ns_01_cover_01金魚屋プレスより2017年春頃刊行予定の鶴山裕司著『夏目漱石論-現代文学の創出』を先行アップします。なお本書は近代文学批評『日本近代文学の言語像』三部作の中の一冊で、『日本近代文学の言語像Ⅰ 正岡子規論-日本文学の基層』、『日本近代文学の言語像Ⅲ 森鷗外論-日本文学の原像』といっしょに三冊同時刊行されます。(文・石川良策)

by 鶴山裕司

 

 

 

Ⅰ 序論-漱石と「夏目学」(前編)

 

 

 夏目漱石の人気は現在でも絶大である。松山市は平成十二年(二〇〇〇年)度完成の野球場に、「坊っちやんスタジアム」という愛称を付けた。松山は言うまでもなく正岡子規の生まれ故郷で、子規は明治初期にアメリカから伝わった野球を日本で初めて楽しんだ一人だった。そのため平成十四年(二〇〇二年)には野球殿堂入りしている。「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」という短歌もある。しかし松山の人々にとっては、故郷の偉人子規よりも、「貴君(子規)の生れ故郷ながら余り人気(じんき)(人間の気質)のよき(ところ)では御座(ござ)なく(そろ)」(子規宛書簡 明治二十八年[一八九五年]十一月六日)と書き送った漱石の作品名をスタジアムの愛称にする方が、通りが良かったようである。

 

 また漱石終焉の地(東京都新宿区早稲田南町)は現在新宿区立漱石公園になっていて、漱石の胸像や猫塚が置かれている。新宿区はこの公園内に戦災で焼失した漱石邸(漱石山房)の一部(書斎)を復元する計画を進めている。『坊っちやん』は定期的に映画やドラマ化されており、テレビで猫の特集番組が放映されると、必ずと言ってよいほど『吾輩は猫である』の冒頭がナレーションされる。漱石は初めて紙幣(千円札)の肖像になった文学者でもある。明治維新以降の文学者の中で最も愛されている作家だろう。では漱石文学の何が、かくも長い間日本人の心を惹きつけるのだろうか。

 

 一つ目の理由は漱石が、近・現代小説の基礎を作った文学者だからである。今ではだいぶわかりにくくなってしまったが、明治維新と同時に新たに流入したヨーロッパ文化は、それまでの日本文化とはまったく異質の対抗文化(カウンターカルチャー)だった。

 

 ヨーロッパは中世以降、膨大な時間と知力を傾けて、論理的かつ合理的な思考方法を練り上げた。イギリスを始めとするヨーロッパ先進国は、その緻密な思考方法に基づいて十八世紀中頃に産業革命を生み出し、圧倒的な技術力とそれで得た財力で世界の覇者となっていった。アジア全域がヨーロッパ列強諸国の植民地となってゆく状況の中で、明治新政府は政治、経済、法律から軍事、医学、産業、衣食住に至るまで、国を挙げて先進ヨーロッパ文化を受け入れざるを得なかったのである。

 

 旧暦の慶応三年(一八六七年)一月五日に生まれた漱石は、この大変動をもろにこうむった最初の世代に当たる。大政奉還による王政復古は慶応三年十二月九日で、翌慶応四年一月一日に元号が明治に改められた。漱石は明治とともに生まれた文学者だと言ってよい。ただ代々江戸の庄屋を勤めた家に生まれた漱石は、始めからヨーロッパ文化に親しんでいたわけではない。

 

 漱石は漢籍を好む子供で、最初は漢学者になるつもりで二松学舎に通った。しかしすぐに漢学では将来身を立ててゆくことができないと悟り、英語を学ぶことにした。当初漱石は、外国文学というなら漢籍も英文学も同じであり、英文学も漢籍と同程度にたやすく理解できるはずだと考えていた。だが漱石は、英文学の中に東洋文学とは全く異質の文化を見出した。漱石は学生時代から神経衰弱で苦しんだがその原因の一つが英文学だった。

 

 厳密な用語定義と論理から構成されるヨーロッパ的思考方法は、今日では世界的普遍者の言語・思考方法と呼ばれることがある。民俗や宗教、言語の違いに関わらず、ヨーロッパ的思考方法を採用しなければ現代世界の競争を生き抜くことはできない。だが非論理的で直観的真理を重んじる東洋思想に慣れた明治初期の人々にとって、その習得は簡単ではなかった。

 

 現代から振り返っても、明治維新は一本のくっきりとした断絶線に見える。それもそのはずで、日本は有史以来、ずっと中国を文化的規範として来た。漢字はもちろん、あらゆる先進文化・文物を朝鮮半島経由で中国から受け入れ続けたのである。その文化的規範が明治維新を境にヨーロッパに変わった。古墳時代中期にははっきりと大陸との交流が認められるので、それはほぼ千五百年に一度の文化的大転換だった。大正時代頃までは外来語を漢字に変換するのが常だったが、それ以降、ほとんど漢字熟語は増えておらず、カタカナ語ばかりが新たに辞書に加えられているのもそれを示している。日本文化は明治維新を超える激震を経験していない。

 

 『吾輩は猫である』で作家デビューした後の出版だが、『文学論』(明治四十年[一九〇七年])などの評論集が漱石の英文学研究の成果である。漱石の英文学研究は小説だけでなく、詩や評論を含む幅広いものであり、約一世紀に渡るヨーロッパ文学を網羅していた。それは江戸的な漢学の素養を持った文学者による、維新後初めての原理的ヨーロッパ文学研究だった。わたしたちは漱石の英文学研究を読むことで、ヨーロッパを異和として捉えた日本人が、いかにしてヨーロッパ文学を受用・咀嚼していったかの軌跡を辿ることができる。またこの英文学研究は、作家デビュー後の漱石の爆発的な創作基盤になっている。

 

 漱石の小説家としての履歴はちょっと奇妙である。現代はもちろん明治時代も、小説家は若い頃から小説家になりたいと志して創作に励むのが普通だ。しかし漱石の小説習作は存在しない。明治三十八年(一九〇五年)に俳誌「ホトトギス」に第一回を発表した『吾輩は猫である』が処女作である。原稿依頼した高濱虚子の回想によると、漱石はほんの軽い冗談のつもりで『猫』を書いた。しかし『猫』以降、漱石は怒濤のように作品を量産し始めた。

 

 漱石の作家としての実働期間は、『猫』から大正五年(一九一六年)に死去するまでのわずか十二年である。一度も小説習作で試行錯誤したことのない漱石が様々なタイプの作品を量産できたのは、英文学研究によって小説とは何か、どう書くべきかを考え抜いていたからだと言ってよい。『猫』でデビューした三十九歳という年齢は当時の作家としてはかなり遅い。漱石は人生の大半を英文学研究に費やしていた。

 

 また近・現代文学の祖としての栄誉を一身に集める漱石だが、文学イズムや技法などの面から言えば、決定的に新しい何かを生み出した作家ではない。言文一致体を始めたのは坪内逍遙(しょうよう)二葉亭四迷(ふたばていしめい)である。明治時代に一番売れた小説は尾崎紅葉の『金色夜叉』であり、紅葉は漱石と同い年だが二十代ですでに流行作家だった。島崎藤村の『破戒』が刊行されたのは『猫』上巻が出版された翌年の明治三十九年(一九〇六年)である。それは言文一致体による初めての成功した純文学小説だった。

 

 藤村はまた、『若菜集』(明治三十年[一八九七年])で維新後に始まった自由詩(新体詩)で文学的価値のある初めての詩集を書いた詩人でもある。小説家としての藤村は、田山花袋(かたい)や徳田秋聲(しゅうせい)らとともに、自然主義文学をリードしてゆく。近代文学のパイオニアはすでに明治二十年代に活動していた作家たちである。しかし漱石は新技法の確立はもちろん、ロマン主義や写実主義、自然主義など、当時の文学イズムのいずれにも関わっていない。

 

 日本のような島国では決定的に新しい文化が大量移入されると、まずそれを積極的に受容しようという動きが起こり、しばらくすると日本文化古来の優位性を主張する反動が起こる。それと同時に新文化と従来の日本文化を折衷しようという動きが現れてくる。明治維新の際も同様で、文化人は大別すれば欧化派と国粋派、折衷派に分かれた。実際にはその複合形であることがほとんどだが、明治二十年代の文学界をリードしたのは欧化派と折衷派の文学者たちだった。

 

 二葉亭は言文一致体小説を書く際に、まずツルゲーネフの翻訳を試み、それから井原西鶴の浮世草紙や三遊亭円朝の落語の速記本など、言文一致体に役立ちそうな日本文学の遺産を手当たり次第に活用した。紅葉の『金色夜叉』はアメリカの通俗小説を換骨奪胎したものであることが知られている。藤村は『若菜集』で短歌・俳句の七五調にヨーロッパの恋愛幻想を折衷させた。『破戒』の発想の源になったのはドストエフスキーの『罪と罰』だと言われる。日本のロマン主義や写実主義、自然主義文学もまた、ヨーロッパ本家のそれと従来の日本文学の折衷であるのは言うまでもない。

 

 しかし漱石は、ヨーロッパ文学を意味と形式から原理的に理解しようと試みた。真摯な英文学者だったことからわかるように、漱石もまたヨーロッパ文学から多大な影響を受けた。ただ漱石文学を詳細に読み込んでも、欧米の特定の作家やイズムから決定的な影響を受けた痕跡は見つからない。杓子定規に言えば漱石もまた欧化派と折衷派の中間にいた文学者の一人である。だが漱石は、ヨーロッパ文学と日本文学の原理を理解した上で新しい明治の文学を作りあげた。その証左の一つが親友・正岡子規が俳句研究で見出した写生理論の援用である。

 

 漱石は『虞美人草』(明治四十一年[一九〇八年])あたりまで子規写生理論を使って小説を書いている。それは漱石が英文学研究で得た原理的ヨーロッパ文学理解の上に、日本文学固有と言ってよい俳句による世界認識構造を接続させたことを示している。新しい技法を創出したわけではなく、イズムによって文壇をリードしたわけでもないにも関わらず、わたしたちが漱石文学に強く惹かれる理由がそこにある。

 

 つまり漱石文学は、ヨーロッパと日本文学の原理的理解に基づいている。わたしたちは漱石文学を読むことで、長い長い日本文化に一線を画すヨーロッパ文化の衝撃だけでなく、維新後も変わらない日本文学の一貫性をも読み取ることができるのである。

鶴山裕司

 

* 『夏目漱石論-現代文学の創出』(日本近代文学の言語像Ⅱ)は毎月15日と月末に掲載されます。

 

 

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