ns_04_cover_01金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

第Ⅱ章 漱石小伝

―― 『漱石とその時代』を未完のまま自死した江藤淳に

 

■ 学生時代① ―― 最初の神経衰弱 ■

 

 漱石は養家塩原家から公立小学戸田学校に通い、後に実家から公立小学戸田学校、市が谷学校、錦華学校に通って尋常小学校を卒業した。卒業後東京府第一中学校正則科に進学したが、正則科では東京大学予備門から帝国大学に進学するために必要な英語を教えなかった。漱石は退学したいと考えるが親が許可しなかったため、弁当を持って家を出て学校へは行かずに遊んでいたと回想している。ただこの時期に漱石が帝国大学へ進学することを明確な目標としていたわけではない。

 

 明治十四年(一八八一年)に東京府第一中学校を退学すると、漱石は漢学塾二松学舎に入学した。この頃の心境を「今は英文学などをやつて()るが、其頃(そのころ)は英語と来たら大嫌ひで手に取るのも(いや)(よう)な気がした」(『談話(落第)』三十九年[一九〇六年])と回想している。零落しつつある実家や不安定な養子の身分から抜け出すためには、帝国大学に進学するほかに道はないと漠然と考えながら、漱石は一度は好きな漢学を選んだのである。このような試行錯誤の内に、後に英文学と日本文学との間で引き裂かれることになる漱石の資質が胚胎されている。

 

 漱石は明治十六年(一八八三年)に二松学舎を退学し、東京大学予備門受験準備のために英学塾成立学舎に入学した。「文明開化の世の中に漢学者になつた(ところ)仕方(しかた)なし(中略)()(かく)大学へ入つて何か勉強しやうと決心した」(『談話(落第)』)のである。十七年(八四年)には東京大学予備門に進学し、二十三年(九〇年)に卒業して帝国大学文科大学英文科に入学した。

 

 漱石は第一高等中学校(旧東京大学予備門)予科二級の時に、勉強しないのを誇りとするようなバンカラな学生気質にかぶれて落第したが、それ以降は常にトップの成績を守った。そのため帝国大学入学時に文部省貸費生に選ばれた。帝国大学文科大学英文科を卒業したのは明治二十六年(一八九三年)七月、二十七歳の時のことである。漱石は英文科の第二回卒業生で、英文学専攻の学生としても帝国大学で二人目の卒業生だった。

 

 第一高等中学校(旧東京大学予備門)や帝国大学の同級生には、中村是公(ぜこう)菅虎雄(すがとらお)、正岡子規、芳賀矢一、南方熊楠(みなみかたくまくす)、福原鐐次郎(りょうじろう)、山田美妙(びみょう)らがいた。学年は上だが尾崎紅葉、石橋思案(しあん)、川上眉山(びざん)らも同時期に在籍していた。

 

 中村是公は南満州鉄道総裁(満鉄総裁)となり明治四十二年(一九〇九年)に漱石を満州・朝鮮旅行に招いた。菅虎雄はドイツ語学者として熊本五校や第一高等学校で漱石の同僚になった。芳賀矢一は国文学の第一人者と呼ばれるようになった。南方熊楠は東京大学予備門を中退してイギリスに渡り、大英図書館に通って独学で日本の粘菌学と民俗学の基礎を作った偉人である。福原鐐次郎は漱石の博士辞退問題が起こった時に文部省専門学局長だったため、矢面に立って漱石とこの問題について話し合うことになった。尾崎紅葉は石橋思案、川上眉山、山田美妙らと硯友社を結成し、同人誌「我楽多文庫」を創刊した明治時代最大の流行作家である。山田美妙は言文一致体小説の確立に寄与した詩人、小説家、批評家としても知られる。

 

 漱石の同級生の一部を挙げただけだが、いかに当時の帝国大学に全国から優秀な人材が集まり、各分野に優れた人材を輩出し続けたのかがわかるだろう。またそれはこの時代に学問を修めることの重要性を物語っている。特に漱石を含む佐幕派(幕末に幕府を支持した側、または否応なく幕府方に付かざるを得なかった者たち)の子弟たちにとって、学問は維新後の世の中を生き抜くための大きな武器だった。

 

 漱石は成立学舎に入学した明治十六年(一八八三年)に早くも家を出た。同級生たちと自炊したり下宿屋に住んだりしたが、この自活生活は四年ほどで終わった。二十年(八七年)に急性トラホームに罹り、実家に戻って療養せざるを得なくなったのである。その後は実家から第一高等中学校、帝国大学に通学した。早く家を出たいという気持ちがあったようだが、当時の人間の生活には、衣食住全般で現代とは比較にならないほどの手間と労力がかかった。実家に戻ったのは、自活しながら勉強を続けることの困難を痛感したためでもあるだろう。

 

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 ただ明治二十六年(一八九三年)七月に帝国大学文科大学を卒業すると、漱石はすぐまた帝国大学寄宿舎に移った。そのまま実家には戻らず、二十八年(九五年)四月には愛媛県尋常中学校嘱託教員となって松山に赴任した。東京生まれで東京育ちの漱石が、まだ英文科卒の学生が貴重で東京での就職口がたくさんあったのに、松山へいわゆる「都落ち」した理由は諸説ある。漱石の伝記研究では最初の神経衰弱がその大きな理由とされる。またこの神経衰弱には、眼科医で出会った女との、実体験なのかの妄想なのか判然としない体験が付きまとうのが常である。

 

 周囲の人々の証言から、漱石が帝国大学卒業直後の明治二十七(一八八四年)年から二十八年(八五年)にかけて、激しい神経衰弱に悩まされていたのは確かである。漱石の妻鏡子は義兄直矩(なおかた)から聞いた話として、漱石がトラホームの治療に通っていた駿河台の井上眼科で会った女に惚れて嫁にと望んだが、性悪な女の母に邪魔されて叶わず、それが原因で松山に赴任したのだと語っている(『漱石の思ひ出』夏目鏡子述・松岡譲筆録)。

 

 また鏡子は大学卒業後に宝蔵院という寺で下宿していた漱石が、突然直矩の所にやって来て、自分への縁談話を勝手に断っただろうと激怒しながら詰め寄ったとも話している。直矩は身に覚えがなかったので、怒る漱石をなだめて縁談話の相手について尋ねたが、漱石はそれについては答えなかったのだという。直矩が漱石が失恋して松山に行ったと考えたのには理由があるわけだ。さらに鏡子は眼科医の女の母が漱石と女の結婚を邪魔しただけではなく、赴任先の松山まで人を差し向けて漱石の後を追いかけ回したとか、宝蔵院には眼科医の女に似た尼がいて、彼女が風邪を引いた時に解熱剤を与えてやると、他の尼が「まだあの人のことを思つてるんだよ」を陰口を叩いたといった話を、直矩や漱石自身から聞いたと語っている。

 

 漱石はこの眼科医の女に、明治二十年(一八八七年)に急性トラホームに罹った頃に会ったと推測される。実際漱石は、帝国大学時代の二十四年(九一年)七月十八日付けの正岡子規宛ての手紙で、「昨日眼医者へいつた所が、いつか君に話した可愛らしい女の子を見たね」と書き送っている。明治二十年に会った女と二十七年に本当に縁談話が生じたなら、その間に何らかの具体的な交際があったはずである。しかしその痕跡は全くない。だが鏡子は大正元年頃に漱石から、高浜虚子と出かけた九段の能楽会で、眼科医の女を見たと聞かされている。漱石は出会いから約四半世紀後まで眼科医の女を心に留めていたことになる。

 

 堅物で女性に対して奥手でもあった漱石が、学生の一時期だけ街で見かけた女性と恋愛関係に陥ったとは到底考えにくい。漱石は松山赴任後の明治二十八年(一八九五年)に鏡子と見合いし、翌二十九年(九六年)に挙式している。見合いを進めるにあたって直矩は、もしや漱石には好きな女がいるのではないかと考え正岡子規に相談した。子規宛の手紙には、「小生(しょうせい)家族と折合(おりあい)あしき為外(ためほか)に欲しき女があるのに(それ)(もら)へぬ故夫(ゆえそ)ですねて()(など)と勘違をされては(はなは)だ困る」(二十八年十二月十八日付)とある。漱石は好きな女はいないとはっきり書いている。

 

 恐らく眼科医の女との破談話は、神経衰弱による漱石の強迫観念から生まれたものだろう。ただ漱石が実際に眼科医で気になる女性を見たのは確かだと思われる。漱石の強迫観念から生まれた出来事はほかに幾つも知られているが、それは何らかの現実の出来事をきっかけにしている。具体的交渉はなかっただろうが、眼科医の女が自分に好意を持っていると感じる素振りがあったのかもしれない。女の母についても自分を嫌っているような感じの悪さが印象に残った可能性がある。漱石が、兄直矩は勝手に縁談を断るような男だと思い込んでいた可能性は高い。気難しい漱石に対してお喋りな宝蔵院の尼たちが陰口を叩いたこと、これは実際にあっただろう。

 

 現実の出来事を契機に生み出される漱石の強迫観念は、他者がそれを理解するのを極めて困難にしている。まったくの空想ならそれは単なる精神疾患である。しかし現実の出来事に基づいている時にはその判断は難しい。ある出来事をきっかけにして人が他者に疑いを抱く時、疑っている間は誰しもその当否を考えないからである。当事者の「確信」は他者には「妄想」と映ることがある。

 

 第三者の証言を付き合わせると奇怪なのだが、少なくとも漱石は現実的裏付けがあると信じていた。また多くの漱石研究者はもちろん、精神科医までもが漱石の神経衰弱について考察し続けて来たのは、そこに漱石文学の基本主題に結び付く何かがあるからである。

 

 『幻影(まぼろし)(たて)』(明治三十八年[一九〇五年])や『薤露行(かいろこう)』(同)、『趣味の遺伝』(三十九年[〇六年])などの初期幻想小説で、漱石は見つめ合うだけで深く精神を交流できる男女の愛を描いている。リアリズム小説に移行した『三四郎』(四十一年[〇八年])でも漱石は、広田先生に見ただけで愛を運命付けられた女性の話をさせている。広田先生は三四郎に、二十年前たった一度だけ通り過ぎるのを見た女が今目の前に現れたら、迷わず結婚するだろうと語った。漱石は眼科医で見た女に自己の文学的主題を発展させ得る契機を感じたのである。

 

 この文学主題は、偶然や気まぐれ、親同士の約束や、社会的打算などと全く無縁な、ほぼ宿命的な男女の結びつきを希求する漱石の心性から生み出されている。それは漱石の思い人である眼科医の女がある種の聖性を帯びていることからもわかる。漱石が強迫観念を抱いたのは女の周囲の人々に対してであり、女との結び付きの強さを疑っていた気配はまったくない。

 

 漱石は小宮豊隆に「自分は何もかも捨てる気で松山に行つたのだ」と語った(『夏目漱石』小宮豊隆著)。実際の松山行きの理由はこんなものだろう。漱石は環境を変えることで、実家との関わりや神経衰弱による苦しみをリセットしたかったのだ。また漱石は神経衰弱が悪化した明治二十七年(一八九四年)十二月に、菅虎雄の紹介で鎌倉円覚寺に釈宗演(しゃくそうえん)を訪ね二週間ほど座禅を組んだ。その際与えられた公案は「父母未生(ふぼみせう)以前本来の面目」で、「父母が生まれる前の本来の自分の居所はどこか?」といった意味の問いである。漱石は生涯この考案を考え続けた。あらゆる世俗的因縁を断ち切った自己本来の姿、またそのような自己と他者の関係性を模索したのである。

 

 漱石は「帰朝後の()依然(いぜん)として神経衰弱にして(けん)狂人のよしなり。(中略)た()神経衰弱にして狂人なるが()め、「猫」(『吾輩は猫である』)を(そう)し「漾虚集(ようきょしゅう)」(明治三十九年[一九〇六年]刊の漱石の小説集)を出し、(また)鶉籠(うずらかご)」(三十九年刊の漱石の小説集)を公にするを得たりと思へば、()(この)神経衰弱と狂気とに対して深く感謝の意を表するの至当(しとう)なるを信ず」(『文学論』序 四十年[〇七年])と書いている。この言葉は漱石が、神経衰弱を自己の文学主題を明確にするための契機として捉えていたことを示している。

 

 養子体験や眼科医の女のほかにも、漱石文学を彼の幼少期から学生時代までのトラウマから読み解こうとする試みはいくつもある。江藤淳と大岡昇平の『『薤露行(かいろこう)』論争』もその一つである。江藤は漱石は兄直矩の二番目の妻登世(とせ)(漱石と同い年で明治二十四年[一八九一年]に悪阻のため早世)と肉体関係を伴う恋愛関係にあったという説をとなえ、漱石が小説で好んで描いた男女の三角関係や姦通は、登世との秘められた恋愛体験が基になっていると論じた。しかし大岡はそれは江藤の「偏執」に過ぎないと厳しく批判した。

 

 他の作家と同じように、漱石もまた実人生での体験を元に小説世界を構想した。しかし漱石文学の根底に決定的実体験を探ろうとする試みは、いつまでも合わないトランプの神経衰弱遊びに似ている。漱石は確かに自らの意志で神経衰弱を制御できなかった。だが漱石は、いわゆる「発作」の後に神経衰弱体験を自己省察し、それを社会的通有性のある文学主題にまで昇華している。漱石文学の本質を把握するためには、彼の病が最終的には言葉に、文学に昇華される質のものだったことを理解する必要がある。

鶴山裕司

 

* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

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