%e7%a5%9e%e9%81%95%e3%81%88_09_cover01「天の岩戸が開いた」。マンションの隣り、または上階の人々が権力と偉大さの幻想と重なり合い、暗黒の陰謀が重層化する。ご近所から世間へ、そして巨悪の足元へと、無意義の波はひたひたと押し寄せ、現実を歪めてゆく…。詩人にしてストーリーテラー、気鋭の批評家でもある小原眞紀子が、現代の日常にひそむ古代的心理を抉る傑作純文学小説。

by 小原眞紀子

 

 

 

 

 「悪かったね。お祖母さんたちまで動員させちまって」

 「いえ。どうせあの連中は、死ぬほど退屈してるんですから」

 鈴丸守は、わたしのグラスにワインを注いだ。キッチンでは、守の奥さんがカマンベールチーズを焼いてくれている。

 「好物だって言ってたろ」

 今日の日のため、あんたのために、上等のフランスワインを取り寄せておいたのだと守は言い、破り取った宅急便の宛名書きをひらひらさせた。有名なワインセラーの差出人の下に受取人、振り仮名にスズマルマモル様、とある。

 「なあ。せっかくだから、ご主人も呼ぼうか」

 主人はまだ、古美術の業者市から戻らない、とわたしは応えた。

 たとえいたところで、二人連れ、守の宅を訪ねるような目につく真似はしない。

 わかってる、と言うように、守は赤い顔で頷き、自分のグラスにワインを注いだ。

 「ワインもお好きだったんですね」

 そりゃ、上等が手に入りゃ、よう、と守は目玉を回した。

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 「俺ゃ、舌が肥えてっから。不味いワインなら、ビールのがましよ。大量生産で間違いないかんな」

 しっかし、またきれいに消えてくれたもんだな、と満足気に呟く。

 「あんたは頼りになる。やっぱ、俺、もとおさしか頼る人いないよ」

 「もとおさ、ってのは止めてください」

 じゃあね、もとおさ。

 そう言って、山城を出ていったときの来林さんの目つきは、すでに大長のものではなかった。

 「でもさ、喜んでたんだろ」

 はい、とわたしは、心優しい鈴丸守を安心させた。

 「新天地を見つけたことは違いないと思います」

 熊本県は、日本でも有数の老人福祉施設が充実した土地である。

 わたしの親族たちからそう聞かされ、来林の大長は平定したばかりの九州に遷都を決意した。

 「お母さん想いですから。不老長寿の湯に浸けてあげたかったんでしょう」

 来たる偉人として、ただでさえ客好きな九州人に下にも置かぬ扱いを受けた大長は、わたし一人を先に帰した。引っ越しの手筈を整えに、自身がここへ戻ったのは二週間も後だった。

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 「で、来林の亭主の方は、」

 自宅にいるにも関わらず、声をひそめて守は訊いた。「もう、心配ないんだろうな」

 「ええ、問題ありません」

 来林さんよりだいぶ年配の亭主は、さすがに最初は仰天し、抵抗もしたようだった。が、結局は長年勤めた会社の勧告にも従うかたちで早期退職し、後を追うという。

 「めでたい」守は膝を叩いた。

 順番が前後したが、と立ち上がり、シャンパンの細い瓶と苺の皿を持ってきた。

 「冷やしてたんだ。ちょうどいい」

 すでに初夏の気配も漂う黄金週間直前、六階の窓を開けた宵の風に、シャンパンの泡音はぴったりだった。

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 来林の長を、何とかしろ。

 それが二ヶ月前、わたしが受けた命令だった。

 「何とかって。殺るんですか」

 うーん、と小心な鈴丸守は考えた。

 「山に、捨ててこい」

 だって、しょうがねえじゃねえかよ、とシャンパンに上機嫌の守は、子供がごねるように言う。

 「あんたが推薦すっから、わざわざ長にしたのによ。使えねえんだもん」

 「はい。すみません」

 目違いだよ、とわたしを睨む真似をした。

 「真面目で素直で、言うこと聞くって言うからよ」

 そうだった。最初は些細なことだった。大通りからこのマンションの裏口に通じる側道を作りたい。そう頑張る来林さんに、では長になったら、と勧めたのだった。

 その後、隣りに大規模店が立つという状況に見舞われたときには、長という立場ながらわたしの手足となって動き、その後も年代記の書記としてごく素直、かつ真面目に務めていた彼女だったのだが。

 「目覚めちまったんだな」と、守は呟いた。

 権力ってもんによ、と息を吐く。

 だんだんと勝手な真似をするようになった。細かすぎるほどきれい好きな来林の長は、階段の掃除が行き届いてないと、守の意向を無視して清掃業務を発注し直した。そればかりか理事会と称し、風呂桶の連中を頻繁に集めては、工事の合い見積もりを進めようとした。

 あなたには無理よ、とわたしも忠告はした。

 業務や見積もりの発注は、その際の言葉尻ひとつで大きく金額が変わる。先々の大工事の受注の見込みがある、他社の見積もり書がすでに出ている、といったことをうまく匂わせなくてはならない。また見かけ上はいい数字が出ていても、工事工法によってはその後のメンテナンスを狙っている場合もある。それらはすべて私も守から教わったに過ぎないが、神経質で細かく、物事の裏面や大局的な構造を見ようとしない来林の長は、どう教えても理解ができなかった。

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 「番台を暴れさせたのは、守でしょ」

 うん、と鈴丸守は頷き、丸い頭を掻いた。

 だが、守がその仕掛をわたしに告げなかった理由も、十分に了解していた。

 何が原因であれ、いったん事が起こったときの来林さんの短絡性、視野の狭さを、先入観も忌憚もなく直視させたかったのだ。

 「番台をすぐ辞めさせろ、だろ。あたしに楯突くから、だろ。あんなのに任期いっぱい三年も居座られちゃ、来年の大規模修繕、どうするよ」

 とはいえ、楯突かれて我慢ならないのは、彼女ばかりではなかろう。

 権力に目覚めたばっかしだとよ、と守は笑った。

 「頭下げない感じの奴は、許せねえのさ。ま、器じゃなかったんだな。今、副長が代理になってるが、次の長はどうしようかいね」

 権力に目覚めたばかり。

 わたしは守の顔を眺めた。

 鈴丸守もまた、彼にとっての権力を手にしかけているのではないか。

 「能舞台のこけら落とし、おめでとうございます。たいへん遅くなりましたが」

 苺を入れたシャンパンのグラスを、わたしは高く掲げた。これは本来、その祝い酒のつもりだったのだ、と初めて気づいた。

 うん、と守は満面に喜色を湛えた。

(第09回 了)

 

 

* 『神違え』は毎月23日に更新されます。

 

 

 

 

 

 

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メアリアンとマックイン 水の領分

 

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