第六回 緑の亡霊

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『シン・レッド・ライン』(1998 アメリカ映画)ポスター

監督テレンス・マリック

 

 

 嬰児を「みどりご」と言うことからも明らかなように、緑という色は爆発的な生命力を秘めている。美登里という女児の名も、子の健康に育つことを願う親心の表れだろう。緑のあるところには水があり、食物があり、澄んだ空気がある。だからこそ森林伐採はもっとも象徴的な人間の愚行として描かれ、「緑の星」である地球から緑がなくなれば人類も滅ぶ、という仮想された終幕を、人々はときに思い出していたたまれなくなる。

 

 しかし森、熱帯雨林、ジャングルなどなど、地理学的、気象学的な見地から様々に呼ばれる緑が銀幕いっぱいに蔓延るとき、そこで起こっているのは命の礼賛ではなく、たいていは血なまぐさい戦争である。命の根源であるはずの緑の奥深くで、人間は与えられた命を奪い合っている。

 

 このことの皮肉をよく理解している映像作家(映画監督というより、そう呼ぶのがふさわしいだろう)にテレンス・マリックがいる。その経歴は異色で、ハーバード大学で哲学を修め、首席で卒業すると奨学金を得てオックスフォード大学に進み、日常言語学派を代表する研究者の一人、ギルバート・ライルの弟子となった。

 

 ここで言語論の講義をしても始まらないが、このライルが西洋思想における心身二元論を批判したことで知られる人物であることは記しておいてもよいだろう。その際に彼が用いた ”ghost in the machine” (機械のなかの幽霊)という表現は、来春ハリウッド版が公開される押井守監督の代表作「GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊」(日、1995)とその原作である士郎正宗の漫画作品にも間接的に影響を与えていると思われるが、要するにライルによれば人間とは、肉体という殻に心を閉じ込められた不幸な存在ではなく、深く結びついた肉体と心をどちらも精一杯に駆使して思考し、認識し、判断するという高度な生物なのである。さもなければ人間は、リラダンの小説『未来のイヴ』(1886)に登場する人造人間ハダリーのように、本物の心にたどりつかないまま虚しく朽ちてゆくことになる。

 

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ハリウッド版『GHOST IN THE SHELL』(2017 アメリカ映画)ポスター

監督ルパート・サンダース、主演スカーレット・ヨハンソン

 

 このような考えを持ったライルはひとつの結論として、哲学者は心を軽々に語るべきではないとした。作家やジャーナリストのように、恣意的な視点から個人の道徳や動機について判断を下すことは避けなければならないのである。これは言い換えれば、ライルにとって作家やジャーナリストは心身二元論を乗り越えられない俗人である、ということを意味するのかもしれない。とにかく明らかなのは、恩師の考えに反発したマリックがオックスフォードを去り、ジャーナリストになったということである。マリックはさらにAFI(アメリカン・フィルム・インスティチュート)によって設立されたばかりの映像専門学校に入学した。もっとも、だからといってそれまでの研究を無駄にしたわけではない。いくつかの雑誌に記事を発表しながら、マサチューセッツ工科大学で教鞭を執りつつ、ハイデガーの翻訳までしているのである。

 

 このように多忙なマリックが、ドン・シーゲル監督の会心の作であり、マカロニ・ウェスタンの専門家のように思われていたクリント・イーストウッドを大スターに押し上げた「ダーティー・ハリー」(1971、米)の脚本に関わったのも、まさにこの時期であった。社会という大きく窮屈な機械のなかで、心の叫ぶままに悪を討つハリーの銃弾には、あるいはマリック自身の葛藤が込められていたのかもしれない。少なくともマリックにとって映画が、哲学を通して語ることを許されなかった自らの思想を表現するための媒体であったことは間違いないだろう。

 

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『ダーティー・ハリー』(1971 アメリカ映画)ポスター

監督ドン・シーゲル

 

 しかしマリックが常に危機感を抱いていた人間存在の危うさは、やはりアスファルト・ジャングルよりも本物の密林を舞台として描くのがふさわしい。ジェームス・ジョーンズによる同名小説の二度目の映画化である「シン・レッド・ライン」(米、1998)は静かな戦争映画である。日本軍からガダルカナル島を奪うために上陸した米軍兵士たちが戦う相手は日本兵ではなく自分たち自身であり、ひいては戦争そのものでもある。仲間の死や脱走、故郷に置き去りにしてきた生活と島での現実とのあまりもの隔絶は、生死の境にある「赤い細い線」だけでなく、理性と狂気の狭間に引かれた「赤い細い線」をもはっきりと浮かび上がらせるのだ。純粋に領土の境界を決定するために軍勢が正面からぶつかりあった前世紀までの戦争とは違い、現代の泥沼化した全体主義の戦争は、かえって兵士を孤独に追いやり、個人的な苦しみを与える。それはまさに大きな機械に閉じ込められようとする個人の、肉体的かつ精神的な苦痛なのである。

 

 マリックは寡作だが、代表作とみなされている「ツリー・オブ・ライフ」(2011、米)も、主題の点では共通している。主人公ジャックの成長、父親との葛藤、生きることの美しさと難しさをフラッシュバックや連想の積み重ねで描き出すその手法は、文学においてもプルーストの『失われた時を求めて』以来すっかりおなじみではあるが、ある一家の歴史に宇宙の誕生から消滅までの流れをかぶせて俯瞰するという企図の壮大さには驚かされる。もっとも、壮大さを通り越してさすがに過剰、露悪的であるということで、この映画はカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞したものの、評価は賛否両論であると言っていい。映画の大部分は物語の筋を追うのではなく、宇宙や自然の息吹を凝視する、ほぼ静止した画面の連続であり、マリックが映画監督というよりも映像作家であることをますます印象づける。

 

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『ツリー・オブ・ライフ』(2011 アメリカ映画)ポスター

監督テレンス・マリック

 

 ところで映画の題名である「ツリー・オブ・ライフ」が、ある家族の歴史を追うという意味で「ファミリー・ツリー」=家系図を含意していることは言うまでもないが、より直截的に問題になっているのは明らかに「生命の樹」の概念であろう。生命の樹、あるいは宇宙樹は、世界を一本の巨樹に見立てたものであり、北欧神話においてもっとも理論的に整理されていることから、その神話での呼び名をとってユグドラシルと呼ばれることも多い。

 

 しかし万葉集の研究で知られる比較文学者の中西進が『古代日本人・心の宇宙』(NHKライブラリー、2001)で整理しているように、同様の概念は北欧のみならず世界中の文化に存在する。例えば『古事記』にはその影を淡路島から高安山にまで伸ばす巨樹や、天と地をつなぐほどの長さを誇った景行天皇の欅が登場するし、中国では扶桑と呼ばれる神木が、太陽が天に昇るための梯子のような役割をする。これらの神話の根底には、手の届かない天に対する憧れと、なぜ天は落ちてこないのか、という不安とがないまぜになった古代人の感情があるだろう。「杞憂」という言葉のもとになったのが、杞の国の人々が空が落ちてくることを恐れたという故事であることを思い起こせばわかりやすい。

 

 また文化記号論を発展させたイワーノフとトポローフは『宇宙樹・神話・歴史記述』(岩波書店、1983)のなかで、このような宇宙樹の乱立は、垂直軸による宇宙の認識という問題にまで還元できるとしている。美術を例にとるならば、旧石器時代にはお互いになんら相関性を持たず、ただ一つの空間を埋めるものに過ぎなかった複数の図像が、宇宙樹の概念が発展すると徐々に体系化され、筋書きを持つようになる。つまり宇宙は平面的な、すべてのものが当価値に混在する空間ではなく、地上に人間や動物がおり、地下に魚や死者がおり、天に鳥と星々がある、というような縦軸によって理解されるようになったのである。このような世界観が確立されると、やがてその前提に基づいた文化的な文法も生成されるようになる。例えば「上にあるものは良い」に対して「下にあるものは悪い」といったような、主に二項対立に基づいた、人類共通とも言えるほどに普遍的な感覚が整備されていったのである。

 

 この世界樹を拡大解釈してみれば、イザナギとイザナミがその周りをめぐって結ばれたところの天の御柱も、キリストがその上で処刑されたところの十字架も、いずれも天と地を結ぶ垂直の橋、すなわち世界樹であり、それはまさに宇宙と生命の循環を象徴する概念ということになる。マリックが「ツリー・オブ・ライフ」はもちろん、「シン・レッド・ライン」においても高い樹々に囲まれた世界を舞台に命の価値を問うたのは、したがってこれ以上なく自然なことであろう。

 

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『シン・レッド・ライン』(1998 アメリカ映画)スチール

監督テレンス・マリック

 

 「シン・レッド・ライン」のみならず、社会という機構のなかで重みを失う命という主題は、あらゆる戦争映画にとって根源的である。戦場に文明の終焉を見るフランシス・フォード・コッポラ監督「地獄の黙示録」(1979、米)やスタンリー・キューブリック監督「フルメタル・ジャケット」(1987、米)、戦争が常に正義と悪のぶつかり合いという文脈で語られることを端的に示すスティーヴン・スピルバーグ監督「プライベート・ライアン」(米、1998)、そして戦争そのものの愚かさを茶化すロバート・アルトマン監督「M★A★S★H マッシュ」(1970、米)やクエンティン・タランティーノ監督「イングロリアス・バスターズ」(2009、米・独)など、視点や手法は様々ながら、いずれも緑の繁茂する画面で、兵士たちは狂気の淵に立つ。だがいくらその恐怖を追い払うためであっても、彼らは思考を放棄した「機械のなかの幽霊」になりたいとは、夢にも思わないだろう。

大野ロベルト

 

 

 

 

 

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