ns_02_cover_01金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

Ⅰ 序論-漱石と「夏目学」(後編)

 

 

 わたしたちが漱石文学に惹かれる二つ目の理由は、言うまでもなくその内容にある。それは一般的に〝近代的自我意識(文学)〟と呼ばれる。

 

 江戸までの日本は封建社会だった。孔子の正名(せいめい)論に基づく身分社会フレームである。孔子は人や物にはおのおのその固有の本質(正名)があると考えた。一種のイデア論である。この思想に基づき、江戸幕府は君主には君主の、臣下には臣下固有の本質があるのであり、その(ぶん)を守らなければならない、超えてはならないという社会制度を定めた。

 

 この封建身分制度は明治維新とともに瓦解する。それを端的に表すのが「立身出世主義」の風潮だった。人間は生まれた身分にとらわれずに自由にその才能を伸ばし、社会で活躍できるという思想である。江戸時代までは「自由がましく」という言い方は、「まことに身勝手ながら」という意味だったが、明治になって「自由」は人間のポジティブな権利だとみなされるようになった。自由民権運動などの社会運動の基盤にあるのも、この人間生来の自由意識(権利)である。ヨーロッパは実態として身分社会だったが、新興ブルジョワジーの台頭により自由主義思想が広く受け入れられていた。自由主義はヨーロッパ、それにアメリカからもたらされた新思想である。

 

 ただこの自由主義思想には大きな問題があった。人間が生来自由の権利を有しているとしても、身勝手に振る舞っていいことにはならない。人間は社会的動物でもある。つまり人間の強い自我意識はそれを押し通そうとすれば、必ずと言っていいほど社会と衝突する。

 

 この近代的自我意識問題は、長い年月を経るうちに、今日では中庸な落としどころを見出している。しかし明治初期はそうではなかった。新しい思想であった分、政治はもちろん、宗教、恋愛、セックス、親子、主従関係など、社会のあらゆる場面で人間の自由意識と、そう簡単には変えられない既存の社会規範がぶつかり合った。

 

 漱石は明治とともに生まれた子だが、その精神はどちらかと言えば古い封建社会に属していた。彼は新渡来の自由主義思想に驚き、今日のわたしたちから見れば過剰なほどその危険性に怯えた。初期作品になるが、『虞美人草』のヒロイン藤尾(ふぢを)や『三四郎』の美禰子(みねこ)の描き方を見れば、漱石が身勝手――つまり人間の強い自我意識の行使に否定的だったことがわかる。

 

 ただ漱石は、じょじょに近代的自我意識と社会との関係に折り合いをつけていった。人間が本来的に自由であるとしても、それを統御する上位思想(観念)が存在するはずだと考えるようになったのである。いわゆる「則天去私」の思想である。読み下しは「天に(のっと)って私を去る」で、人間の自我意識よりも高次の、天の思想を重視するといったくらいの意味である。

 

 帝国大学の学生の頃から漱石に私淑した小宮豊隆は、「漱石が、それに(つか)へる事を無上の歓びとした、より高きイデーとは何であるか。――それは言ふまでもなく、漱石の所謂(いわゆる)「則天去私」の世界である。()(のっと)つて()を去る世界である。換言すれば、漱石が、人間の心の奥深く巣喰(すく)つているエゴイズムを摘出して、人人に反省の機会を与へ、それによつて自然な、自由な、朗らかな、道理のみが支配する世界へ、人人を連れ込まうとする事である」(『夏目漱石』傍点小宮)と書いている。小宮の批評は的確だ。現代でも多くの読者は漱石の「より高きイデー」に惹かれている。

 

 人間のエゴイズムを超えたイデーはあると考えたという意味で、漱石は倫理的な道学者だった。実際、エッセイや手紙などを読めば、漱石が極めて穏当で常識的な考え方をする文学者だったことがわかる。そのため小宮や森田草平(そうへい)など漱石生前から親交があった文学者はもちろん、没後も漱石を「先生」と慕う読者や文学者は多い。だが漱石は小説家である。詩や思想は一つの断言であってよく、「確かにそうだ」という直観的真理を端的に表現する。しかし小説は違う。これが本来あるべき理想だとわかっていても、「だがしかし」から始まる。実際、漱石の小説は「則天去私」を理想境にしているが、現実世界でのその実現が極めて困難であることを描いている。

 

 漱石は『彼岸過迄』あたりまで、自分とは年の離れた若い男を主人公にして小説を書いた。人間のエゴイズムと社会との軋轢を描くにしても、主人公との間にはかなりの年齢差があった。しかし『行人』以降の作品ではより自分に近い年齢の主人公を設定するようになる。批判的視線で若い人の突飛な行動を叙述することはなくなり、小説の大半は主人公の内面描写に変わる。エゴイズムによって周囲の人々と衝突するのは若者だけではないからである。また利己主義(エゴイズム)でなくても、人間にはそれぞれ固有のどうしても譲れない自我(エゴ)(意識)がある。漱石は自己の中にも確実に存在するエゴに正面から向き合おうとしたのだった。

 

 この漱石のエゴイズムを巡る問題は、小説では「人間同士の無媒介的かつ全面的な相互理解は可能か」という主題に絞り込まれている。この主題は初期の『坊っちやん』から遺作となった最晩年の『明暗』まで一貫している。

 

 現実に即せば、つまりリアリズム小説では、この主題を「可能」だという結論に導くことはできない。しかし多くの読者は漱石が作品中でそれを表現しているはずだと感じている。漱石が理想とした「則天去私」の境位が、必ずや小説の中に書かれているだろうと予感しているのである。端的に言えばそれを明らかにするために、現在まで漱石全集(岩波書店最新版で全二十九巻)の数百倍はあるだろう、夏目漱石論が書き継がれてきた。いわゆる「夏目学」である。しかし現在に至るまでそれは予感のまま留まっている。

 

 簡単にまとめれば「夏目学」は、今まで述べたような漱石文学がわたしたちを惹きつけてやまない二つの理由、つまり①文化・文学史的観点と、②テキスト読解(作品読解解釈)の両面からなされてきた。

 

 漱石のような近代文学の古典作家が、その伝記まで含めて論じられるのは当然である。文学者は必ず生育環境や時代状況の影響を受けるからである。生育環境とないまぜになった時代精神を最も敏感に感受できた作家が、各時代を代表する作家になってゆく。

 

 しかし時代状況や風俗は必ず古びる。作品でどんなに的確に時代精神を表現していても、それだけでは何世代にも渡る読者を獲得することはできない。作品が時代精神を超えたある普遍性にまで達していなければならない。その普遍性を探るためにテキスト読解が必要になる。

 

 このテキスト読解は、徹底した意味解釈から為されてきた。誰もが漱石は思想的作家だと認めている。漱石の思想は英文学研究はもちろん、エッセイや手紙などにも表現されている。しかし小説は思想書ではない。そもそも下世話な現実を忠実になぞる小説には観念的飛躍があってはならないのだ。そのため漱石がエッセイなどで表現した思想を軸に作品が読まれることになる。作品ではっきりとは示されていない漱石の理想的境位(むしろ漱石の小説は苦悩に満ちている)を、則天去私思想などから強引に読み解こうとするのである。

 

 だが漱石の小説と思想には明らかな乖離がある。その溝を埋めために、批評家はしばしば漱石文学に仮託して自己の夢を語ってしまう。漱石ほど「漱石先生に学ぶ」といった、評者が自己の夢や希望を託した評論やエセーが多い作家はいない。

 

 この「夏目学」を巡る半ば必然的な陥穽は、漱石文学を構造的に読み解くことで解消できる。確かに『心』などの漱石作品は現世的苦悩に満ちている。しかし多くの読者が感じているように、そこからの超脱の道が示唆されていないわけではない。ただそれを小説の筋や登場人物の言葉だけから読み解くことはできない。

 

 小説は現実世界の忠実な鏡像だが、作家が意図的に作りあげたフィクション世界でもある。作品は作家による言語的な一つの小宇宙であり、そこには必ず構造がある。作家の思想は作中人物の関係性や、作品世界と作家の位置関係といった、広い意味での「文体構造」によっても示されている。作品世界は苦悩に満ちているとしても、それを客観的に描写できる作家は一段高い審級にいる。

 

 そこで本書では、漱石文学を③文体構造的に読み解いている。だがなにせ相手は没後百年になってもいっこうに人気が衰えない漱石である。子供時代の作文から創作メモ、書画にしたためた揮毫まで全集に収録されている古典中の古典作家である漱石(定期的に改訂され続けている漱石全集ほど完璧な個人作家全集はない)を論じる際には、従来の文化・文学史的検討とテキスト読解も重要である。古典作家である漱石の歴史的位置づけは避けて通れず、文体構造分析の前提となる作品の意味解釈も不可欠である。そのため本書は漱石小伝から始め、英文学研究から遺作『明暗』までを年代順に読んでゆく。いわば正面中央突破で漱石文学の全容を明らかにしたい。

 

 ただ本書は専門家向けの作家論ではない。漱石をまだ読んだことのない読者や代表作しか読んだことのない読者が、漱石がどのようなことを考え、それをどう文学で表現したのかを概観できる入門書であることも本書の重要な役割である。またすでに漱石文学に深くなじんでいる皆さんには、構造読解がその多面性を理解するための鍵となるだろう。

 

 漱石デビュー作の『吾輩は猫である』は明らかにユーモア小説である。『坊っちゃん』は痛快な青春小説で、『草枕』は日本文学ではほかに例がない俳文小説だ。漱石は様々なタイプの小説を書き分けている。小説のタイプだけではない。『心』を始めとする後期小説の読解はほとんど無限に多様である。ソースは一つなのに、なぜ様々に読み解くことができるのかと言えば、作品がミラーボールのように多面的だからだ。この多面性は漱石文学を構造的に読むことで理解できる。また作品構造の把握は小説家を目指しているみなさんにも有用なのではないかと思う。

 

 漱石に限らないが、日本の文学批評は「作家が作品で何を言いたかったのか」といった意味読解からなされるのが一般的である。しかし小説家は明快な論理としては決して説明できない何事かを表現するために、まだるっこしい舞台や時間を設定し、作家の思想が反映された人物たちを登場させるのである。登場人物の口などから語られる言葉は作家の思想の一端を伝えているに過ぎない。作家の思想全体は、作家と作品世界との関係を理解することで初めて正確に捉えることができる。

 

 作家は読者にとって魅力的な作品を書くために日々腐心している。しかし内容的な面白さを工夫するだけでは十分ではない。それを効果的に表現するための作品構造の理解も必要だ。漱石はそれを中年にまで至る英文学研究で把握した。だから漱石はユーモア小説から純文学まで無理なく書くことができた。漱石は純文学作家であり大衆作家でもある。漱石は定期的に小説の作品構造――つまり作家主体による世界認識構造(方法)を変えている。世界は悲惨であり滑稽でもある。

 

 わたしたちは、言ってみれば漱石から始まる近・現代文学の時間軸の尖端にいる。その間の日本文学の発展を考えれば、もはや漱石のようにヨーロッパ文学と日本文学の質的差違に思い悩む必要はないだろう。ほかならぬ漱石がヨーロッパ文学の的確な理解に基づいて、それを日本文学にローカライズしてくれたのである。

 

 ただわたしたちは現在、明治維新とは比べものにならないが、インターネット中心の、静かだが世界全体の構造を変える高度情報化社会という大変革の真っ直中にいる。この静かな革命によって文学の世界もまた動揺している。社会全体の変化の行く末が見えない状況の中で、文学もその方向性を見失っているのである。

 

 純文学の特権性や、文学者の常人離れした見 人(ヴォワイヤン)のような感性といった、戦後文学の神話を額面通り信じられる作家や読者は今後ますます少なくなってゆくだろう。こういった状況の中で、わたしたちの文学の基礎を、漱石文学を見つめ直すことはとても大切である。

 

 漱石は優れた知性の持ち主だったが、恐ろしく愚図でもあった。尾崎紅葉や幸田露伴といった同い年の作家は、二十代早々にデビューして文壇の寵児となった。しかし漱石は三十九歳になるまで英文学者の一人であり、文学的にはほぼ無名の、親友正岡子規門の群小俳人の一人に過ぎなかった。

 

 その間漱石は何をしていたのか。最低限度の文学活動でガス抜きをしながら考えていたのである。それだけ明治は未来を予測するのが難しい時代だった。そしてデビュー後の漱石の軌跡は、彼が考え抜くことによって把握した文学のヴィジョンが正しかったことを証明している。実際、漱石作品は没後百年を経ても読まれ続けている。それは未来へのパースペクティブを持っている。わたしたちは漱石文学を検証することで、わたしたち自身の文学のヴィジョンをつかむことができるだろう。

鶴山裕司

 

* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

 

 

■鶴山裕司詩集『国書』■ 

国書

 

■ 夏目漱石の本 ■

 

■ 予測できない天災に備えておきませうね ■