ns_03_cover_01金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

第Ⅱ章 漱石小伝

―― 『漱石とその時代』を未完のまま自死した江藤淳に

 

■ 少年時代 ―― 養子体験 ■

 

 夏目漱石は慶応三年(一八六七年)一月五日(旧暦)、江戸牛込馬場下横町(現東京都新宿区喜久井町)で、父小兵衛直克(こへえなおかつ)、母ちゑの間に生まれた。本名は金之助で漱石は明治二十二年(八九年)頃から使い出した雅号である。末っ子で二人の異母姉と三人の兄がいたが、長女佐和(さわ)とは二十二歳も年が離れていた。母ちゑは四谷大番町(現新宿区大京町)の質屋兼金貸しの娘で、若い頃に十年ほど明石候(久松候説もある)に武家奉公した。下町の質屋に嫁いだが離縁され、安政元年(五四年)頃に妻(こと)を亡くした直克に再嫁した。気品があり和歌も詠む女性だったと伝えられる。直克も幕末の町人らしく漢籍を好んだが、厳しく口数の少ない専制君主的家長だったようだ。

 

 小宮豊隆によると、夏目家は遅くとも江戸は元禄時代にまで遡ることのできる代々の名主である。夏目家の口伝では幕府開闢以来の「草分の名主」(徳川氏と共に江戸に移って来た町人)なのだという。牛込から高田馬場一帯が夏目家の支配地で、身分は町人だが名字帯刀を許された江戸の古い名家だった。

 

 ただ漱石は、兄から聞いた羽振りの良かった頃の夏目家の様子を少し書き残しただけで、一切家柄自慢をしなかった。むしろ「私の(いへ)に関する私の記憶は、(そう)じて()ういふ風に(ひな)びて()る」(『硝子戸(がらすど)(うち)』大正四年[一九一五年])と、御維新後に零落した夏目家の様子ばかり強調した。そのため漱石は貧しい町人の家から立身出世したようなイメージをまとうことになったが、実際は違う。明治初期には財力も家柄も、一定レベル以上の家の子供しか帝国大学に進学できなかったと言ってよい。庶民の子供は大学進学を想像すらしなかっただろう。

 

 もちろん明治になって世襲名主の地位を失った夏目家の財力は、往事とは比べものにならないほど衰えていた。父直克は明治新政府が新設した中年寄兼世話係という役職に就くが(後に区長となる)、六十歳で退職してからも内務省八等警視属(警察官)として働いた。漱石の妻鏡子の回想によると投機的事業に出資して、さらに財産を失ったりもしたようだ。

 

 よく知られているように漱石は、明治元年(一八六八年)十一月、二歳の時に塩原昌之助、やす夫妻の養子に出された。漱石自身の筆から生まれた夏目家困窮神話に沿うと、いわゆる口減らしのための養子と言いたくなるが、事はそう簡単ではない。漱石死後の大正六年(一九一七年)に発表された関荘一郎の『『道草』のモデルと語る記』は、昌之助からの聞き書きをまとめたものである。それによると昌之助は、ちゑの妊娠中から、今度生まれてくる子を養子にもらいたいと直克に申し出ていたのだという。男の子ならという前提だろう。

 

 当時は家父長制で家を継ぐのは男子だった。そのため戦前までは富貴や庶民を問わず、家の存続のために養子を取るのが珍しくなかった。年金などの社会保障制度が貧弱だった時代には、養子制度は家と家の結びつきを強め、困った時には助け合う互助会的役割も担っていた。そんな背景もあり、当時は子供に養子であることを必ずしも隠さなかった。漱石も自分が養子だと知っていた。直克には三人息子がいたことも漱石を養子に出した理由だろう。また直克と昌之助はとても近しい間柄だった。

 

 昌之助は夏目家とは旧知の四谷の名主の息子で、十一歳のときに父半助(または平助)を亡くし夏目家に引き取られた。十五歳で元服すると父の跡目を継いで名主になった。後見人は直克だった。妻やすは夏目家の奉公人で、結婚の際は直克が仲人を勤めている。当時昌之助は二十九歳の働き盛りでバイタリティに溢れていた。直克は夏目家では冷や飯食いになるかもしれない四男漱石の将来を昌之助に託したのだった。夏目家と同じく零落した元名主だが、明治初期には塩原家にはそれなりの財産があったのである。しかし直克の期待は外れた。

 

 昌之助は直克と同様、新政府の下で添年寄という役職に就いたが、明治三年(一八七〇年)に汚職事件に連座して罷免された。その後、戸長に返り咲いたが再び罷免された。また汚職のような不祥事を起こしたのかもしれない。戸長罷免の明治九年(七六年)には東京警視庁に再就職した。明治十年(七七年)に家と貸家を新築し、賃貸業の副業も始めている。不動産の名義は塩原家の戸籍上の長男漱石だった。

 

 昌之助の波乱に富んだ職歴は、リスクを冒してでも少しでも良い暮らしがしたい、良い地位に就きたいと願う明治の典型的な立身出世主義の男のものである。また昌之助の旺盛な生活力は仕事に留まらなかった。戸長時代の明治七年(一八七四年)に旧旗本未亡人日野根かつと愛人関係となり、翌明治八年(七五年)に妻やすと離婚して正式にかつと結婚した。このとばっちりによって、少年漱石が大いに振り回されることになったのは言うまでもない。

 

 健三は(うみ)にも()めなかつた。(やま)にも()られなかつた。両方から()(かへ)されて、両方の(あひだ)をまごまごして()た。同時に(うみ)のものも()ひ、(とき)には(やま)のものにも手を出した。

(『道草』大正四年[一九一五年])

 

 漱石は後に養子時代をこのように回想している。漱石少年が養子体験によって浅からぬ精神の傷を負ったのは確かである。しかしこの一事が漱石文学のすべての源になったと言うのは性急だろう。漱石は養子のトラウマに生涯こだわり続けた作家ではない。彼が養子時代に受けた精神の傷(あるいは教訓)は、その後の漱石文学でもっと普遍的な主題にまで昇華されている。

 

 「健三は(うみ)にも()めなかつた。(やま)にも()られなかつた」というのは、昌之助の再婚によって漱石が塩原姓のまま実家に戻された事実を指す。だから漱石は「同時に(うみ)のものも()ひ、(とき)には(やま)のものにも手を出した」わけだが、その内実は複雑である。

 

 実父直克は漱石を家に受け入れはしたが、養父昌之助に養育費を出させようとした。吝嗇ゆえの理由だけではないだろう。直克の要求は崩れが見え始めた昌之助に、養父としての責任感を認識させるための措置でもあったはずである。

 

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 また漱石も、実家と養家の板挟みになって、ただ振り回されるようなひ弱な子供ではなかった。漱石は養子時代の自分は我が儘で強情だったと回想している。後年の理知的な漱石からは想像できないが、欲しい物があると道ばたで泣き叫び、必ず養父母に買わせるような子供だったのだという。漱石は「実父から()ても養父から()ても、彼は人間ではなかつた。(むし)ろ物品であつた」(『道草』)とも書いているが、彼は自己の〝物品の価値〟に敏感だった。大人たちがそれぞれの都合で自分を振り回すなら、それを利用してもかまわないと考えるような怜悧な子供だった。

 

 最初の養母やすは「健坊、御前(おまえ)本当は(だれ)()なの。隠さずにさう御云(おい)ひ」と漱石に迫った。やすは自分を本当の母親だと言って欲しかったのだ。しかし漱石は強情に黙っていた。昌之助とやすと暮らしていた頃、漱石は誰が実の父母なのか知らされていなかったが、養子だとは知っていた。漱石少年の我が儘で強情な態度は、大人たちがそれぞれの思惑で自分を振り回すことへの怒りの発露だった。その意味で漱石は、現代的な文脈での養子に出された可愛そうな子供ではない。漱石の怒りは養子制度をきちんと守れない大人たちの不甲斐なさに向けられていた。ただこの養子体験は後年になって、必ずしも血縁関係で結ばれているわけではない男女に、深い精神的結びつきを求める漱石的主題を生んでいる。

 

 昌之助の再婚以降、漱石は実質的に夏目家に復帰していたが、正式に養子縁組が解消されたのは漱石二十二歳の明治二十一年(一八八八年)一月のことである。明治二十年(八七年)に長男大助、次兄直則(なおのり)が相次いで亡くなり、学問嫌いの三男直矩(なおかた)に万が一のことがあれば、夏目家を継ぐ男児がいなくなる可能性があったからだと言われるが、それだけではない。

 

 直克は養子縁組解消の際に詳細な証文を作り、養育費(示談金)として二百四十円を支払った上で昌之助と絶縁した。昌之助が直克に無断で漱石から、養子でなくなっても「(たがい)に不実不人情に相成(あいな)らざる様致度存候(よういたしたくぞんじそろ)」という一札を取った(書かせた)ことを知ったからである。

 

 『道草』で描かれたように、昌之助は養子縁組解消から十八年も経った明治三十九年(一九〇六年)に突然漱石の前に現れ、この一札を楯に金銭を要求した。明治二十一年当時、昌之助が書かせた一札の意味を完全に理解していたのは直克だけだろう。直克は昌之助の性格を知り尽くしていた。

 

 昌之助は明治十年(一八七七年)に買った漱石名義の家と貸家を、十七年(八四年)に夏目家に無断で売り払っていた。漱石を困窮してゆく昌之助の養子にしておくのは危険だった。当時の民法では養子(家長)に家の全財産と家督相続権があったが、財産がなくなっても家族の扶養義務は残るからである。直克が養子縁組解消を求めた時期に、昌之助は目先の金を得ることに汲々としていた。漱石から取った一札を元に半永久的な金銭援助を求めようとした昌之助が、四十二年(一九〇九年)に百円と引き替えに一札を手放してしまった時にも同じことが起こったと言える。

 

 漱石は両親からまったく甘やかされなかったと回想しているが、それでも母親への思慕を書き残している。しかし父親に対しては「健三は、(ちい)さな一個の邪魔物であつた。(なに)しに()んな出来損(できそこな)ひが()()んで()たかといふ顔付(かおつ)きをした(ちち)は、(ほと)んど子としての待遇を彼に与へなかつた」と手厳しい。だが漱石はやはり直克の息子だった。帝国大学卒業後、浮き世離れしていると言っていい特権的エリートの道を歩んだ漱石だが、その経済観念と権利意識はしっかりしていた。

 

 漱石は家族にとっては理不尽極まりない横暴な父親だったが、帝大生を中心とする弟子たちの面倒をよくみた。人間同士の強い結びつきを求める漱石の心性が家族に対する過剰な甘えとなり、弟子たちには父親のような親身さとなって表れたのだろう。また神経症ということもあり、家族をほとんど恐怖のどん底に突き落としたが、経済的苦労をかけることはなかった。生活者としての漱石は、鋭い現実感覚を持った江戸の名主の息子だったのである。

鶴山裕司

 

* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

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