ns_05_cover_01金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

第Ⅱ章 漱石小伝

―― 『漱石とその時代』を未完のまま自死した江藤淳に

 

■ 学生時代② ―― 正岡子規との出会い ■

 

 漱石と子規は明治十七年(一八八四年)九月に東京大学予備門に同時に入学したが、密に付き合うようになったのは二十二年(八九年)頃からである。初期の交流は漢詩文を中心とした作品の相互批評を通してのものだった。

 

 子規は明治二十一年(一八八八年)夏に隅田川畔向島の月香楼に籠もり、和漢詩文集『七艸集(しちそうしゆう)』を起稿した。翌二十二年(八九年)五月に脱稿すると、友人たちに回覧して批評を求めた。漱石も巻末に評を書き込んだ一人である。なお『七艸集』の評は「漱石」の雅号で書かれた最初の文章となった。『晉書(しんじよ)』「孫楚伝(そんそでん)」の「漱石枕流」から取った雅号である。孫楚は「石に(まくら)し流れに(くちそそ)ぐ」と言うべきところを「石に漱ぎ流れに枕す」と言い誤ったが、間違いを指摘されても「石に漱ぎ」は歯を磨くため、「流れに枕す」は耳を洗うためだと言い張って誤りを認めなかった。そのため「漱石」は頑固者、変わり者を意味する成語となった。

 

 弟子たちの回想などから漱石が狭量の人であった気配は全くないが、彼は自分は世間と歩調の合わない変わり者だと認識していた。なお幕末から明治初期にかけて、「漱石」はそれほど珍しい雅号ではなかった。子規も一時期「漱石」号を使用したが、子規から「漱石」を譲り受けたわけではない。過去の有名な文人と重ならなければ雅号は任意であり、複数の雅号を持っていても良かった。

 

 子規の『七艸集』は漱石に大きな刺激を与えた。漱石は明治二十二年(一八八九年)八月の房総半島旅行を題材にして、同九月に漢詩文集『木屑録(ぼくせつろく)』を書き上げて子規に送った。子規は直ちにその文才を認めた。巻末に「()以為(おも)えらく、西(ヨーロッパ文学)に長ぜる者は、(おおむ)ね東(東洋文学)に(たん)なれば、()(けい)(また)(まさ)に和漢の学を知らざるべし、と。(しか)るに今此(いまこの)の詩文を見るに及んでは、(すなわ)ち吾が兄の天稟(てんびん)の才を知れり」(原文漢文)という評を書き付け激賞した。子規は漱石の英語力の高さは認識していたが、漢詩文にも精通しているとは知らなかったのである。

 

 幕末から明治初期にかけての知識人家庭の子供たちにとって、漢詩文の素養は必須のものだった(明治七年生まれの高濱虚子らの世代になると、早くもこの知識は不要となる)。子規は漢詩文に自信があったが、二松学舎で体系的に漢学を学んだ漱石には及ぶべくもなかった。また漱石は漢詩という様式化された表現の中で自己を表現し得る優れた才能を持っていた。江戸後期の漢詩全盛期に生まれていたら、間違いなく幕末を代表する漢詩人の一人になっただろう。漱石は晩年に漢詩創作を再開するが、その初期にすでに高い詩人の資質を示す作品を残している。

 

 ただあらゆる若い文学者の交流がそうであるように、子規と漱石の交流も相互影響的なものだった。またその中で、この二人の優れた文学者の資質の違いが早い時期から露わになってゆく。

 

 子規は帝国大学時代の明治二十五年(一八九二年)頃から本格的に俳句創作を開始した。また明治二十年前後から『筆まかせ』を始めとする膨大な量の原稿を、発表のあてもないのに書き始めていた。このような子規の姿勢は漱石には異様に映った。若い子規と漱石の間で〝「思想(イデア)」と「修辞(レトリック)」論争〟が起こったのである。

 

小生(しようせい)(かんがえ)にては文壇(ぶんだん)(たつ)赤幟(せきしよく)万世(ばんせい)(ひるがえ)さんと(ほつ)せば(しゆ)として思想を涵養(かんよう)せざるべからず思想(うち)に熟し腹に満ちたる上は(ただち)に筆を(ふる)つて(その)思ふ(ところ)(じよ)沛然驟雨(はいぜんしゆうう)(ごと)勃然大河(ぼつぜんたいが)の海に(そそ)ぐの(いきおい)なかるべからず文字の美章句の法抔(ほうなど)は次の次の其次に考ふべき事にてIdea itself(思想そのもの)の価値を増減スル(ほど)の事は無之様(これなきよう)被存候(ぞんぜられそろ)(中略)()りとて御前(ごぜん)の如く朝から晩まで書き続けにては(この)のIdea(思想)を養ふ余地なからんかと掛念仕(けねんつかまつ)(なり)(中略)毎日毎晩書て書て書き続けたりとて子供の手習と同じことにて此 original idea(独自の思想)が草紙(そうし)(うち)から霊現する訳にもあるまじ(中略)(ふく)して願はくは(雑談(じようだん)にあらず)御前(すこ)しく手習をやめて余暇を(もつ)て読書に力を費し(たま)へよ御前は病人(なり)病人に責むるに病人の好まぬことを以てするは苛酷の(よう)なりといへども手習をして生きて()ても別段(かんば)しきことはなしknowledge(知識)を得て死ぬ方がましならずや

(子規宛書簡 明治二十二年[一八八九年]十二月三十一日)

 

 「knowledge(知識)を得て死ぬ方がましならずや」という言葉は、漱石文学の読者にはなじみ深いものだろう。実際漱石は「original idea(独自の思想)」をおぼろに把握できるようになる三十九歳までぐずぐずしていて、それ以降は「沛然驟雨(はいぜんしゆうう)(ごと)く」作品を書きまくった。しかし若い頃から子規が、「毎日毎晩書て書て書き続け」ていた理由は理解されにくい。

 

 俳句、短歌、新体詩(自由詩)、小説(写生文)のマルチジャンル作家であり、その才能を遺憾なく発揮することなく三十六歳で夭折してしまった子規を専門俳人と呼ぶのはためらわれる。ただ子規が、まず俳句研究によって、一点突破的にマルチジャンル的文学方法を模索したのは確かである。子規にとって文学の「思想(イデア)」をつかむことはそれほど切実な問題ではなかった。徹底した書くこと(エクリチユール)の先行によって、表現技術を含む文学作品の「修辞(レトリック)」の幅を拡げてゆくことの方が遥かに重要だったのである。

 

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 日本人は巧拙を問わなければ誰でも俳句を詠むことができる。簡単に俳句が詠める者が日本人だと言えるほどだ。それは俳句がヨーロッパ的な唯一無二の〝自我意識〟文学とは質の異なる文学であることを示している。端的に言えば俳句は五七五に季語の〝俳句定型〟が書かせる。俳句定型というフィルターを通せばたちどころに俳句ができあがってしまうのだ。

 

 たとえば子規は、短い人生の間に二万句以上の俳句を書き残した。原則を言えば俳句一句はそれ自体で独立した一個の文学作品である。しかし二万という作品数は、オリジナリティを重視する自我意識文学ではあり得ない。多作が可能になるのは俳句が俳句定型、つまり「修辞(レトリック)」の徹底した先行によって生み出されるからである。修辞(レトリック)を自在に操れなければ俳句は多作できない。子規はこの日本文学独自ではあるが、維新後の自我意識文学とは鋭く対立する俳句文学の特徴に早くから気づいていた。

 

 子規は本格的に俳句創作を開始する前の明治二十四年(一八九一年)頃から、『俳句分類』と呼ぶ研究を始めていた。俳句の発生期である室町時代から、蕪村を生んだ江戸は天明時代に至るまでの俳句を独自の基準で分類・編纂した膨大な俳句アンソロジー集である。

 

 子規は「自分が俳句に熱心になつた事の(はじま)りは趣味の上からよりも(むし)ろ理屈の上から()た原因が多く影響してをる」(『獺祭書屋(だつさいしよおく)俳句帖抄上巻を出版するに就きて思ひつきたる所をいふ』)と書いている。『俳句分類』は理論的探求だった。漱石が徹底した英文学研究によって近代文学(自我意識文学)の原理を把握しようとしたように、子規もまた初源から近過去に至るまでの俳句作品を徹底分析することで、その原理をつかもうとした。

 

 漱石が本格的に句作を始めたのは松山時代からである。子規宛てに「小子(しようし)近頃俳門に入らんと存候御閑暇(ぞんじそろごかんか)の節は御高示(ごこうじ)(あお)度候(たくそろ)」(明治二十八年五月二十六日付)と手紙を書いている。また子規は日本新聞記者として日清戦争下の清国に渡ったが、帰国の船上で大喀血してしまった。療養のために故郷松山に一時帰郷した子規は、漱石の下宿(愚陀仏庵)に仮寓して地元俳人たちと運座(句会)を始めた。漱石も参加し子規から本格的な俳句指導を受けた。子規が東京に戻ってからも、漱石は現在確認されている限り計三十五回に渡って句稿を送り添削を請うている。このような経験により漱石は、学生時代には不可解な「子供の手習」にしか見えなかった、子規の「修辞(レトリック)先行手法」が持つ文学の可能性に気づいていった。

 

 子規俳句で最も有名なのは写生理論である。「目の前の風景を素直に詠む(写生する)」ことくらいに理解されることが多いが、子規は野原に出たら目に飛び込んできた動植物や自然を、手当たり次第、すべて詠み尽くせと命じている。子規写生理論では作者がもう表現(修辞(レトリック))が尽きたと感じたところからが勝負なのである。

 

 子規がなぜ写生による言語道断な多作を奨励したかというと、俳句は俳句形式が書かせるからである。その本質をつかむためには、形式を成立させる原理にまで精神を降下させる必要がある。個人(自我意識)の限界を超えて句作を続け、俳句原理に迫らなければならない。作家の精神と俳句原理を一体化させるのである。俳句形式を自我意識の外にある不動の言語形式(五七五に季語)だと認識している俳人は、俳句に奉仕する滅私奉公の赤子に過ぎない。彼らの作品は、非人称だが常に俳句文学の主体(主役)である俳句形式に飲み込まれてゆく。逆接的だが精神と俳句原理を一体化できた作家だけが、その名前、つまりくっきりとした自我意識の爪痕を俳句文学に刻むことができる。

 

 この俳句原理と一体化した作家の精神は希薄である。ただ俳句原理はユング的元型(アーキタイプ)(俳句形式)として世界内存在(俳句作品)を生み出すわけだから、それと一体化した作家精神は神的擬態と呼び得るような強いものである。しかしその神性はヨーロッパ的、つまりセム一神教的な、人間に似た人格神の姿をしていない。存在するが世界内に希薄に偏在する神性である。ここから漱石の「則天去私」までは意外に近い。自我意識を去って(希薄化)させて天の摂理に従うわけだが、天は存在し、かつ世界内に偏在する東洋的神性だからである。

 

 漱石は「写生文は短くて幼稚だと言ふのは誤りで、幼稚どころか(かえっ)て進歩発達したものと()ふても(しか)るべき事と考えて()る」(『談話(文章一口話)』明治三十九年[一九〇六年])と語った。技術的に言えば、子規写生俳句では自我意識を極限まで小さく縮退させ、世界をカメラのように切り取る。しかし縮退しても自我意識は消え去らない。それが表現のための負の焦点になる。この手法がなぜ重要かと言えば、日本文学独自の文体構造があるからである。

 

 ヨーロッパ文学では、神になぞらえられる特権的な作者の自我意識が世界全体を俯瞰するように統御する。これに対して写生文小説では、世界から縮退した作家の自我意識が世界を統御するのである。ベクトルは逆だが構造的には相似である。漱石はこの子規写生俳句の文体構造を使って『吾輩は猫である』を書いた。漱石は子規写生理論を驚くほど的確に理解していた。この意味で漱石は子規派の小説家である。

 

 なお漱石と子規の人生は奇妙なほどの符合を見せている。子規は肺から血を吐く結核で亡くなったが、漱石は胃から血を吐く胃潰瘍で亡くなった。子規の文学者としての活動期間は明治二十五年(一八九二年)から三十五年(一九〇二年)までの十一年間だが、子規と入れ替わるように登場した漱石のそれは明治三十八年(〇五年)から大正五年(一六年)までの十二年間である。子規は「日本」新聞の記者となり、脊椎カリエスを発症してからは在宅記者になった。漱石は東京朝日新聞に在宅小説記者として入社している。本格的創作活動を始める前に原理的文学研究を行っているのも同じである。さらに子規も漱石も絵を描くことを好んだ。代表作は俳句と小説に別れたが、この二人は親友として交わるべき因縁があったようだ。

鶴山裕司

 

 

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* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

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