フジテレビ

金曜

24時55分~

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 JRA の協力のもと、競馬の実況を脱構築した深夜ドラマだ。「府中で一番落ち込んでいる男」とおぼしきウマオ(要潤)を実況のカメラが追い、彼がなぜ死にたがっているのかという謎を解こうとするミステリー仕立ての深夜連続ドラマである。もっともいわゆるミステリーとしてのプロットや構成があるようには見えない。ミステリーはあくまで口実、20分の短いドラマである。

 

 なんの口実かといえば、馬でなくヒトを実況したら、という設定を形作るためのものだ。なんのために実況するのか理由が必要で、競馬であればレースの結果を見るまでは、ということなのだが、ヒトの場合はその人生の結末を見ようかということになる。それではあんまり聞こえが悪いので、なぜ死にたがっているのかという謎があることになっているわけなのだが。

 

 府中競馬場で絶望していると見えたウマオの手に握られていたのは当たり馬券だったし、家の冷蔵庫の中には札束が並んでいる。もちろんヒトが死ぬ理由は金だけではないが、カメラはウマオの立ち位置の不可解や不安定そのものを撮ることに夢中な雰囲気で、死にたがっている理由を特定したがっているようではない。

 

 それはアナウンサーがときどき口走る「アクセス数がアップしている」という台詞にもあらわれている。実況されているのはネットのアクセス数でもある、というわけだ。しかしネットのアクセス数は様々な集計方法や考え方があり、それ自体が切迫した価値として追い求められることは少ない。

 

 つまりこれは視聴率というものの喩なのだろう。視聴率もリアルタイムに出るものではないが、その時間枠を他局と、あるいはテレビ以外のイベントと競い合う、という意味で確かに競馬的だ。それならばなぜ「視聴率が上がっています!」ではいけないのだろう。ネットのアクセス数がどうこうと、テレビで言うのは間が抜けている。

 

 おそらくだけれど、もし「視聴率が上がっています!」と叫びながらの実況ドラマだったら、テレビ史上および視聴者の記憶に残るドラマになったのではないか。テレビが自ら、自分自身の視聴率について実況しながら放送する、という切実さ。考えてみてほしい。「視聴率が上がっている、どんどんアップしています!」と叫ぶ深夜ドラマ。内容がなんであれ、その切迫感は支持されるだろう。

 

 そんな痛々しさに、現場は堪えられないのだろうか。だがドラマ仕立ての効果は、そのとき最大限に発揮される。それがドラマであることが、その瞬間こそ重要になってくるのだ。ある意味、それは他のドラマを危機に陥れるものかもしれない。なぜ今呑気に、現実になんら関わりを持たないドラマなるものを観ていなければならないのか、鋭く問いかけてくるからである。

 

 『実況される男』はそこまでのエッジは持たない。登場人物の関係性が突如変わったり、辻褄の矛盾を放置したりする不条理な前衛演劇の手法を援用しつつ、それを実況のカメラワークで捉える実験に終始する。それならばあと一歩、テレビドラマとして、あるいはテレビとしての自己言及に踏み込むのが現代ではないか、と感じる。

田山了一

 

 

 

 

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