山本俊則さんの美術展時評『No.063 生誕三百年記念 若冲(下)』をアップしましたぁ。若冲さんは畢生の大作連作『動植綵絵』の寄進完了をもって、自分の生涯の仕事は終わったと考えていました。早々と生前墓を建て、自分の死後に町内に不動産を管理してもらってそこから定期的に相国寺に供養料を寄進する契約を結んでいます。それは若冲55歳の時のことで、人生50年の当時としては老年だという意識もあったでしょう。でも実際には若冲さんは85歳まで長生きなさった。そのあたりの機微を若冲の導師である相国寺の大典は、禅僧らしい厳しい目で見ていたようです。

 

 大典の『碣銘』の結びだが、その解釈はなかなか難しい。「あなた(若冲)がもし生きながら墓を建てるなら、どうして張思恭(ちょうしきょう)の仏画を模写しただけで、すべての事業を終えたと満足できるのだろうか。それで生きていることの意味を本当に理解したと言えるのか。これを銘(墓碑銘であると同時に若冲のための座右の銘)とする。この銘は生まれて死に、人間の業が尽きて安らかに土の下で眠る者のためのものである。(この銘は)あなたを強く救済するだろう」といった意味だと思う。(中略)

 大典の「銘」は、生きながら浄土に至ったかのように錯覚した若冲への〝喝〟のようなものだっただろう。実際、若冲は『動植綵絵』寄進後に現世の荒波に曝されることになる。大火で家を失い、相国寺との永代供養の契約を解除せざるを得なくなった。家督を譲った次弟・宗巌にも、末弟・宗寂にも先立たれてしまった。また若冲の悠々自適の生活を経済的に支えていた錦小路高倉市場が営業停止になり、その再開のために奔走しなければならなかった。若冲の生は現世の無常に試されることになったのである。

(山本俊則『若冲論(下)』)

 

山本さんはまた、大典は禅の導師だが、若冲の心性は密教的であったとも論じておられます。さらに『若冲を始めとする優れた江戸の作家たちは、考えて描いていないのである。もう少し正確に言えば、わたしたちのように自我意識を中心に据え、オリジナリティを至上として作品を創作していない。彼らはまず徹底した手の職人であり、手が先に覚える技法とほとんど同時にその思想的独自性を生み出している。描くことが先に進むための原動力になる』と、江戸時代の画家の特徴をストレートに考察しておられます。じっくりお楽しみください。

 

 

山本俊則 美術展時評『No.063 生誕三百年記念 若冲(下)』 ■

 

 

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