%e3%81%8a%e8%8f%93%e5%ad%90%e3%81%aa%e6%ae%ba%e6%84%8f_03_cover_01パティシエを目指していた彩子は、ある罪を犯した怖れから逃げ隠れして暮らしている。行き着いた先は、人気が陰りをみせた歌手・カオルの付き人の仕事。だが不運はつきまとい、ついに運命の大事件へと…。詩人・小原眞紀子の原案が甘やかな哀愁とともに語られる、待望の金魚屋ロマンチック・ミステリ・シリーズ第3弾!

原作・小原眞紀子 作・露津まりい

 

 

 

 

 

2 塀から落っこちた卵の始末を(前編)

 

 

 絨毯敷きのリビングは間接照明で薄暗いが、賑やかな話し声が聞こえていた。ピアノラウンジのように天井からスポットライトが落ち、イタリア製のチェック柄のソファの真ん中にカオルの姿がある。

 「旨そうだな」

 小太りの久能木は、彩子が運んできたガトゥショコラの皿に目を輝かせた。焼きたてのカカオの香りが拡がり、他の者も振り返った。

 常にダイエット中のカオルに甘いものは厳禁だから、腕をふるうのは久しぶりだった。

 彩子は並んだオードブルを脇にのけ、防水クロスが掛かった閉じたグランドピアノの上に皿を置いた。

 「快気祝いだって? 彼女、入院してたわけ」

 紙皿を手にした久能木は、彩子の耳元で囁いた。

 「ほんの四日ばかり」と、彩子も囁き返した。「面倒だから、今回はテープ編集なしのスケジュール調整にしたの」

 「そりゃ助かった」と、久能木は唸った。ビデオ製作会社の彼は映像のプロフェッショナルだが、音声処理にも詳しい。カオルが穴を空けそうになるたびに彩子の懇願に負け、重労働のテープ捏造を引き受けてくれる。

 「ところでさ、辞めるってほんと」

 「そのつもりなんだけど」彩子は口を濁した。

 少し事情が変わっていた。しばらく置いてくれると言っていた神戸の親戚が、急に渋りはじめたのだ。有名菓子店の皿洗いでもやる、と電話でも伝えたのだが、それでも地方では仕事がないのか、ただ面倒になっただけなのか。

 だが、辞めるという噂はすでに久能木にまで伝わっているらしい。

 ならば東京で水商売をしてでも金を貯め、パリの製菓学校にでも留学してやろうかと、彩子は考えていた。

 パリ。パラソルの下のお菓子。

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 「いっそ草津にしようかあ」

 カオルの大声が響き、シャンゼリゼのカフェが霧散した。

 「だーめ、もっと利幅を乗せられるとこにしろ」

 三輪田が笑いまじりに言い返している。カオルと行く○○の旅、という企画はお決まりの冗談だった。

 「そうかあ、辞めちゃうのか」

 と久能木が呟いたとき、リビングのドアが勢いよく開き、ミキサーの川村とレコーディングディレクターが入ってきた。

 ひと呼吸おき、「あー、お待たせえ」とまっすぐに猛進してきたファンクラブ会長の郁美は胸の開いた白いテーラードに金のネックレス、ライトに妖しく光るラメ入りアイシャドウに黒い革の超ミニスカートだった。バックバンドの男たちが一瞬微かにどよめく。

 久能木は跳び上がるようにピアノの裏側へ回り、カーテンの下りた窓際へ逃げていった。以前、アフレコのスタジオで会った郁美を毛嫌いして「みてろ、あの手は今に還暦過ぎたスターの四番目の妻とかになるから」と言っていた。実際、会社勤めの傍ら、今まで五つばかりのFCを立ち上げた郁美の顔の広さは呆れるほどで、カオルの事務所に彩子を紹介してくれたのも高校の同級生だった郁美だった。

 郁美は彩子の肩に抱きつくと、あれは何、とピアノの上の包みを指差した。

 「早苗ちゃんのお土産。苺でしょ」

 FC新人幹部の早苗を、郁美はちらりと見た。

 ピアノの脇で微動だにしない早苗を見かねたように、スタイリストの里佳がジュースのグラスを手渡していた。

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 「なぜか俺、こないだディカプリオの夢見てさ」

 ソファの近くで誰かの声が響き、同時に郁美がピアノの上から包みを引ったくった。「あたしも、二、三日前見たんですう」

 素早く駆け寄り、ソファの足元に坐り込むと、今買ってきたかのように苺をテーブルに置いた。

 「どいつもこいつも悪趣味め」

 愉快そうなカオルの声がして、古い曲のサワリを歌いはじめた。替え歌なのか、大袈裟な笑い声があがる。オン・ステージっと叫ぶと、カオルはいかにも病み上がりふうの長いスカートで、マドンナの物真似を始めた。昔、コンサートで笑いをとったネタだ。それからソファの前へ出るとゴリラのように頭を掻き、マイケル・ジャクソン風に首を回して見得を切り、スカートの裾を蹴り上げる。目を寄せて仁王立ちすると、三輪田とベースの竹野さんが立ち上がって喝采した。他のスタッフはソファ越しに仰け反るように見物している。

 「いよいよ難しいなあ。カオルも」

 グラスを手にした彩子の脇に、いつのまにか郁美がいた。

 「古すぎるよ、すべてが」

 そうかもしれない。山崎ハコの再来、和製k.d.ラングと、デビュー当時の業界での裏キャッチフレーズは古色蒼然としている。

 だが「華麗なるカメレオン」と呼ばれた七変化は、いまだ神通力を失っていなかった。ギャル男じみたジーンズで野原にしゃがめば突っ張った少年そのものだし、ペットの大トカゲを肩に載せ、恋人同士のように見つめ合えばカメレオンならぬトカゲに似る。カーディガン・エンジェルスと呼ばれる黄色いカーディガンのFCのメンバーに囲まれ、顎が外れそうな大口で笑えば、豪快なカリスマだった。

 「ま、どこの会社にも宴会を沸かせる芸達者っているじゃないさ」

 当のFC会長の郁美は、芸能人進化論のオーソリティでもあった。

 「だけどそういう座持ちのいいのにかぎって、ちょいと情緒不安定で出世しない。カオルって結局、そんなのと大差ない」

 カオルは狂ったように獅子舞を続けていた。

 「芸能人ってのは必ず落ち目になるもんだけど」と、郁美は呟いている。「落ち方ってもんはあるし、そこが勝負だよね」

 と、そのとき何かが飛んできた。

 郁美は素早く身を翻し、彩子のグラスが割れた。

 赤ワインが伝い落ち、絨毯に広がった染みの真ん中にカルティエの金のブレスレットがあった。

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 皆が黙り込んでいた。

 「入院生活で痩せたかな。すっぽ抜けちゃったよ」

 カオルは憮然として手首をさすり、白けたようにどさっとソファに腰を下ろした。

 彩子は絨毯にしゃがみ込んだ。

 「危ない、触らないほうがいい」と、頭の上で声がした。

 掃除機が差し出され、見上げると、見覚えのある顔があった。

 「よお、」カオルが急に機嫌よく手を振った。「来てくれてたの。嬉しいな」

 彩子は反射的に、部屋の奥のウォークイン・クローゼットに駆け込んだ。

 白水。なぜ、あのカメラマンが。

 リビングで、また屈託のない笑いが湧き上がっているのが聞こえてくる。グラスで切ったのだろう、彩子の指先からは血が出ていた。

 「何やってるのさ。粗相の始末もしないで」

 灯りを点けて、郁美が入ってきた。クローゼットは来客の荷物置き場になっている。

 「酔っぱらっちまったんじゃないでしょうね、あんた」

 その郁美の方が早くも酔いがまわっている。

 「馬っ鹿みたい、舞い上がって見てられないわよ」

 何のことか、彩子にはわからなかった。

 ほら、と郁美は膨れっ面でドアの外を指差す。蝶番の隙間から仕方なく窺うと、ピアノの脇に棒立ちになっている早苗に、カオルが何やら盛んに話しかけていた。

 「新顔をちやほやするのはカオルの癖だけど。あの娘、恍惚としちゃって。だいたい銀杏色のVカットブラウスに幅広のパンツって、去年の秋の集いのときのカオルの格好じゃない」

 緊張した早苗は、幼女か、こけしのようなボブの四角い頭で頷いている。

 その後ろで、白水が黙々と絨毯に掃除機をかけていた。

 「背格好まで昔のカオルみたいで気持ち悪い。『ルームメイト』って映画みたいだし、」

 あのカメラマンは、と彩子は郁美を遮った。

 「あらカメラマンなの。あんたの昔からの友達なんでしょ。入院中のカオルの退屈しのぎにって、あんたに話し相手を頼まれたって」

 と、そのときベランダから悲鳴が聞こえた。

 一瞬の沈黙の後、絨毯を走りまわるスリッパの足音が響いた。

 見ると、リビングは空になっていた。

 彩子は突然、バッグを取ると、クローゼットを飛び出した。

 「彩子」と、郁美の声がした。庭からガラス越しにもう一度、誰かが叫んだ。彩子は玄関でスニーカーを突っかけ、外廊下から夜の通りへと逃げた。

 

 「駆け込み乗車はおやめくださーい」

 目を覚ますと、車両ドアが閉まるところだった。空いた車内に窓からの陽光が眩しく流れ込む。次は田端、田端とアナウンスが響く。山の手線に乗り込んで四周め、それとも五周めだろうか。

 あれから朝まで渋谷のファミレスにいた。その後、始発からずっと山の手線のこの座席に坐り続けている。

 いったい何をしているのだろう。

 こうしてひと眠りして考えると、あの白水という男が現れたのは不思議でもなんでもなかった。洗濯物のナプキンにあった名前の縫い取りから、カオルの入院を嗅ぎつけたのだ。誰かの知り合いだと言って取り入るのは業界人のよく使う手だ。

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 もう昼近いのだろうか。

 無断で姿を消した彩子に、三輪田もカオルも激怒しているだろう。

 車内には吊革に手首を引っかけてぼんやりしている営業マンらしい男や、座席で深刻そうに眉を顰め、話し続ける三人連れの中年の主婦らがいた。

 これもひとつのきっかけだ、と彩子は思った。

 やはり早くあそこを出るべきだ、という徴だろう。

 もちろん、それは占いなどではなく自分の判断だ。採るべき道を占うなど、もうまっぴらだ。そもそも、あのとき根木の予言なんぞに乗らなければ。

 首に下げた携帯の紐が絡まっていた。外そうとしてそれが滑り落ちたとき、着信を確認しようと、やっと思い出した。

 

 芸能事務所は千駄ヶ谷の表通りを一本入った小さなビルの三階を占めている。

 スタッフのデスクには相変わらずスケジュール表が重なり、煙草の脂が染みついた壁はタレントのポスターが隙間なく貼られていた。中央は今、ここで唯一売れている男の子二人のユニットだ。古ぼけたカオルのポスターは、変わらず社長のデスクの真後ろにあった。

 「それで、ケーシャの様子はどうだ」

 彩子の顔を見るなり、三輪田はカオルのペットのことを訊いた。

 「大トカゲがどうかしたんですか」

 「君、動物病院に泊まり込んでたんじゃないの」三輪田は驚いていた。「姿が見えないから、そうとばかり思ってたよ。ベランダのバーベキューコンロの焼き網の上で寝てたんだ」

 夕べの騒ぎは、焦げかけたトカゲに家政婦が仰天したのだと言う。

 「睡眠薬でも飲まされてたのかねえ、大火傷で生死の境をさまよってる。カオルに尻尾捕まれて振り回されたり、口につっかい棒されたり、ただでさえ生傷が絶えないのに」

 可哀想に、と三輪田はため息を吐く。が、「それはともかく、」と上着のポケットから電子手帳を取り出した。

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 「㈱タカノヤって知ってる」

 「あの、茹で饂飩とか作ってる」

 「そう。さっき正式に、カオルにテレビCMの話が来てさ。新ブランドで冷凍洋食を扱うんだって、新曲とタイアップでね」

 三輪田は笑みを浮かべ、君のおかげだ、と言う。

 「どういうことですか」

 「聞いてないの。昨日いたカメラマン、君の友人だろ。彼の紹介で実現したんだ」

 三輪田は彩子の顔を窺うように覗き込んだ。「で、企画を通じて君が面倒見てくれるように、だって」

 「どうして、そんなことに」

 「近く辞める予定だ、とは伝えたよ。だけど白水さんは、自分の頼みなら聞いてくれるはずだ、って。君ならカオルをちゃんと管理できるだろうし、それが条件だ、と」

 頼む、と三輪田は掌を合わせた。「たった三ヶ月ばかりのことじゃないか」

 「無理です。カオルさんだって、もうわたしとは…」

 三輪田はいきなり立ち上がった。

 「おい、よこせ」

 スタッフが握っている受話器をむしり取り、「なに、真奈美のロケでぶちまけた発泡スチロールの雪なんぞ、」

 シカトだ、と怒鳴った。

 「原状回復なんかできるかよ。国立公園がどうした、制作の連中、ゴミ拾いで滞在を延ばす気か」

 そのとき、派手な音を立てて事務所のドアが開いた。

 「やあ諸君。ごっぶさたあ」

 だぶだぶのウェスタン・ジャケットに、テンガロンハットを脇に抱えたカオルを事務所中のスタッフがぎょっとして眺めていた。

 昨日まで長かった髪を刈り上げ、坊主頭でドアに片手をついている。

 「バスルームでバリカン使ったんだ。今、タクシーの運ちゃんが、男だと思ったって」と、カオルはにこにこする。

(第03回 第2章前半 了)

 

 

* 『お菓子な殺意』は毎月02日に更新されます。

 

 

 

 

 

■ 小原眞紀子さんの本 ■

メアリアンとマックイン 水の領分

 

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