあまりなかった。

 

 (前略)(ひるがえ)つて思ふに余は漢籍に(おい)左程(さほど)根底ある学力あるにあらず、(しか)も余は充分(これ)を味ひ得るものと自信す。余が英語に()ける知識は無論深しと()()からざるも、漢籍に於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好悪のかく(まで)()かる()は両者の性質のそれ程に異なるが()めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂(いわゆる)文学と英語に所謂文学とは到底(とうてい)同定義の(もと)に一括し()べからざる異種類のものたらざる可からず。

 大学を卒業して数年の後、遠き倫敦(ロンドン)孤燈(ことう)(もと)に、余が思想は始めて(この)局所に出会(しゆつかい)せり。人は余を(もく)して幼稚なりと云ふやも(はか)りがたし。(中略)()れど事実は事実なり。(中略)余はこ()(おい)て根本的に文学とは如何(いか)なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心したり。同時に余る一年を(あげ)て此問題の研究の第一期に利用せんとの念を生じたり。

 余は下宿に立て籠りたり。一切の文学書を行李(こうり)の底に収めたり。文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血を以て血を洗ふが(ごと)き手段たるを信じたればなり。余は心理的に文学は如何なる必要あつて、此世(このよ)に生れ、発達し、頽廃するかを(きわ)めんと(ちか)へり。余は社会的に文学は如何なる必要あつて、存在し、隆興し、衰滅するかを(きわ)めんと誓へり。

(『文学論』「序」明治四十年[一九〇七年])

 

 漱石が「根本的に文学とは如何(いか)なるものぞと云へる問題を解釈せんと決心」した時期は、明治三十四年(一九〇一年)八月から九月頃である。この頃について「初めは随分突飛(ずいぶんとつぴ)なことを考えて()たもので、英文学を研究して英文で大文学を書かうなど()考えて()た」(『談話(落第)』)と回想している。漱石は当初、イギリス人になりきって英語で文学作品を書く野望を抱いていた。英文学を根本的に理解すれば、それも可能なはずだと考えたのである。

 

 ただ漱石は現実のヨーロッパに圧倒されていた。「此煤煙中(このばいえんちゆう)ニ住ム人間(イギリス人)ガ何故美クシキヤ解シ難シ」(『明治三十四年[一九〇一年]日記』一月五日)と、人種的劣等感までをも抱くようになっている。しかし彼はヨーロッパ文化に飲み込まれなかった。「日本ハ三十年前ニ()メタリト()(しか)レドモ半鐘ノ声デ急ニ飛ビ起キタルナリ(中略)(ただ)西洋カラ吸収スルニ急ニシテ消化スルニ暇ナキナリ(中略)日本ハ真ニ目ガ(さめ)ネバダメダ」(同年三月十六日)とむしろ盲目的な欧化主義を批判している。漱石は日本人はいかにしてヨーロッパ文化を吸収・消化すれば良いのかという問題を繰り返し自問していた。

 

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 ほんのわずかな差なのだが、おおむね明治五年以降に生まれた文学者たちは、欧米文化をほぼ無条件に正しい規範として受け入れた。この欧米文化信仰は戦後まで続いたが、明治三十年代ですら(・ ・ ・)「漢学に所謂(いわゆる)文学と英語に所謂文学とは到底(とうてい)同定義の(もと)に一括し()べからざる異種類のものたらざる可からず」などと、物わかりの悪いことを言い出す文学者は稀だった。しかし漱石ら明治初年代の青年たちにとって、欧米文化はまず徹底した異和だった。漱石はイギリス留学によって彼の原体験的異和を強く再認識することになった。漱石は一人で日本文化を背負って立つような悲壮な覚悟で、東洋文学とは質的に異なるヨーロッパ文学の原理を解明しようとした。

 

 『文学論』の基幹になっているのは「F+f」公式である。「Fは焦点的印象(また)は観念」、「fはこれに附着する情緒」という定義である。はっきりとは書いていないが、「F」はFocus、「f」はfeelingの略だろう。「文学的内容たり()べきは(中略)(F+f)の形式を(そな)ふるもの」なのである。優れた文学には具体的焦点があり、そこから文学的情緒が生じるということだ。明治三十年代という時代を考慮すれば、漱石が一種の構造主義的視点から文学を論じようとした先見性は高く評価できる。それは言語(シーニュ)を「シニフィアン」(意味するもの)と「シニフィエ」(意味されるもの)の関係性総体として捉える、現代言語学に似た記号論的方法論でもあった。

 

 漱石が内容と形式といった既存の概念を採用せず、文学を「焦点的印象又は観念」(F)と「これに附着する情緒」(f)に分けたのは、当時最先端の心理学を援用したためである。ウィリアム・ジェイムズの「意識の流れ」である。ジェイムズは人間の意識は山あり谷ありの、イメージや観念の滔々たる流れだと考えた。漱石はこの「意識の流れ」理論を使って個々の文学作品から文学史までをも総体的に理解しようとした。

 

 ただ漱石の理論は不完全だった。文学や文学史を人間の意識の流れになぞらえるのは一つの卓見だったが、それを明確に頂点(焦点的印象又は観念=F)とそれに付随する情緒(f)に腑分けすることはできない。結果として「十年計画にて企てられたる大事業」だったはずの『文学論』は、本にはまとまったものの、明治四十年(一九〇七年)に東京朝日新聞に入社して職業作家となったことで未完成のまま放棄された。漱石は「私の(あら)はした文学論はその記念といふよりも(むし)ろ失敗の亡骸(なきがら)です。(しか)畸形児(きけいじ)の亡骸です。(あるい)は立派に建設されないうちに地震で倒された未完成の市街の廢墟(はいきよ)のやうなものです」(『私の個人主義』大正三年[一九一四年])と述べており、理論的に不十分だったと認めている。

 

 しかし少なくとも公刊した『文学論』の中で、漱石は「F+f」公式で自己の文学理論を押し通した。曖昧で矛盾点も多いが、「F」「f」要素を使って約一世紀に渡るヨーロッパ文学を力業で分析したのである。検討対象は小説だけでなく詩や評論、エッセイと広範囲に及んだため、読むだけでも膨大な時間を要する作業だった。ただこの研究により、漱石は肉体感覚としてヨーロッパ文学の本質をつかんだ。子規が室町時代から幕末までの俳句を分類するという、ほとんど無謀な『俳句分類』によって俳句の本質を把握したのと同じである。それまで一度も小説を書いたことがなかったのに、『吾輩は猫である』以降、様々なタイプの小説を量産できた基盤は『文学論』研究にある。

 

 ただ多くの時間を下宿の部屋に籠もり、完成の見通しの立たない英文学研究を続ける生活は漱石の精神状態を悪化させた。漱石は「近頃非常ニ不愉快ナリクダラヌ事ガ気ニカ()ル 神経病カト怪シマル」(『明治三十四年[一九〇一年]日記』七月一日)、「近頃は神経衰弱にて気分(すぐ)れず(はなは)だ困り居候(おりそろ)」(夏目鏡子宛書簡 三十五年[〇二年]九月十二日)と書いている。明治二十七、八年の神経衰弱が再発したのである。

 

 留学末期、漱石はリール老姉妹宅に下宿していたが、姉妹は漱石の鬱状態を心配して気晴らしに戸外で自転車に乗ることを勧めた。またある留学生(詩人の土井晩翠(ばんすい)だと言われるが彼は否定している)が漱石の異常に気付き、それを留学生仲間に伝えたことから、英文学者の岡倉由三郎(よしさぶろう)が文部省宛に「夏目狂セリ」という電報を打電するまでに至った。文部省からは岡倉宛に「夏目精神ニ異常アリ。藤代(禎輔(ていすけ))ヘ保護帰朝スベキ(むね)伝達スベシ」という返電があった。藤代は岡倉の命を受けて漱石の下宿に向かったが、さほど心配する状態にはないと判断して、漱石を自分といっしょに無理に帰国させようとはしなかった。

 

 藤代が先に帰国した後、漱石は一ヶ月ほどの間、書籍やノートの整理を行い、明治三十五年(一九〇二年)十二月五日、日本郵船の博多丸に乗って帰国の途についた。漱石は狂気にとらわれてはいなかったが、漱石の神経衰弱の症状が常にそうであるように、周囲の人々には彼の異様な振る舞いがまったく理解できなかったのである。

 

 帰国した漱石は熊本へは戻らず、東京の第一高等学校英語講師に就職した。同時に東京帝国大学文科大学講師にも任命され、英文学を講義することになった。漱石の英国留学には金がかかっており、これは文部省の意向としても当然のことだった。なお帝大の前任講師は『怪談』などで有名な小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)である。明治十、二十年代の帝大講師はいわゆる「お雇い外国人」だったが、三十年代には日本人の教育者を中心に据える教育改革が進んでいた。我が国自由詩の基礎を作った上田敏も、漱石と同時期に帝大講師に任命された。

 

 だが漱石は名誉ある帝大の職を喜ばなかった。「帰朝するや否や余は突然講師として東京大学にて英文学を講ずべき委嘱を受けたり。余は(もと)よりか()る目的を(もつ)て洋行せるにあらず、(また)()る目的を以て帰朝せるにあらず。大学にて英文学を担任教授する(ほど)の学力あるにあらざる以上、余の目的はかねての文学論を大成するに()りしを(もつ)て、教授の()めに自己の宿志を害せらる()を好まず」(『文学論』「序」)と書いている。漱石は留学中に始めた『文学論』の仕事を完成させることを望んでいた。

 

 雅号・漱石の頑固者、変わり者の面目躍如といったところだが、彼は社会に背を向けていたわけではない。漱石はまだはっきりと形を為していないが、恐らくこれが正しいと直観した文学のヴィジョンを持っていた。社会的栄達よりもそのヴィジョンの実現の方が切実な問題だった。驚くべきことに、と言っていいだろうが、漱石はこのヴィジョンの達成を、生涯に渡ってすべてに優先させた。

 

 漱石は後に『私の個人主義』で、『文学論』の仕事を通して「自己本位といふ言葉を自分の手に(にぎ)つてから大変強くなりました」と語っている。漱石の個人主義は身勝手ではない。自らのヴィジョンに確信が持てるなら、たとえ世間と対立することになっても、それを押し通すべきだということである。

鶴山裕司

 

 

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* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

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